阪大機関誌「邯鄲」への寄稿

「ちょっと一言」の更新が停滞していて申し訳ございません。そこで阪大機関誌「邯鄲」への寄稿文を記載しますので、ご覧下さい。

「邯鄲36号」へ
 18,9歳でストレートで入学し、阪大喜多会に入部した人々も、そろそろもう58、9か?還暦に近い方もいる筈。この中には現在、大阪菊生会のメンバーになって「昔とった杵柄」を発揮している方々もいる。 3月の大阪菊生会で舞囃子『松虫』を舞った阪大喜多会第一期生の福田全克君の舞台を見た明生は「おやじさんそっくりだった!!」と言っていた。勿論彼は器用でもあるのだが、如何に阪大の稽古は密度の濃いものであったか。集中力の塊のような状態の作れる若い時代に、良い稽古を受けると如何に好ましい結果を得ることが出来るか(尤も、こういう集中力があったればこそ阪大に入れたのかも)。何もない新しい土地に植林したのが今、漸々、緑の枝を繁らせ始めている。阪大喜多会の来し方をゆくりなく思い起こし、長い年月、自分のやってきたやり方は間違っていなかった。欲望なしに、いつの頃からか交通費を頂戴するだけで教え続けてきた、その実りの果実が今、自分の掌の中にそして良き報いの温もりがそこはかとなく胸の内にひろがっているような思いをしみじみ感じている。
 4月に馬鹿げたことで脚のバランスをくずし転倒、尻餅をついたあと、頭を打つまいとしてコンクリートの地面に背中を強打し、寝返りも出来ない程の痛さに呻吟し続けたが、二ヶ月経っても、もとのようにはならず、阪大の稽古に行っても、これが理想の型だ、動きだとお手本を示して見せることが出来ないのが何とも残念、無念、腹立たしい限りだ。父益二郎は67歳で亡くなったので僕もその年齢で他界ということになるだろうと思っていたが、それから15年近く生きてしまった。妻に「生きて十三回忌をめだたく通過しましたね」などと言われるが、今や正真正銘の御老体と相成り、時々電車で席を譲られ、そのご親切に有り難きことと感激しながら、傍らから見てもそんなに老いとるのか……と淋しくもなる。かと思うと「八十過ぎて面をつけて舞台に立って、実際に舞っているシテ方はいない」と豪語してみたり……。完全な幕引きまでの狭間にあっての暫し揺れ動くアガキと言ったところか。
 前号で「阪大喜多会は永遠であれ」と言ったが、孫の尚生が大きくなって、明生の教えた阪大生やOBを見て「パパにそっくり!!」と言ってくれるような時がくるといいなァ!と。こうなるともう好々爺の面持ちですね。 平成16年6月15日 粟谷菊生

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