我流『年来稽古条々』子方時代(1)


粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』子方時代(1)

粟谷能夫  
粟谷明生  

創刊号で予告しましたように、我々の自己形成を振り返る、我々にとっての年来稽古がどういうものであり、何を学び、何が問題であったかを考えてみます。

能夫─ 僕は昭和三十二年に祖父益二郎が亡くなるまでは稽古は祖父にしてもらった。まだ中野の舞台が出来る前で、朝起きると布団を畳んでそれを片づけ、それに唐草の大風呂敷をかけて八畳二間ほどの所が稽古場になる。南側に縁側があってそれが橋懸代わり、ノレンが揚幕代わりになっていた。そこで祖父に向かい合って謡や仕舞の稽古をしてもらった。その部屋の昔の白い電気の笠を道成寺の鐘に見立てて遊んだ記憶がかすかにある。
明生─ 私はそのころは全く覚えてないです。祖父が亡くなったとき二歳ですから。
能夫─ 子方時代で僕が一番鮮烈に覚えているのは、やはり益二郎が舞台で亡くなった『烏頭』で子方を勤めていたことだ。前日申合わせがあって、行き帰りおじいちゃんと行動を共にしていて染井能楽道の帰りに中野の駅でうどんを食べた記憶がある。
 当日の舞台で後シテの出で「陸奥の…」と一言謡って常座で倒れて、人々が右往左往していたことを覚えている。それからこれは後で人から聞かされたことと自分の記憶とが一緒になっているかも知れないが、もうこれで駄目なら最後だと、主治医の先生が心臓に直接モルヒネを注射していたのを記憶している。
明生─ 幸雄伯父から聞いた話ですが、祖父が倒れて地謡後列の親父や新太郎伯父が楽屋に入って行き、戻って来て、後見だった後藤栄夫(観世栄夫)さんが代わって舞う地謡で「親は空にて 血の涙を…」というところを、とても尋常ではない絶叫のような調子で謡うのを聞いて、ああ、もうこれは駄目なのだなあと思った、と聞いています。
能夫─ 僕の子方時代で一番鮮烈な記憶だ。子方時代は舞台の前になるとプレッシャーのためか熱を出してしまい、舞台上で責任感と高熱の引っ張り合いのなか、不思議な緊張感を体験しました。
 教わる時は一対一で口移しで教わったが、高い声で一杯に謡わされた。これが何より大事だと思う。こういう教え方が今は出来なくなって来ている。
明生─ 私の子方時代の出演記録を調べると、他に子方がいなかったせいと、またその頃からいろいろな会が増えたせいもあると思うが、とにかく集中して忙しかったです。
 教わるといってもせいぜいきっかけになるシテの言葉の一句前位からしか教えてもらえないし、曲の筋も教えてもらえない。だから例えば『国栖』の子方をやったとき、舟の中に入り隠れ、それから出て来たら後は帰るだけだと教えられていても、そのあとに長々と天女の舞があったりすると自分はもう帰っていなければいけなかったのではないかなどと思ったり、全く違う曲に出てしまったのではないかなどと悩んだりしたことがありました。だからある程度曲の筋を教えておいて欲しかったです。
能夫─ 教えられたシテの句が何時出てくるか何時出てくるか、と待ち構えることで、緊張が持続する仕掛けなんだろうけど、これからはそれだけでは充分ではないだろうな。
明生─ 息子が去年『隅田川』の子方を勤めたとき、子供から「どうして死んだ自分があそこで出て行くの?」と問いかけられた。今の子供達は昔のようにうぶではないから、ストーリーと役についてある程度教えておく必要があると思う。
 私はいろいろな舞台で子方を勤めたが、その度に必ずどなたかが、遊んでいる自分をその日の舞台に立たせ、今日はこの所でこっちを見るんだよとか、止まる所はここだとか注意や確認がありました。これは今にして思えば、実に有り難いことで、今日になっても舞台に立つときは、前以て舞台のすべり具合や位置、方角などを見る習慣がつきました。
 それと私の場合は子方が多くて、例えば「船弁慶」なんて度々やらされていると、アシラウ所なんかもなんとなく解ってくるので、今日は誰々だからここでアシラッた方が良いとか、今日は伯父だから見ないほうが良いのだとか、子供心にも相手とのかけひきみたいなものを小さいときから覚えたみたいです。
能夫─ 僕は祖父が亡くなって、実先生のところで子方のお稽古を受けるようになって、前以て親父に教わって憶えて行って稽古をうけるのに、どうした訳か最期の言葉を教えてもらってなかった。子供心にまだ何かありそうな気がして親父にもっとあるんじゃないかと聞いたが、無いと言われた。それが実先生の所に行って取りこぼしがあると知って、悔しくて泣いてしまった。その頃からだと思う、自分でやらなければいけないという自覚というか、自我が出来て来たのは。

(つづく)


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