我流『年来稽古条々』(4)

粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』(4)

── 子方から青年期・その二 ──

粟谷能夫  
粟谷明生  

明生─ 今回は少し元に戻るかもしれませんが、十番会の頃の話から始めたいと思います。私にとっては前回も述べたように十番会という稽古会で先輩に混じって必ず月に一番ずつ舞うことが出来たことは大変幸せな事でした。十二才頃から実先生がそのときの力量、稽古課程に合わせて曲を決めて下さいまして、会が終わると次は何かなとお聞きするのが楽しみでした。そしてその選曲も舞い物等はやはり舞働、カケリ、中の舞あたりから始まり徐々に男舞、神舞、そして神楽、楽へと順序よく進むわけです。
 ある時こんな事がありました。稽古で笛を森田流にしていましたら本番では一噌流だったのでびっくりしたことがありました。森田と一噌では唱歌や寸法が違うので型や拍子の踏み方も変わってきます。それはどなたがお相手なのかを予め知ることが大事であると気を付けるようになりました。
能夫─ 僕にとっての十番会の意味は普段の稽古で身につけてきたものを、舞台で実践することで段々と囃子との折合や曲の位取りなどが解って来たこと。それから囃子方との出会いがあったということ。同世代だと国川純さんとか小寺佐七さん、大先輩だと敷村鉄雄さん。彼らから囃子方の思いや考え方、他流のこと等、外の世界のことを学んだ。その頃よく敷村さんがご自分の流儀の観世流小鼓のことを、人知れず咲く深山の桜、また幸流の小鼓のことを、華やかな門前の桜だと言ってらした。
 初めは先輩について地謡を謡うことで色々な事を身に付けていったが、先輩たちが次々と卒業して行くと、自分で責任をもって創っていかなければいけないという自覚が出来てき、次の世代の事も考えるようになっていった。
明生─ 私は能夫さんと六つ違いですから私が十番会に入った頃は皆大先輩ばかりで、私が一番下、お囃子の方も同世代の人間はほとんどいなかったので少し寂しかったです。この時期の十番会、養成会で舞歌の舞の方は自分なりにしっかりたたき込まれた感じがするのですが、歌の方となると、謡本は理解できないし、声は出なく音も定まらないからどうも好きになれなく疎かになる。声の出し方については野放し状態で、指導された覚えはなく、このことが後で謡で苦労することになりました。
能夫─ 喜多流の人は仕舞は確りしているのに、能になるとどうして駄目なんだろうと、他流の能も見ている人に言われたことはすごいカルチャーショックだった。そうした外からの意見や、地謡も含めた舞台づくりの大事さ、といったことは他流の能を見たり、人に出会わないとなかなか解らない。
明生─ 他流の人たちとの交流については、これからも度々話が出ることになるでしょうけど。
能夫─ 中学生の頃、太鼓の稽古をしていて、なかなか理解できなかったことに”見計らい”ということがある。大まかな決まりがあって、演技や謡の状況によって色々と変化する。いわば能の醍醐味、本質と言って良い程のことだが、それが段々と見えてきた。自分にとっての大きな進歩だと思う。
明生─ 見計らいは本当に難しいです。私も太鼓は中学に入ると始めましたが、やはり拍子に合わずの所で見計らい乍打つのが難しいです。最初の頃は謡で覚えず、、刻いくつで上げてなんて覚えていましたから全然だめでした。太鼓とか小鼓とか音の鳴る物は習っていても楽しいです。どうするとよく鳴るのかと考えたりして。
能夫─ 見計らうということは謡も囃子も知ってその上での自由さというものだとすると、これが自在に出来るというのは生涯の課題なんだろうけど、ともかくそういうことがあるという事を思い知らされた。
 それにしても最近若い人で舞のアトのアゲの謡い出しが、とんでもないところから謡い出したのがいたけど、あれも考えられないことだ。囃子というのは手組は知らなくても、さあ謡いなさいと誘ってくれるんだから、アンテナをひろげていれば自然に謡えるはずだと思うんだけど…。
明生─ 例えば望月の羯鼓の後に子方が『獅子團乱旋は時を知る』と謡い出すところがありますが、子方にさあ謡えという気迫でお囃子が囃しますし、そのような仕組みになっているので、それを受けてあっここだなと思って謡い出すことが出来る。
能夫─ そこで躊躇したら駄目なんだ。謡い出す勇気と決断が必要なんだ。
明生─ 子供の頃より舞台にたてる、いわゆる家の子というものの功罪は相半ばするとは思いますが、同期の人が少なかった事もあって、十番会のほか能楽養成会、東西合同養成会にもよく出させて頂きました。これらの会は他流との立ち会いみたいなものですから自然と心構えもいつもとは違って異常な緊張もしますが首尾良くいくと自信というか度胸みたいなものが生まれるみたいです。失敗するとかなり落ち込む。一回花月の能の時絶句してしまい、今でも覚えていますが次の日もう父がその話を知っていて、ああいう会では絶対に間違えてはだめだと大層おこられました。
能夫─ 振り返ると、良くも悪くも自分のなかに粟谷の子だというプライドのようなものがあったな。それが隠れ蓑になっていたかも知れない。でも、いろんな人や舞台との出会いのなかで、外の世界が、先の先があるということを思い知った。
 大事なことはあくまで個から始まるのであって、個が十全になってはじめて家を支えることが出来るんだと自覚するようになって来た。

(つづく)


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