『忠度』の執心 ー 桜に事寄せて描く ー

『忠度』の執心
–桜に事寄せて描く– 


(新宮夕海)

私の能『忠度』の初演は平成7年3月5日(粟谷能の会)でした。それから22年、今回、平成29年6月25日、喜多流自主公演において再演しました。

狂言にも忠度を扱った『薩摩守』という曲目があります。出家僧が茶屋の代金を払わないで出ようとするので、亭主が咎めますが、もちろん僧は無一文。あわれに思った亭主は、この先、渡しで困るだろう、そのときは船頭が秀句(しゃれ、軽口)が好きだから、船賃を請求されたら「薩摩守!」と言い、「その心は?」と問われたら「平家の公達、忠度」と言えばいいと教えます。良いことを聞いたと勇んで船に乗る僧ですが、「その心は?」のあとの「薩摩守」を忘れて「青海苔の引き干し」と答えてしまい、船頭に叱られて退散するというお話しです。このしゃれは言うまでもなく、忠度にただ乗り(無賃乗車)を掛けたものであり、青海苔は忠度のうろ覚えで咄嗟に出た言葉です。こういうしゃれや掛詞を、昔の人は好み、和歌や能にも多用されています。
私も高校生のころ、『忠度』の舞囃子を舞うことがあり、父に『忠度』について尋ねるとすぐ「薩摩守、ただのり!無賃乗車」と笑顔で返してくれた父の顔を思い出します。



(石田 裕)

能『忠度』は平忠度が自分の和歌が千載集に入ったが、名が載らず、「詠み人知らず」になったことへの不満、執心をテーマにしています。

千載集に入った歌は、「漣や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」です。
文武二道に生きた忠度は、一ノ谷の戦いに出向くとき、この戦が自分の命の最後と覚悟を決め、和歌の重鎮・俊成卿に自らの和歌を託して出かけます。自分の命は尽きるとも、和歌と共に名を残したいという一縷の望み。しかしその後、忠度が朝敵ゆえ名前を載せるわけにはいかないと「詠み人知らず」になってしまいます。その無念で、忠度は妄執の世界を彷徨うこととなるのです。ここに焦点を当てたのが世阿弥です。

もし「漣や・・・」の歌に「平忠度」と名があったら、世阿弥は能『忠度』を創作しなかったかもしれません。名前が載らなかったことで逆に、こうして名前が残る、大いなる皮肉です。



(新宮夕海)

ところが、能『忠度』には千載集に入った「漣や・・・」の歌は一度も出てきません。
一曲に流れるのは、忠度の辞世の歌、「行き暮れて木の下かげを宿とせば 花や今宵のあるじならまし」ばかりです。

千載集に入ったが「詠み人知らず」になったというエピソードを物語の中心に据え、和歌への執心をテーマにしながら、辞世の歌にある桜の木に事寄せて美しく創り上げた世阿弥のセンス、その良さが光ります。



(石田 裕)

舞台は、俊成卿にゆかりのある旅僧(ワキ)が津の国須磨の浦にやって来るところから始まります。ワキは一本の桜の木を見つけ、そこに樵翁(前シテ・忠度の化身)が現れて、この桜はある人の跡のしるし、手向けにやって来ていると語ります。舞台上には桜の木があるわけではありませんが、ワキとシテの謡を聴きながら、正面席中央あたりに桜の若木があると想像してご覧になっていただきたいのです。簡素な舞台装置で観る人に想像していただく、これが能の演出方法です。



(石田 裕)

やがて日が暮れ、旅僧は一夜の宿を所望します。
シテ:「お宿ですね。参らせましょう。や、この花の蔭ほどの宿があるでしょうか」
ワキ:「花の宿というなら、誰を主と定めたらよいのでしょう」
このワキの質問に、シテは力強く「行き暮れて」と謡い「花や今宵の主ならまし」と詠じた人がこの木の下に眠っている、ここで仮寝をしたらいい、そしてこの主を弔ってほしいと言い、自分はその主であるとほのめかして姿を消します。老人の思いが次第に強く変わっていく様をどれだけ見せられるか、が演者の力量を測るところと思っています。



(新宮夕海)

後場は、桜の下に仮寝をする旅僧の夢に忠度の霊(後シテ)が現れ、和歌への妄執と一ノ谷の合戦での最期を語り、最後は「木陰を旅の宿とせば、花こそ主なりけれ」の地謡に合わせ、桜を見ながら袖をかついで一曲は終わります。

平家の武将をシテとしながら修羅能的な要素は少なく、花に添えた優美な作りは、なかなかない戯曲ですが、やり甲斐のある曲で、能楽師であれば憧れる一曲です。



(新宮夕海)

能『忠度』は各流儀、多少の演出の違いはありますが、小書というものがありません。つまり、世阿弥の渾身の作で、非の打ち所がないということです。時間の都合でどこかを短縮するなどということが出来ない、手の入れようがない作品です。演者はこの優れた戯曲をいかに観客に届けるかに苦心しなければいけないようです。

『忠度』のシテ謡は前後共に一声です。前シテは「げに世を渡る習とて、かく憂き業にも懲りずまの・・・」と強吟の強い息ではじまり、途中からわずかにやわらかい和吟が入り、また「そもそもこの須磨の浦と申すは・・・」で再び強吟に、と強吟と和吟が入り混じっています。ここの謡い分けが難しく、忠度の文武両道に秀でたものの性格をにじみ出させているのかもしれません。あるときは強い武将らしさ、あるときは風雅な和歌を愛する優美さ、やさしさを謡で表現するのが能らしい演出と言えます。

後シテの一声には忠度の言いたいことすべてが込められていて、この曲の最も大事な謡いどころです。中でも「詠み人知らずと書かれしこそ、妄執の中の第一なれ」ここを最も強い気持ちを込め、強い意識で謡う、これが先人からの教えです。
強吟と和吟の入れ替わりは技法的にも難しく、強さが乱暴にならず、また和吟が浮わついてもダメで、その微妙な加減を音を外さずに謡い分けるコントロールが大事で、演者の力量が測られるところでもあります。
能『忠度』はとりわけ、修羅物の中でも謡が難しい部類に入る曲だということを、今叉再認識いたしました。


   
(新宮夕海)

後場の見どころの一つに、一ノ谷の合戦でのワンシーン、仕方話で繰り広げるところがあります。忠度と岡部六弥太、郎党たちとの壮絶な戦い。忠度は右手を切り落とされ、それでも六弥太を投げ飛ばし果敢に戦いますが、遂に観念し西方極楽浄土に向かい念仏を唱え首を討たれ最期を迎えます。六弥太は忠度の箙にある短冊をつけた矢を見つけ、相手が薩摩守忠度であることを知ります。この合戦シーンをあるときは忠度、あるときは六弥太等と、シテ一人二役を演じます。最初は忠度自身を演じ、「六弥太太刀を抜き持ち」から六弥太となり、「行き暮れて・・・」の歌を朗詠するところからまた忠度に戻ります。役柄とその心を入れ替えて演じます。
「よく、一人で両方ができますね」などと言われますが、演者達は若いころから舞囃子などで何回も稽古しているうちに、自然と体にしみ込み慣れてしまい、さほど手ごわい感じを持ちません。もちろんその慣れが危険性も含んでいるので、充分気をつけなくてはいけないのです。

今回の面はすべて粟谷家所蔵の面を使用しました。
前シテが「三光尉」(友閑作)で、後シテは「中郎将」と記載されている作者不明の「中将」です。忠度にはぴったりと思い、迷いなく最初から決めていました。

後シテの装束は「紅白段山道模様毘沙門亀甲輪宝熊笹」の厚板を着付に選びました。
これには拘りがありました。実は、昔伯父の粟谷新太郎が着ていたのを見て、いつか自分も着たいと憧れていました。先人たちの演じる曲や装束を見て、いつか自分も、と、憧れを持つことは能楽師にとってとても大事なことだと思いますし、また後輩たちからもそう思われるような能楽師を目指したい、と思っています。今回、一つの望みが叶いました。



(石田 裕)
そして常は長絹を着ますが、今回は替えとして「単衣法被(ひとえはっぴ)」にしました。仕立ては長絹とほとんど同じですが、長絹が胸元と袖下に「露」を付けるのに対し、単衣法被は付けません。長絹の雅モードより、やや甲冑モードで勇ましさを出したいと思い試みてみました。
さて22年ぶりの『忠度』、当時を思い出しながら稽古をしました。私の師は友枝昭世師ですが、何曲か父が絡んで教えてくれたものがあります。『忠度』もその一つで、父の言葉が蘇ります。
たとえば、忠度が狐川より引き返し俊成卿の家に行き、百余首の歌を書いた巻物を託し、一首なりともとってほしいと嘆願するエピソードを語ったあとです。
「又、弓箭にたづさはりて。西海の波の上、と正面への一足シカケ、これは丁寧に大事にね。歌を詠んで楽しんでいたのに、こんな戦になってしまって、と強い憤りの気持ちを込めてシカケるんだよ」の父の言葉は印象深いです。歌への思いを振り払い、武士として戦場に赴く忠度の姿を描き出します。
そして「暫しと頼む須磨の浦。源氏の住所(すみどころ)。平家の為はよしなしと、知らざりけるぞ儚き、これ明生、分かるか?」に、きょとんとしていると、「須磨の浦は源氏の居場所で平家の居る所じゃないんだよ。この源氏は光源氏のことだからね。」
てっきり「源氏の住所」は源頼朝や義経の源家のことだと思っていた私には、衝撃が走りました。「須磨といえば光源氏!」とすぐに思い浮かばなければいけないのです。
須磨は源氏に縁のある土地、平家の土地ではない、と作る世阿弥の戯曲の上手さ。
前シテの一声でも、「わくらばに問う人有らば須磨の浦に藻汐垂れつつ侘ぶと答えよ」という、能『松風』にも使われている在原行平の歌を引いて須磨の浦の寂しさを謡い上げています。世阿弥は一ノ谷の合戦があった須磨の浦という土地柄に思いを馳せ、源氏物語や行平の歌をも重ね合わせ、和歌の名手・忠度の物語にふさわしい戯曲を創り出したのです。



(新宮夕海)
二十数年前は何も考えていなかった、何も分かっていなかったと、わが身を振り返ります。今ようやく世阿弥が創り出した世界、宿の主として人を包み込むような大きな花、辞世の歌を詠んだ短冊、人生のさまざまな出来事、うまい道具立てをぎっしり詰め込んだ『忠度』、戯曲の意図するところが少し分かるようになってきたと感じています。



(石田 裕)
だからといってそれが表現できるかというと難しく、手こずっています。
説得力ある伝わる謡を謡いたい、と心がけていますが、無念の思いには繊細なものと粗野でゴツゴツした部分もあるだろう、などと考えて稽古したり・・・。しかし考えずとも自然に忠度になれるのが本物、それは判っているのですが、まだまだ道は遠いと思いました。                     (平成29年7月 記)

写真『忠度』シテ・粟谷明生
撮影 新宮夕海 石田 裕

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