『船弁慶』について 新時代を切り拓いた信光の工夫

『船弁慶』について
新時代を切り拓いた信光の工夫



(1)
平成25年3月3日の粟谷能の会では『俊成忠度』に続き『船弁慶』と一日に二番を勤めました。
能『船弁慶』は、源義経が平家を滅ぼした後、兄・頼朝の怒りを被り、西国へ落ちのびる途中の話です。愛妾の静御前との別離、そして平知盛の亡霊との戦いをうまく絡み合わせた判りやすく、しかも随所に巧みな演出が施された、作者、観世小次郎信光の才能が充分に発揮された作品です。はじめて能をご覧になる方には気軽に楽しめる作品ですので、特にお薦めの曲です。




(2)
シテ方にとってこの曲のむずかしさは、前場・静御前(前シテ)と後場・知盛(後シテ)という異性の別人格を一人で演じわけるところです。若い時は、後場の知盛は力強く出来ても前場の静御前が具合が悪く、歳が嵩むと、前場の女物は良くなるが後場のパワーが落ちるということになりがちです。双方の力量のバランスがうまく取れて、よい『船弁慶』になるのです。




(3)
私が『船弁慶』を勤めるのは今回で5度目です。披きは昭和58年(28歳)の粟谷能の会で、当時、後シテはどうにか出来るにしても、前シテの静御前は正直手に負えない、と自信なく勤めたことを覚えています。
案の定、演能後に「今はまだ大人の女を演じるのは無理、仕方が無い。ただ将来のために今演っておく、それでいい」と先輩に言われた言葉がずっしり重く、記憶しています。
実はこの時、無断で父愛用の小面「堰(せき)」を使用し、後で父と伯父に怒られたことがありました。「堰」を使えばどうにか静御前になれるかもしれない、少しは大人っぽく見えるだろうともくろんだのですが、結果は私の予想、期待は見事に外れ、技量がないものがいくら良い面を付けてもだめであることを証明してしまいました。今でもあの不似合いの写真を見ると、恥ずかしくなります。その後は使用が許されなくなり、父が亡くなってから2年後に『三輪』神遊で使いましたが、その時は面がやや照って(上向き)しまい、どうも相性がよくないような気がして、その後は正直遠ざけていました。



(4)
今回再度使用してみようと思ったのは、最初に嫌われた曲が『船弁慶』だったので、もう大丈夫なのか試したいという私の挑戦が本音でもありました。ご覧になられた方の、ご感想をお聞きしたいものです。



(5)
内緒話ですが、実は父が愛用していた時の「堰」は彩色が浮いたり、削られ剥げていたりして相当傷んでいました。菊生が亡くなってから修理に出し今は綺麗なお顔になりました。能夫は修理して、「菊生叔父の魂は消えたはず。もう使っても安心して、大丈夫だから」と慰めてくれましたが、いざ鏡の間で付けようとした時、どこかで「イヤよ」と呟きが聞こえたような気がして、あれは錯覚だったのでしょうか、気になっています。



(6)
前シテの静御前は義経の愛妾で白拍子です。可憐で清純な静御前もいいでしょうが、義経を子方にする演出の意図には、シテの「艶」を引き立たせる工夫がなされていると思われます。能の「艶」とは、しなりをつけたり、わざと弱々しく声を出すような直接的な演技ではなく、能役者の身体から発散する内的な力です。舞う姿は身体的には強い芯がありながらも、どこかしなやかな、やわらかな手足の動き、そして面遣い、謡う声の芯は強く、見所の隅々まで聞こえながらも、うるさくなくしっとりとした女の声に聞こえなければいけません。硬質の中の柔和、相反する双方を兼備してこそ生まれるものでしょう。それを獲得するには能役者としての経験が必要で、当然時間がかかります。小手先だけの真似ではなく、男役者が女に見えた、それが良い能だと思います。




(7)
父が、『船弁慶』の前シテで大事なところのひとつは、旅立つ義経を遠くから見送り、泣きながら静烏帽子を左手で取り捨てる、この片手ですっと烏帽子の紐を解き、可愛く捨てる、ここだよと言っていました。一見簡単に見える動作ですが、烏帽子の紐が汗で固くなり解けにくくなったり、予め緩めに結ぶと烏帽子が落ちたり傾いたりするアクシデントが起きるので、実はなかなかむずかしい型なのです。そういう厄介なところで女のやさしさが出せれば本物、そんな能役者を目指したいと思ってきました。そして落ちる烏帽子が、捨てられた静自身を象徴するかのように見えれば、これはもう能役者としては一人前のすばらしい演者ということになるのでしょう。



(8)
前半最後のクライマックス、中入り前の型は、右に小さく小回りして正面を向いて半ヒラキと手付けにありますが、右への小回りは仰々しく、寂しさを表すには不似合いです。今回は泣きながら立ち、直ぐに去るように後ろ向きに変えました。能の基本をいじるのはいけませんが、ある年齢になり、力量がついたら、型付だけで納得しないで、感情を重視した型も取り入れるのが、健康な能だと思います。もちろんある年齢と力量を備えたればこそ、と重ねておきますが。




(9)
後場は弁慶の船出への指示から乗船となり、はじめは穏やかな海上も、急に天候が暴風雨となる有様を船頭(アイ)が囃子方の「波頭(なみがしら)」という奏法に合わせて演じます。この場面は、いかにも船が嵐にあっているところを想像させてくれます。そしていよいよ西海の海に沈んだ平家の公達を代表して、平知盛の怨霊が薙刀を持って浮かび上がり登場し、義経目掛けて激しい型の連続となります。




(10)
この後シテの波間から浮かび出る登場の場面で、番組には小書を付けませんでしたが、実際は小書「波間之拍子(なみまのひょうし)」と「真之伝(しんのでん)」の見どころを取り入れた演出にしました。「波間之拍子」とは地謡の「声をしるべに出舟の」のところで音を立てない足拍子を踏むものです。「真之伝」はシテが半幕の中で「思いも寄らぬ浦波の」の謡で幕が下り姿を消して、その後地謡が最初ゆっくり「声を」、段々と早く「しるべに」、もっとも早く「出舟の」と謡い、早笛になってシテが舞台に登場するものです。「波間之拍子」と「真之伝」は一緒に演じることは出来ませんが、今回は地謡「一門の月卿雲霞の如く」にてシテは三の松まで出て姿を見せ、シテ謡の「思いも寄らぬ浦波の」と謡うといきなり早笛になり、一旦後ろ向きに入幕して姿を消し、また幕を上げて舞台に入り「声をしるべに出舟の」にて波間之拍子を踏むという、二つの小書のいいとこどりを試みてみました。



(11)
『船弁慶』は薙刀を使用する曲です。薙刀を扱う曲は他に『熊坂』『巴』がありますが、『熊坂』は熊坂長範という盗賊の頭を大きな薙刀を荒々しく扱うことで表現します。『船弁慶』も荒々しくではありますが、どこかに霊魂の位の高さ、上品さが必要です。そして平家一門の怨念が薙刀に込められているように見えれば、能役者としては嬉しいです。以前は巧みな薙刀扱いの技術さえお見せすれば、それでよしと考えていました。がしかし、今回、薙刀の動きとシテの動きが一体でありながらも、時には薙刀が生き物のようにうごめいて見えて、それが怨念の象徴のように感じられれば、と演じてみました。



(12)
能役者は敗者を演じることが多々あります、私は演じていてつい、世の中を裏側から見るような感覚を持ってしまいます。『船弁慶』の終曲は「跡白波とぞなりにける」と、知盛は弁慶の祈祷に負けて渦潮の海中に沈んでいきますが、私は「判官よ。お前の思うようにはさせない・・・」と、怨念、恨みを残しながら消えたいと思い、最後は後ろ向きにあとずさりして入幕しました。弁慶の祈祷、義経の武術により平家の怨霊を払うことが出来た義経一行ですが、嵐がおさまり、さて義経の到着したところはどこだったでしょうか。平家が亡んだ西国の西海を目指したはずが適わず元に戻されてしまいます。『船弁慶』での義経と知盛の勝負、舞台では義経の勝利に見えるかもしれませんが、嵐で吹き戻された義経一行が怨霊に勝ったとはとうてい思えないのです。これは知盛を演じた私だからこそ感じることなのかもしれません。
『船弁慶』の前シテ静御前と後シテ平知盛を演じ終えて、全く違う二人でありながら、両者に共有するものが見えて来ました。それは両者が義経から未練という負の影響を受けた者同士ということです。同行を許されず捨てられ女と、「見るべきものは見た」と負け惜しみを吐きながらも死に追いやられ生を断ち切られた男、どちらも未練があったことでしょう。信光は負けた者を描きたかったのではないか、これも演じ終えての私の感想です。


(13)
今回、子方の友枝大風君が義経を凛々しく勤めてくれました。そのお陰で私の演能が一段と引き締まり、よくなったと自負しています。義経役を子方にした観世小次郎信光の狙いは、いくつか考えられます。大人のラブロマンスを双方の大人が演じる曲に『千寿』がありますが、正直、生な露骨な印象を受けます。信光はそれを避けるために義経を子方にしたと考えられますが、私はそれだけではないような気がします。それは当時若年であった観世大夫をどうにかして引き立て盛り上げるための策として、信光は敢えて観世大夫を子方に抜擢する作風に仕上げたのではないでしょうか。古今問わず、観客の視線はいたいけな子どもに向きます。そして賞賛します。そこを外さず狙ったのではないかというのが私の仮説です。観世小次郎信光の生年の記録は残っていませんが、文明4年(1472年)頃ではないかと言われてきました。ただ近年、表章先生の調査で、信光の生年が宝徳2年(1450年)であるとの研究成果が発表されました。それに伴い、信光がサポートしていたのは6世観世大夫の元広だろうと考えられます。残念ながら『船弁慶』がいつ作られたかは不明ですので、このとき大夫が何歳だったかはわかりませんが、若年の元広を、どうにか盛り立てようとの意図があったかもしれない・・・と、あくまでも私の確証のない推測ですが。
小さな子どもが舞台で頑張っている姿は、心打たれます。今回も「大風君、立派でしたね。ファンになっちゃいました」との声を聞くと、信光は若いかわいい観世大夫の人気取りを目論んでいた、とそう思えてならないのです。




(14)
『船弁慶』は、曲名にもなっている弁慶役をワキが担当し、舞台進行役として重要な役目を担います。弁慶も義経の子方も、船頭のアイも、囃子方も、皆、大きな役割を持ち、各役者の力量や囃子方の力で面白さを出すことは、それまでにはなかった信光の工夫です。
今回、当日、宝生閑氏が体調不良のため、宝生欣哉氏がワキを代演して下さいました。欣哉氏は午前中にお父様の代演で観世流『盛久』を勤め、粟谷能の会に来られて本役の『隅田川』と『船弁慶』を代演するという三番もお勤めになりお疲れだったと思いますが、熱演して下さったのは能役者として見事で、個人的にも感謝しています。深田博治氏の船頭も囃子方も皆様熱演して下さいました。皆様のお力をお借りして無事舞台が勤められたことに満足と感謝の気持ちで一杯です。




(15)
観阿弥から始まった申楽は、世阿弥が完成させたシテ一人を中心とした夢幻能で完成度を高めました。それ以後は元雅や金春禅竹などが世阿弥の意図を継承しますが、時代の流れが音阿弥贔屓の将軍・足利教義になると変わります。音阿弥の七男の信光は世阿弥とは異なる演劇的な技巧を駆使し、それぞれの登場人物に役割を持たせ、劇的な葛藤を盛り込んだ作品を作りました。このような派手なショー的な風流な作品の誕生は、世阿弥や禅竹などの幽玄重視のやや難解な芸風から脱却せざるを得ない周りの状況があったと思います。それはパトロン頼りの仕組みから新しい観客層への芸の提供であったでしょう。信光の息子・長俊で戯曲を作る猿楽師は途絶えます。以後はそれまで作られた曲目を繰り返し演じる形となり現在に到りますが、そうさせたのは、激しさを増す戦乱の世の大きなうねりの中にあったからかもしれません。伝統芸能、古典と言われるものは、その時代時代に似合うものをいつも捜し求め生き残って来たことは確かで、歴史が証明しています。私たちも新しい時代にあった能を模索していかなければなりません。




(16,17,18)
私見ですが近年、演能時間が少し長過ぎると思うことがあります。能には長くても良い場合と、そうでない時があると思います。一番だけのゆとりある公演と三番立てを同じように扱い企画しては観客無視だと批難されても仕方が無いでしょう。演能のスタイルも、いろいろなパターンがあり、観客はそこを自由に選ぶことができる、それが「現代の能」であって、そのようにしていかないと能は生き残れないのではないでしょうか。
今回の粟谷能の会では、三番立の番組を企画するにあたり、いろいろな方からご意見を頂戴して、出来る限り観客の立場でよいものをと改善しました。『俊成忠度』が40分、『隅田川』が1時間20分、狂言『舟ふな』で15分、『船弁慶』を1時間15分の短縮型で構成しました。短縮型にしても充分楽しめる、遜色ないものにすることを課題にして、演出の工夫に取り組んだのです。そして二度の休憩で1時間を確保しました。一部の観客や楽屋内からも、なんでこんなに休憩時間を取るのか、との声も聞こえてきましたが、終演後、多くの観客の皆様から時間配分が良かったと好評をいただいたことは、私たちの判断が間違いでなかったと自信に繋がりました。

これからの能は、様々な状況に応じて、時には演能時間の短縮化を考え公演すべきという場合もあるでしょう。今後もより観客の立場に立って演能時間、休憩時間などを配慮して構成したいと考えています。「従来の通り」という甘い言葉に胡座をかいていては新規の能楽ファンは増えないでしょう。今はまず減少している観客を取り戻し、その中から長時間の演能を好むファンが生まれればよいのです。
今回ややマイナーな作者、観世小次郎信光に焦点を当てて、そのたぐいまれな才能と新時代を切り拓く努力を垣間見ることができ、大いに励まされました。そして、そんな新たな発見があったことで、楽しい演能となりました。     
(平成25年3月 記)

写真撮影
1,10,11,13,16,17,18 森英嗣
2,4,5,6,7,9,14,15,石田 裕
3,8,12, 前島写真店 成田幸雄
文責  粟谷明生

コメントは停止中です。