『白是界』について  負ける天狗として再演出

『白是界』について
?負ける天狗として再演出? 

粟谷 明生



(1)
喜多流には曲名の頭に白や青などを付けて曲の位を上げることがあります。
白は『白是界』の他に、『白田村』『白翁』(白式とも)があり、珍しいものでは青を付ける『青野守』があります。いずれも曲の内容は変わらず、装束や面が常と変わり、謡も省略や緩急がついて面白さが増す特別演出となります。

能の天狗物は仏法の味方とそうでないものと、二つに分けられます。
仏法の味方となるのは『鞍馬天狗』一曲、源義経が沙那王と呼ばれた幼少時代に将来平家追討に助力を約束する天狗で、仏法の敵ではありません。
しかしその他の天狗物(『大会』『車僧』『是界』など)は仏敵として現れ、最後は仏力に祈伏され逃げ去るのが、お決まりの筋書きとなっています。
『是界』も然り、日本の神仏力の礼讃が主題で、天狗は悪役で書かれています。もっともそのような仏法の宣伝歌になっているのは、天台から作者への依頼であったのかもしれません。




(2)
今回、『白是界』(粟谷能の会・平成22年10月10日)を勤めるに当たって、先人たちが手がけられた演出を更に奥深く探求したいと思いました。
実は喜多流には『白是界』の正規な伝書は残っていません。現行の型付は、十四世喜多六平太宗家の考案で、それを継承した先人たちの書き留めたものがあるだけです。
現行の演出は、後シテが頭はもとより装束や羽団扇の持ち物の類いまで全てが白一色になり、大水晶数珠を片手に、よりどっしりとズカッー、ズカッーと大股で運び(歩行)、重量感を出し、天狗の存在感をより強調する特別演出です。それはそれで効果がありますが、反面謡われている内容とのギャップを感じる型がいくつかあり、稽古をしていくうちに、現行の『白是界』が作品の主旨(本意)から少し離れているように思えてきました。先人からお叱りを受けるかもしれませんが、私はどうしても、これまでの『白是界』は作品の主旨に従うというより、ただ面や装束類の色を替え、謡と囃子のノリを押さえることだけで済ませて来たように思えるのです。
謡われている内容とのギャップをどう埋めるか、『是界』という曲が何を言いたいのか? 特別に変化をつける『白是界』のねらいがどこにあるのか? それを見つけることが肝心だと思いました。
そこで、まず、そもそも天狗とはなにか? 是界坊はどうしたのか? 再度確認する作業からはじめ、自分なりの『白是界』を考案したいと思いました。

では舞台進行に合わせて今回替えたところをご紹介します。




(3)
通常、前場の是界坊(シテ)と太郎坊(シテツレ)の扮装は、『安宅』の弁慶(シテ)や『黒塚』の阿闍利(ワキ)と同じ直面(ひためん)の山伏姿です。
しかしこの扮装では、天狗という異界からの侵入者・悪(ワル)の印象が弱く、物足りません。
天狗というと、頭に兜巾を載せ、鈴掛姿に袈裟を付け背中に翼を付けて、団扇を持ち、一本刃の高下駄を履き、鼻は高く赤ら顔で、髪も大童姿、空を易々と飛ぶ山伏姿を想像します。これは中世以降の鼻高天狗と言われるものです。




(4)
『是界』の原典となる鎌倉時代の『是害坊絵巻』には、鼻が嘴のように尖っている「木ノ葉天狗」「烏天狗」といった、もっと以前の鳥類天狗が描かれています。今回はその嘴の形象を面「鷲鼻悪尉」にて表現しようと考えました。ツレは逆に鼻を意識させないながらも、異界の者を感じさせる「真角」を選びました。頭はシテが黒頭、ツレがバス頭を使用して、唐と日本の違いを出してみました。終わって写真を見ると、シテがバス頭の方がよかったかとも思えました。




(5)
『是界』と『白是界』の詞章の違いは、前場のシテの言葉の「案内申し候」を「案内申そう」、「是界坊にて候が」が「是界坊なるが」の二句が替わるだけです。
『白是界』では省略されることが多い前場のクセは、是界坊たち天狗が、不動明王の威力を怖れ、悪と知りつつ抜け出せない身を悲嘆する心情、戦わずして敗北が語られ、明らかに仏法礼讃の詞章です。
今回は、クセの省略だけでなく、不動明王賛美の序もサシもすべて割愛することにしました。天狗の弱音をはく個所を出来る限り除き、前場の是界坊たちの奮起がより前面に出るように、そして唐から日本に、愛宕山から比叡山にと、スピーディーな場面展開の面白さを観ていただきたく演出しました。




(6)
ここでちょっと、前場にしか登場しない太郎坊の話をさせていただきます。
「神国日本の仏界を攻めるには、まず比叡山だ! いざ一緒に比叡山に!」
と是界坊にけしかけた太郎坊ですが、その後の太郎坊の動向が気になります。
私も若い時分に、このツレを勤め、「何故、太郎坊は後半に登場して加勢しないのか? 太郎坊はどうしたのか?」と装束を脱ぎながら、疑問でした。
答えは、太郎坊が是界坊を裏切ったからとされています。
では何故、裏切ったのか? ここに面白い説がありますのでご紹介します。

『車僧』のシテは太郎坊です。太郎坊は車僧と禅問答で負け、天狗の姿となって行力競べをしますが、やはり遂に敗北し、合掌して逃げ去ります。
つまり太郎坊は一度天台の僧に懲らしめられ痛い目にあった経緯があります。
『是界』では、「蟷螂が斧とかや(カマキリが大きな車を止めようとする)、猿猴が月(猿が水に写った月を掬おうとする)に相同じ」と、所詮天台に勝つのはむずかいしいと、苦言を呈しています。
しかしそんな太郎坊ですが、是界坊は遙々唐から飛んで来た中国の天狗だから、まあお手並み拝見、一度挑んでみては? と考えた…。これが太郎坊の内心、立場と思われます。一緒に戦う気など毛頭なかったのです。だから後半に登場せず、加勢もしないわけです。

この度、息子の尚生に太郎坊を勤めさせました。
尚生はひととき舞台から離れていましたが、近年また舞台への意欲が伺えるようになったので、楽屋働きと同時に演能機会を与えることも、親であり指導者の勤めだと思い配役しました。

普通ならばツレは直面姿ですが、面をつけての初ツレ役はプレッシャーも強くあったと思います。実は息子の使用した「真角」ですが、喜多七太夫古能の花押が入った是閑打の名品です。本来ならば未熟な若者が使用するべき面ではありません。未熟者にはそれ相応の面を、これが然るべき姿です。ただ私のこだわりとして、粟谷能の会という場、そしてこれから粟谷家を背負っていくべき者には、可能であれば出来る限り本物に触れる大切さを知ってほしい、本物が似合う役者になってほしい、との願いがあります。

舞台前に緊張する息子と面に当て物をつけながら、是閑打、云々の話は敢えてしませんでした。終演後、話して聞かすと、「そんなすごいもの付けてよかったの?」と言うので、「能夫さんによく礼を言っておきなさい」と答えておきました。こんな楽屋裏の話ですが、これからの能役者の成長を見守っていただきたく、ここに記しました。私自身も同じように、周りの皆様からあたたかく見守られここまで来ました。それと同じことをしているだけなのです。




(7)

話を戻します。

『白是界』の後シテの面は、『是界』の「大ベシミ」から「悪尉ベシミ」に替わります。粟谷家には諸先輩方が愛用してきた「悪尉ベシミ」があります。
他人の言うことなど聞かない自己顕示欲の強い頑固な形相の、力強さが漲っている年老いた顔つきです。




(8)
当初、先人にならいこれを使う予定でしたが、稽古するうちにふと、「私が想像する『白是界』の天狗には似合わないのでは…」と思うようになりました。
もしかするとこの面の魔力が原因で演者や、そして観客までもが、『白是界』を見間違えているのではないか、と…。
『鞍馬天狗』ならば、いかにも強そうで福たけた表情が牛若丸を厳しく指導する姿に似合いますが、負ける『是界』の天狗にはどうも相応しくない、というのが私の判断です。
負ける天狗にはどこか愛嬌があって、間が抜けたようなユーモラスさが必要です。そこで別の「悪尉ベシミ」、通称「猫ベシミ」と呼ばれるものに替えることにしました。




(9)
終演後、「いささか、漫画チック」と評されましたが、それこそ私の狙いであって、実は内心ほくそ笑んでいるのです。

後シテの装束は白一色となり、小書「白頭」は鹿背杖をついて登場しますが、『白是界』は杖の代わりに左手に数珠を持ち、常に胸に当てています。

はじめ、この構えは不動明王を模しているもの、と解釈していましたが、友枝昭世師より、友枝喜久夫先生の書付けにある「左手常に胸に、これ如意の如し、肝要なり」との心得を教えていただき、私の『白是界』の発想の基となりました。如意とは「意のままに、なんでも自分が正しい、自分の思い通りに」と自己中心の信念で、その信仰心を、左手で数珠を強く握りしめ、胸(心)に当てる格好で表現します。『白是界』は、ほとんどこの構えで通すため、意外とバランスを崩しやすくなるのが、演じる時の注意点だと知りました。




(10)
今回の新工夫は後半に並びます。まず通常の舞働を『紅葉狩』や『船弁慶』などのワキへの威嚇と見える型に替え、静の僧正と、動の是界坊が対比してご覧いただければと考えました。結果はやはり従来通りの、是界坊と不動明王や諸々の神々との対決をシテの立ち回りだけで見せる型附の方が良かったように思えてきました。




(11)
また、普通は「翼も地に落ち…」と組落の型で飛行から落ちた、と見せますが羽団扇は最後まで持ち続けます。今回は、羽団扇を捨てた方が、飛行能力が衰えた、と想像し易いと思い落とし捨ててみました。
また地謡も終始ただゆったりと重く強く謡っているだけでは天狗の慌てる滑稽さが見られず、逆に単調で飽きてしまいます。
そこで今回は「力も槻弓の八島の波の」から位を早め、慌てて逃げ去る光景に合う謡にしてもらいました。
そして『白是界』のクライマックス、是界坊はまた立ち戻り、遂に数珠を投げ捨ててしまいます。先人は皆、本舞台に入り、ワキの前に、「今回は帰ることにするが…」と偉そうにポイッと捨てるようにしています。これが心得と聞かされてきました。天台の僧に完全に負けていながらも、まだ相手を小馬鹿にして見下す風格が『白是界』には必要だと…。

しかし、それでは「飛行の翼も地に落ち、力も槻弓の八島の波の立ち去ると見えしが、また飛び来たり、さるにても、かほどに妙なる仏力、神力、今より後は来るまじと、云う声ばかり虚空に残り…」の敗北退散の詞章にそぐいません。
『是界』の作者は竹田法印宗盛という室町御所の医師ですが、書かれた戯曲は国粋主義の神国、仏国、天台宗の賛美で終始しています。
それが良いとか、悪いとかは別として、演者は書かれた台本を忠実に、充分に読み取って演じる、そう信じます。ですから、現実の負けを認めないような、是界坊のとらえ方には同意出来ず、そうはしたくないと思いました。




(12)

是界坊は負け天狗で悪役です。天台の賛美が根底になくてはいけないのです。
ですから、私は、本舞台まで戻らずに橋掛りから舞台へ数珠を投げ捨てました。虚空に上がった是界坊が、遥か下の地上にいる天台の僧侶に、悔しさを噛みしめながら敗北を認め、「クソ、この数珠、効かなかったか!」と未練なく投げ捨てるのです。
皆様は、どのように思われましたか?
ご感想を戴けたら嬉しいです。

この負ける中国の天狗の『是界』を中国の方々がご覧になったらどう思われるでしょうか。「中国の天狗はそんなに弱くない! これは違う! この作品良くない!」と聞こえて来そうです。尖閣諸島の問題を抱えている今、『是界』や『白楽天』は少々危険な作品のように思われます。しかし、これは演劇です、古典の能です。

中国や日本として見るのではなく、是界坊が説く、すべて己が正しく、間違いはすべて相手が悪い、このように考える人間の心そのものをテーマにしているのだと思います。
皆様の身のまわりにも、いらっしゃいませんか?
我が儘で、自分のことばかり、そのような人間の愚かな姿を、天狗という悪役に置き換え警告しているのが『是界』なのだ、そう思えるようになりました。

能役者は、戯曲に描かれているものを、現代に合った形で伝えることが第一です。羽団扇を捨て、謡に緩急を加え、敗北を認め、数珠を橋掛りから舞台に投げるなど、新工夫の『白是界』でしたが、それらは今までの喜多流にはありませんでした。
橋掛りから舞台に投げるとは、と遺憾に思う同胞の方もおられるかもしれません。しかし、演能後、金剛流に橋掛りから投げる型があることを知り、まったくのお門違いではないことに少し安堵しています。

以前、新しい試みに挑戦された友枝昭世師が「そんなの、喜多流にあるの?」と嫌味に問われ、「いや、能にはある」と答えられました。あの鮮烈な言葉は今でも私の心をとらえています。「能にはある」を信念として、新工夫の大切さをかみしめ、今回また『白是界』で能の面白さを再発見できました。
とはいうものの、まだまだ未熟な我が儘天狗の私です。
あまり独走しすぎてもいけないですが、消極的過ぎるのも効果はない、その兼ね合い、バランス感覚が極意、そう負ける天狗が教えてくれたようです。
(平成22年10月 記)

付録 「育王山、青龍寺、般若臺に至まで皆我が道に誘引せずということなし」と是界坊が自慢する「青龍寺」は、以前訪問したことがあるので、こちらからご覧いただけます。

写真資料
(1)イロエにて 下界を見下ろす型      撮影 前島写真店・駒井壮介
(2)数珠を握り邪法を唱える         撮影 前島写真店・駒井壮介
(3)前シテ・是界坊 粟谷明生        撮影 前島写真店・駒井壮介
(4)「是害絵巻」              写真引用
(5)「鷲鼻悪尉」粟谷家蔵          撮影 粟谷明生
(6) シテ連・太郎坊 粟谷尚生       撮影 前島写真店・駒井壮介
(7)「真角」粟谷家蔵            撮影 粟谷明生
(8)「悪尉ベシミ」粟谷家蔵         撮影 粟谷明生
(9)「猫ベシミ」粟谷家蔵          撮影 粟谷明生
(10)数珠を胸に当てる是界坊        撮影 前島写真店・駒井壮介
(11)飯室僧正を威嚇する是界坊       撮影 前島写真店・駒井壮介
(12)数珠を投げ捨てる           撮影 吉越 研

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