『巴』を勤めて

演能レポート『巴』を勤めて
艶ある女武者を目指し


高知能楽鑑賞会(22年7月25日)粟谷菊生追悼の公演で、父が好きで得意でもあった『巴』を父への手向けとして勤めました。

能の世界で木曽義仲(源義仲)本人が主人公(シテ)として登場する曲はありませんが、その家来、巴御前(『巴』)や今井兼平(『兼平』)によって義仲は描かれています。特に『巴』は木曽義仲の家来でありながも愛妾としての姿、剛勇ながらも恋慕の心を持つ女性の忠誠心を描いた作品です。『巴』は二番目物・修羅物ですが、主人公(シテ)が女というのは異例で、この一番だけです。
修羅物は、主人公が戦死したゆかりの地に現れて討死の有様を見せ、修羅道の苦患からの救いを僧に頼む、というのがお決まりですが、『巴』は異色です。
また構成も普通と変わっていて、討死していない巴御前ですから、自分が非業の死をとげた土地に現れるのではなく、死後も愛してやまない主君義仲が祀られている社に現れます。修羅物でありながら、その想いは、共に死ねなかったことの執心、深い恋慕の情念が今も成仏の妨げになると苦しむところが特異です。
演者は物語の真意をよく理解して、派手な剛勇の女武者ぶりだけでなく、義仲を想って止まない恋慕の心根を演じ切らないと、あちらに居られる巴様から斬りつけられてしまうでしょう。

『巴』の物語は、木曽の山里に住む旅僧が都へ上る途中、近江国(滋賀県)琵琶湖湖畔の粟津が原に着くところから始まります。そこに一人の里女が現れ、社に参拝し涙を流して
いるので不審に思いわけを尋ねると、女は行教和尚も宇佐八幡へ詣でたとき、「何ごとのおわしますとは知らねども、忝なさに涙こぼるる」と詠まれたように、神社の前で涙を流すことは不思議ではないと答えます。女は社殿に神として祀られている木曽義仲公は、僧と同郷であるから霊を慰めてほしいと頼み、自らも義仲の家来、巴御前の亡霊であるとほのめかし消えてしまいます。〈中入〉
旅僧は、里人に、義仲の最期と巴御前のことを聞き、同国の縁と思い、一夜を明かし読経します。すると先の女が、長刀をもち甲冑姿で現れ、女武者の巴御前であると名のり、義仲の遺言により一緒に死ぬことが許されなかった無念さを、戦語りを交えて僧に見せます。
そして義仲からは生き延びて形見を木曽に届けるように命じられ、巴は泣きながら形見の品をもって一人木曽へと落ちのびたが、いまだに義仲への想いが成仏のさまたげになっているので、その執心を晴らしてほしいと回向を願って消え失せます。

私は今までに三度『巴』を勤めていますが、若い時分の『巴』を顧みると、確かに鮮やかな長刀さばきばかりに気をとられ、巴の女らしさを演じるには至っていなかったように思います。

以前、私がまだ20代の頃、ある女性に言われた言葉が、今も頭から離れないでいます。
「ご立派な『巴』は何度も拝見してきましたが、愛らしい、かわいい、イロっぽいと思わせてくれたことは一度もなかったわ。でも、あなたのお父様の『巴』は違った。あ~、女以上に女だわ! と感じさせてくれて・・・。でもそこまでしてくれないと能『巴』にはならない、そう思わない?」
いつもこの言葉を気に掛けているので、今回は私なりに巴御前の女らしさを意識して演じたいと思い、謡や型はもちろん、面や装束なども常と替えてみました。
能『巴』の使用面は、喜多流では「小面」が決まりですが、他流では「若女」「増女」「孫次郎」「十寸髪」など、いろいろ使われます。今回は父の追悼なので、父愛用の井関の「小面」を附けて、と思いましたが、敢えて父とは違う『巴』の世界をと、小面よりも少し大人っぽい私のお気に入りの「宝増」にしました。

私は幼少の頃は父から芸を教えられ、小学生から喜多実先生に入門、そして30歳にて師を友枝昭世師としましたが、青年時代に数曲、父から直接習った曲があります。その中でもっとも丁寧に細部まで教えてもらったのが『巴』でした。
ここからは父の教えなどもご紹介しながら、舞台進行に沿って私の舞台裏もレポートしていきたいと思います。

前場の里女(前シテ)は「アシラヒ出し」で登場します。囃子方の囃す「アシラヒ出し」はノリのないリズムです。シテは静かにどこからともなくふっと現れるような風情で運び(はこび=歩行)、舞台に登場します。一見何の変哲もない簡単な動きのように見えますが、ベタベタと単調に足を運んでは優美さに欠けますので、乗らないリズムながらも、演者自身の中に運びの流れを意識して、若干の序・破・急のスピード感を出すところに技の極意が秘められています。
義仲を祀る社前での僧(ワキ)との問答も、あまり重くなり過ぎると曲の位に合わなくなります。軽くサラリと謡いながらも、要所要所でしっかりと思い入れを言葉に載せる、言うのは簡単ですが、なかなか体得出来ないでいます。
中入り前「さる程に暮れてゆく日も山の端に、入相の鐘の音の、浦曲の波に響きつつ」と西の空を見上げ次第にうつむき、鐘の音を聞く型が唯一の型どころです。「観る者に鐘の音が聞こえるように」とは、シテと地謡への父のアドバイスでした。


後場は、唐織を壺織(坪折とも)にして武装した雰囲気を創りますが、今回は長絹を肩上げにする替の扮装にしました。これは、より武装の甲冑姿が想像しやすく、演者は壺織よりも軽く動きやすい利点があります。
しかし反面、中入りでの着附や物着での脱衣の手間などが面倒で、予めの仕込みが必要ですから、着せる者も演者も億劫なのが欠点です。
そして何よりも長絹姿は、演者の身体の構えが露わに見えてしまうので、体型が気になる人には難点となります。「体型がご立派過ぎて…熟女っぽく見えました」とのご感想をいただいて反省し、これからの食生活を考え直しています。


ここで脱線しますが、装束の着附について触れておきます。
能役者は胴着(真綿が入った下着)を着て身体をふっくらと見せる工夫をしています。
若い時分は、痩せてスマートですが、どうも装束を附けた姿は良くありません、貧弱に写ります。これはスポーツマンとも共通していることで、あまりに若過ぎては未だ身体が出来上がっていません。能楽師も同様で、30代を過ぎる頃から、自然と身体が出来てきます。特に腰回りがしっかりしてきますと、装束が身体にフィットしてきます。ですからガリガリの痩せが良い訳でもないのです。このように書くと肥満を正当化した言い訳のように聞こえるかもしれませんが、私の青年時代の写真をご覧頂ければお判り頂けると思います。


とは言いましても、過ぎたるは・・・なんとやらで、今の私の場合、ここはやはり体型、体形改善の努力が必要、と認識しています。

能でシテが長刀を使う曲は『橋弁慶』『船弁慶』『熊坂』の三曲がいずれも男物で、女物では『巴』一曲のみです。実は『平家物語』に巴御前が長刀を使用していた記載はないので、これはたぶん作者の着想でしょう。しかし巴といえば長刀、これが喜多流内での印象です。
「巴の長刀さばきは軽快に鮮やかに、しなりを入れることで女を表現する。逆に弁慶、知盛や熊坂はしなりを入れてはいけない」が父の教えです。

後場の型どころは多く、床几での型、長刀を駆使する仕舞所、義仲の形見となる小袖の扱い、物着にて水衣を着て笠と太刀を持つ最終場面。
すべてに父の言葉が浮かび上がって来ました。


特に終盤、長刀を捨て、白水衣を義仲の死骸とも形見とも思い取り上げて別れを告げ、形見を肌身離さず胸に抱き、「行けども悲しや行きやらぬ」と、なかなか立ち去れない心情で、死骸を振り返るあたりは、足、肩、面、それぞれの角度と向きにねじれをつけるんだよ、と直接演ってみせてくれた父の姿が浮かんできました。白水衣を羽織って浄衣の姿となり、最終の最高潮、笠を高々と上げて木曽の里を思いと、良い型が続きますが、「後ろ姿に哀愁が出ないとだめだ、後ろ姿だよ」「最後の留めは、笠と小太刀を捨てるも吉、また笠だけ捨て小太刀は義仲だと思って持ちかえる、どちらでもいいよ。意味さえ判ってやれば…」最も印象深い父の言葉です。


喜多流では、強く、強く、と教えられます。このシンプルな言葉、若い時分は強くを荒くと誤解しがちです。強いは、彊い、剛い、勁い、といろいろありますが、能ではつよい気持ちを基盤にして剛柔を表現します。やさしさ、女らしさ、哀れさも、強さでというと不審に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、強くとは思いを込める程度と理解していただければいいかもしれません。声は息を引いて発声し強さを出します。父の言う「芯は強く、まわりは柔らかく、マシュマロのように」が判りやすいかもしれません。しかし、言うは易く・・・、習得には時間がかかります。
今回の『巴』、自分なりには精一杯女らしさ、哀れさを意識したつもりですが、演りきれたか、というと反省点もいろいろあり、また演り直さなければ、というのが正直なところです。

もうすぐ55歳を迎え、自分を顧みると、若いときに哀れさや女らしさなど、演りきることなどは無理難題、出来るはずがないのです。このように書くとお叱りを受けるかもしれませんが、これは本音です。
若い時分は未熟です。出来ないのが当たり前、仕方がありません。ですから若気の至りで、自分なりにガムシャラに挑むしかないのです。哀れや悲しみ、女らしさを、間違ってもよい、勘違いしてでもよいから、演ってみる、その試みる気持ちが大事なのです。間違って演ることの無意味さを唱える大人がいるかもしれませんが、自ら身を以て体験し本物を探す、それしか本物には近づけない、今そう信じています。
「赤ん坊は一度熱いやかんに手を触れて熱さを知っておくといい。それを危険だからとさせないと、そのうちその子は溶鉱炉に手を入れるんだよ」とこれも父の面白い例え話。
一度立ち入らないと判らない、この年齢になってようやく判ったのです。
今50代半ばにして4回目の『巴』を勤め、どうしたら女らしさ、哀れさが、演じられるか、まだ悩んでいます。
父の追悼で父の『巴』を思い出しながら勤めた私の『巴』。
演じ終えて、いろいろご批判もあり、まだまだ先は遥か彼方ですが、自分なりの一歩が踏み込めた感触はあって、「いろいろなことをやって、それを能に還元すればいいの!」という父の声が今大きく聞こえて来ています。
今回いろいろなことを思い出させてくれたのは、巴御前のお陰か、それとも父がひょっとして近くにいたのか…。
父菊生追悼公演で父との会話を楽しませてもらったような気がしています。

写真3 『巴』シテ 粟谷明生 粟谷能の会   撮影 三上文規
写真4 『巴』シテ 粟谷明生 青年喜多会   撮影 あびこ喜久三
その他 『巴』シテ 粟谷明生 高知能楽鑑賞会 撮影 片岡鷹介
  (平成22年8月 記)