我流『年来稽古条々』子方時代(2)


粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』子方時代(2)

粟谷能夫  
粟谷明生  

能夫─ 子方をやっていてシテの演技を鮮烈に憶えているという経験でいうと、実先生の『安宅』で、義経が留められて「腹立ちや、日高くは能登の国までさそうずると思いしに……」という言葉と、後で写真で見た姿が忘れられない。メインの場ではないかも知れないけれど、一人言のようでもあり、また相手に聞かせるという複雑さが伝わって来て、いいセリフだなと思ったし、自分もあんな風にやりたいなという指針になった。
明生─ すぐその後に金剛杖で打たれる所、稽古の時は実際に笠をつけないのでよく解らなかったんですが、本番では本当にボコボコ叩かれるので、両手でしっかり笠の紐を持っていなければいけないのだ、とか、「通れとこそ」の時も実先生のはとても力強く本当に突き飛ばすようだったので、すーと速やかに歩まないといけないとか、体験しながら憶えたことを思い出します。『富士太鼓』や『望月』ではお相手の方により、謡の早さや、音の高さなども子方の調子に合わせて謡われる方もあれば、シテやシテ連の本来の位通りで謡われる方もいらして、子供心にも色々あるんだなーと思いました。例えば、『富士太鼓』の「打てや打てやと攻め鼓」の所、ある時は子供らしく、さらりと打つ場合もあれば、また謡一杯粘るようにしっかり打たされる時もあり、このような経験は今の私に大きく役に立っていると思います。私はとにかく子方の回数が多くて、調べてみたら百十九番。小学四年生位から声変わりが始まり、子方らしい高い、澄んだ声が出なくなり、自分自身に徐々にいら立ちを感じ始め、ついには謡に劣等感を持つようになってしまい、自分なりに悩みました。生まれつきの良いつつ(喉)に恵まれない分、自分なりに工夫し声を創っていかなければならないと思い始めた最初ですね。
能夫─ 僕がめぐまれていたと思うのは、子供の頃から、実際に面装束にふれながら父に色々なことを教わった。また大事さも知った。やはり子供の頃から面を見ているものと大人になって見るのでは自ずから違いが出て来る。良い面というのも、手にとって見ただけでなく、実際舞台で生かされるのを見て知った。辰三さんが装束を出していて、それを手伝っていて厚板と唐織の違いも分からなくて、それが口惜しくて大いに勉強した。
明生─ 私の子方の卒業は十二歳の時で、実先生の『満仲』で幸寿丸でした。だから私の子方時代の幕切れは斬られて終わり。その時に忘れられないのは、美女丸をやる同じ年の素人の子なんですが、美声でね、声で悩んでいた自分にはすごく羨ましかったです。この声の問題はまたあとで話にでると思うけれども。
能夫─ 
僕は『烏帽子折』だったけど、いまでこそ『烏帽子折』で子方卒業というけど、当時は勿論そういう自覚はなかった。今にして思えば、実先生がそういう場を作ってくれたと思うけど、週二回位のペースで実によく稽古してくれた。そういう意味ではうまく育ててくれたし、育てられた。
明生─ とにかく子方時代は終わった後は必ずご褒美が頂けたし、褒められたし、これが結構気分よくて、そうして知らないうちに、次から次へと舞台に立たされるわけです。
 子方を卒業したあとには、色々な難関が待っていました。なによりもまず謡本が読めないんです。それまでは先生が、見本として謡ってくださり、それを鸚鵡返しで憶えるという稽古でしたが、中学生になると突然、いついつまで憶えてくるように、と言われるのです。さあ謡本をあけても節付の意味がさっぱりわからない、今までに謡った箇所は解るのですが、初めての所はどのように謡うのか解らない、この謡本に全く歯が立たない状況には自分ながら愕然としました。
 謡の仕組みはこのようで、この節の時はこのように謡う、などという事はなく、自分でどうにかしろという風潮ですから、親切な教わり方も子方と共に卒業させられた訳です。とにかくこの状況が急に襲ってくるんです。
能夫─ そう、子方時代何の苦もなく憶えられていたから自分では出来ると思っている。それが謡本を見ての稽古になると全く理論が解ってなかった。ともかく節付が読めない。
明生─ 中学一年生で太鼓を習い始めた頃、大ノリなら、まあ何とか謡えますが、小ノリとなるともう全然お手上げ、小鼓の稽古が始まると自分のさえ憶えていくのが大変なのに、先輩の、それも『柏崎』や『朝長』をいきなり地拍子に合わせて謡うわけですから、そりゃもう聞けたものではなかったでしょう。
能夫─ その時に思ったのは、節付を理論としても解し、地拍子も身につけ、文章も理解し憶え、その曲にふさわしい謡を謡えるようにならなくてはいけないと思った。
明生─ 私は謡で苦労したから余計思うのですが、我が流は謡に関しては野放し状態でした。子方から青年期への大事な時期、もっと指導者がしっかりした方向性を指示していく必要があると思います。
能夫─ 自分なりに謡と対峙したけれど、謡ということにぶつかったのは二十歳過ぎて青年喜多会で『玉葛』をやった時に、悲しい役の女性ということで多分に情緒的な、女々しい謡を謡った。それは違う、もっと身体の奥底から出す強い声で謡わなくてはいけないと言われた。

(つづく)


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