粟谷菊生氏が語る、次男・菊生

今回のちょっと一言は以前、国立能楽堂のパンフレットに記載された「西哲生の【聞書き】近代能楽私史◎巻之二十二、粟谷菊生氏が語る、次男・菊生」に少し手を入れまして、ご紹介することにいたします。(平成15年10月31日)

粟谷家と広島
 私ども粟谷の家は、もともと和歌山の出身です。浅野家が紀伊から広島藩主として安芸へ移ったとき、ついて行ったようです。広島に粟谷家の墓地があり、その寺も原爆で焼かれてしまいましたが、墓には「茶屋新三郎」と曽祖父の名が書いてあったのを覚えています。なぜ粟谷姓に変わったのかはわかりませんが、もとは茶屋姓だったのです。粟谷家
 父の益二郎は、本籍名では益次郎となっており、一人っ子でした。父は、子供たち全員に能をやらせるのは危うい、菊生は愛敬者だから養子にだしたほうがいいと親類から言われたそうですが、番組に粟谷の名前を沢山書きたかったのでしょうか、4人ともにこの道に進ませたのです。

 私の名は、大正天皇の天長節の日に生まれたので、菊生と喜多実先生がつけて下さいました。ちょうど本日で満八十一歳となりました。兄は、祖父・新三郎、先代喜多六平太先生、父・益二郎の三人から一字ずつとって、六平太先生が新太郎とつけて下さいました。弟の辰三は辰年生まれの三番目で辰三、末弟の幸雄は時の総理大臣、浜口雄幸の雄幸を引っくり返して幸雄。子供の命名も、下に行くほど、雑になってきますね。

 いま東京では私と辰三、それに、それぞれの子供たちと、兄新太郎の息子の能夫とでやっていますが、幸雄は福岡にいます。九州には喜多流の地盤があるのだからと、喜多実先生の命令で、幸雄が派遣されたのです。

兄弟仲のよいこと
 子どものころの思い出と言われると、お膳が丸かったことを思い出します。食事の時、すき焼の鍋がお膳の真ん中に置かれる、家族の誰からも鍋までは等距離だったわけですね。兄は春菊の下にこっそり肉を隠すことがあり、私はそれを見つけては素早く奪い取る。こんな状況でしたから、すき焼の肉をよく煮えてから食べた経験は少なかったです(笑)。子どものころはよく兄弟喧嘩をしました。しかし長男の兄には、一家の中で権力をもっていた昔気質の祖母がついていましたから、兄に勝つには容易なことではありませんでした。次男は長男の三倍の努力を、弟子家は宗家の三倍の努力を、つまり私は九倍の努力をしなければならないのだ、と私なりの持論はこのころからはじまったとも言えるかもしれません。

 粟谷の家は仲がいいとよく言われます。「その秘訣は」と皆さんから聞かれます。「本当に仲がいいはずなかろう」と言う人もあります。父は六十六歳で亡くなりましたが、私たちはまず兄をたてて粟谷家の団結を図りました。マネージメントは、次男の私がやっておりました。よそから粟谷へと頼まれた能は、兄へ持っていきます。
2人ともがスターを目ざせば、なかなかうまくはいきません。そこで、ずうっと兄をたててきたのです。五十歳を過ぎてからは、私の余生もいつまで続くかわからないのですから、粟谷家に能をと頼まれれば、兄ですか、私ですか、どちらをお名ざしですか、と伺うことにしました。今は、すべて甥の能夫と息子の明生にまかせていますが。

小袖曽我、右父・粟谷益二郎、左・正木亀三郎
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 父は明治三十五年に広島から上京し、先代六平太先生に師事しました。広島の饒津神社の神能で舞った父を六平太先生がご覧になり、スカウトされたのです。先生と父とのつながりは、単に師弟というだけではなかったようです。父は先生を親と思っていたのでしょう。父が『烏頭』の演能中に舞台で倒れ、亡くなったとき、六平太先生は父の棺の前で、「オイラもお前のように舞台で死にたい」と言われ、そして父に向かい、「バカな息子たちはオイラが引きうけた」とおっしゃって下さいました。

 父は六平太先生のハードな稽古をうけて、理屈ではない、いわゆる職人芸の人でした。先生の能の地頭をよく勤めていました。美声で、豊麗な謡でした。喜多実先生が、父の地謡について、「『鷺』の初同、『枕慈童』の初同は、粟谷さんでなくては謡えない」と言っておられました。どちらも巧まない、すんなりと謡うものなのです。私も子供心に、それを参考にしようと思ったものです。そして、同じ『湯谷』のシテでも六平太先生のは妖艶であり、父のは可憐な『湯谷』であったと思います。私がいつも濃艶な「万媚」よりも可憐な「小面」を用いるのは父親ゆずりの好みでしょうか。父は容姿がととのっていて、淡々と舞う人でした。

 全国を回り、作ってくれた地盤は、のちに兄や私が手分けして引き受けることになったのですが、回り切れないほどでした。父は若いころ、『桜川』の能を茶色の水衣で舞わされたといいます。六平太先生のお考えは、長い旅で、着る物もよごれたから、ということでしょうが。しかし、そのとき以来、父は自分で装束を作らねばと考えたようです。今日の粟谷家の装束は父の思いから始まり、そのお蔭で一応装束はそこそこ間に合うようになってきました。

家の面・装束
 兄は装束を集めるのが好きで、また面の収集が道楽でした。新しい面を手に入れると、それをかけて、そのまま寝てしまったりするものですから、いつでしたか、知らずに外出から帰った姉がそれを見て仰天したことがありました。私は面・装束は作り集めません。弟の私が作り始めたら、やがて争いになると思ったからです。分家というものは、本家に頭を下げて面・装束を出して下さいと頼むのです。それをこちらで持ってしまうと必ず争いが生じます。現在は粟谷装束保存会があって、新調したり修繕したりしています。

私の師
 私は初め父に習い、通いの内弟子として喜多実先生に師事しました。後に六平太学校に入りますが、実先生は、「一所懸命弟子をこしらえあげると、オヤジが持っていってしまう」と嘆いておられたものです。六平太学校の一番の先輩は故友枝喜久夫先輩、若いほうでは孫の喜多長世(現六平太)さん、故節世さん、そして私は先生のお稽古に間に合った最後の弟子といえましょう。兄も私も、友枝喜久夫先輩には謡をずいぶん教わりました。友枝さんと兄との仲は、他人には計りしれないものがありました。

十四世喜多六平太先生
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 先代六平太先生が鮮やかな能を舞っておられるときは、私はまだ子どもでした。先生は百歳近くまで生きておられた方ですから、舞台で舞われなくなってからが長いのです。先生はとくに小柄な方でしたから、座高の高い私は、ツレのお相手はあま
していません。先生のツレは、もっぱら友枝先生と兄でした。釣りのお好きな六平太先生のために、弟子たちの釣りの当番がありました。先生は、釣りに興味のない私を眠らせまいと色々と芸の話をして下さいました。私は『小鍛冶』の白頭を舞ったあとすぐ軍隊に入りましたが、先生は「菊坊が戦争に行くようでは日本は負ける」と言われました。実際そのとおりになりましたね。

 六平太先生は、ご自身が舞えなくなってから、やってみたい型を私どもにやらせてご覧にりました。私の『山姥』について、お前のは山ウバでなくて山ジジイだと言われたことがあります。兄が『玉井』に、いい面を手に入れかけたときのことです。「面が違うよ」と言われ、「龍神だから黒髭でなければ」とおっしゃるのです。私が「先生、白頭でございますよ、黒髭ではおかしくはございませんか」と申し上げると、「昔、オツムは白くてもヒゲの黒い人はいたよ」と言われる。また『小督』では、小督局は二階から月を見ているのだからツレは床几にかけろなどと言われます。私が「当時、二階家はなかったと思いますが」と申し上げると、先生は「五重塔があるだろう」と、万事こんな調子でした。先生が難題ばかり言われるものですから、『雷電』ではありませんが、先生が「弘徽殿」におられると皆は「清涼殿」へと逃げてしまう有様でした。

 先生は番組の作り方にも厳しく、呼掛けが三番ついたり、僧脇が三つついたりすると叱られました。そういえば、私が先生をやりこめたこともあります。『蟻通』『蝉丸』『融』が出たとき、「まことに申し訳ございません、三番とも、ついてしまいました」と私がお詫びに行きますと、先生は何がついたのかお気づきになりません。そこで申し上げました。「全部、虫がついております」と。

老女物を演じる
 『卒都婆小町』を勤めたときは、まだ色気のある『湯谷』『松風』等をやりたかったのですが、甥の能夫から、ぜひと言われ決心しました。そこで、世の中のお婆さんを観察し始めたのです。新宿駅の階段で、ため息ついて休息している老女を見て、これを使おうと思い、幕を出て左へ歩み、柱に手をかけて休息する型をやりました。

 『伯母捨』のときは、喜多流では百八十年も演じられていないのですから、何も判りません。それでまずは掘り起こしに没頭しました。演能までの二年間、実に様々な方々からあたたかい御支援をうけました。特に故観世銕之亟さん、そして栄夫さんは、装束のことにいたるまで親身になって力を貸して下さいました。野村萬さんが、「老女物は誰でもよく見えるから大丈夫だよ・・・・」と言って励ましてくれましたが、とにかくあの時は命がけとは言いたくありませんが、一所懸命でした。朧月という型を考えていたとき、ふと心に浮かんだのは、昔見た、橋岡久太郎氏の寂しく立ちつくす『姨捨』の一枚の写真だったのです。四拍子、ワキ、アイの皆さんにも本当に感謝していますよ。

次代へ伝える
 六平太先生、実先生、後藤得三先生、友枝喜久夫先生、そして兄、という先人に私は恵まれました。先人に教えられたことを、私は友枝昭世さんたちの次の世代に伝えれば、芸は伝わってゆくと思います。口で言うだけでなく、舞台で一緒に謡い、一緒に舞う、それが伝えることだと信じています。だからこそ現場で、一日でも長く働いていたい、そう思う今日このごろです。

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