『隅田川』ゆかりの地を訪ねて

平成15年1月26日、「日立能と狂言の会」にて、能『隅田川』を勤めるにあたり、『隅田川』ゆかりの地を訪ねて来ました。現在の隅田川は能が発生した室町時代とは、その流れが大きくかわり、現在の位置とは必ずしも一致するものではありませんが、謡跡を訪ねる旅として、雑誌「観世」や「謡跡めぐり」(青木実著)などの資料をもとに、春日部の古隅田川と梅若塚、墨田区の木母寺にある梅若塚などを訪ねてきましたので、写真探訪にてご紹介いたします。

謡曲『隅田川』の隅田川は現在の春日部にある古隅田川ではないかといわれています。
小さな橋ですが「業平橋」の名称が刻まれていました。昔の写真には市の観光協会の立てた「在原中将業平朝臣の渡れし橋」の標柱がありましたが、今は撤去され公衆電話ボックスに変わっていて、面影らしきものは全くなかったので少々がっかりしました。
現在の川幅は大変狭く、これでは渡し舟が必要であったかと、疑問がもたれますが、伊勢物語、在原業平が詠んだ「名にし負はば、いざ言問わん都鳥、わが思う人はありやなしやと」の時代にはまた違う景色だったかもしれません。
古隅田川、業平橋より徒歩15分程で梅若塚のある萬蔵寺があります。
萬蔵寺前に梅若塚があります。
梅若塚には、『隅田川』梅若丸の由来が書いてありました。
逆光の撮影で写りが悪く解りにくいですが、宝生流、今井泰男氏の寄贈された柳があったのには驚きました。
今井氏は現在現役シテ方の最古老です(当時)
梅若塚は高さ2メートル程の小祠でした。
梅若塚の石碑
17世宝生流宗家の石碑もありました。
梅若塚遠景。右の大木が今井泰男氏の寄贈の柳です。
春日部より墨田区に移動し、隅田川沿いの木母寺にある梅若塚を訪ねました。
恒例の謡跡保存会の立て札。これがあるとほっとします。
木母寺の表札
梅若堂は破損が激しいため、ガラスの建物の中に大事に保管されています。
左に見える赤い柵の中に梅若塚跡があります。
木母寺と梅若丸伝説をご紹介いたします。
◇木母寺のあらまし
〇宗旨・天台宗 御本尊・慈恵大師
〇山号を梅柳山、院号を隅田院、別に梅若寺(うめわかでら)と古称す。
〇創建は平安時代中期の貞元2年(977)、開山は忠円阿闍梨と伝えられ、その由緒は、能『隅田川』の梅若山王権現の霊験譚にもとづく。
◇梅若塚(梅若山王権現堂)の由来
境内に鎮座する梅若塚は、謡曲などによって、広く知られている旧跡です。当寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」は、次のような説話を伝えております。
「梅若丸は、吉田少将惟房(これふさ)卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時、比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太(しのぶとうた)という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。
旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元(976)3月15日なり。
いまはの際に和歌を詠ず。
尋ね来て 問はは応えよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖(ひじり)ありけるが、たまたまこの地に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標しとなす。
あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔い居りしに、母人、わが子の行方を訪ねあぐね、自ら物狂わしき様して、この川原に迷い来り、柳下に人々の群れ居り称名するさまを見て、愛児の末路を知り非歎の涙にくれける。その夜は里人と共に称名してありしに、塚の中より吾が子の姿、幻の如く見え、言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく、浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜あけて後、阿闍梨に、ありし事ども告げて、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永く其霊を弔いける、と。」
木母寺移築により、もとの梅若塚へ向かう途中にある梅若門です。都営住宅の中にありました。
旧梅若塚は榎本武揚像のそばにひっそりとあり、判りにくく探し当てた時は、思わず「あったー!」と声を出してしまいました。
やはり「この川は大事の渡りにて候程に、番に居って舟を渡し候」とワキが謡うぐらいですから、当時の川は現在の隅田川のように川幅があったのではないかと思いました。そこで隅田川の雰囲気を満喫するため水上バスに乗り、日の出桟橋まで遊覧することにしました。
水上バスに乗るまでに時間がありましたので、浅草名物、神谷バーに立ち寄り、名物「電気ブラン」を試飲してみました。味はブランデーベースでいろいろなものが入っているようで、かなりきつく、私は飲めずに結局残してしまいました。
夕暮れの吾妻橋を見ながら、浅草から日の出桟橋へ向かい出港しました。乗船時間は40分(¥640)。途中で潜る両国橋は武蔵の国と下総の国の二つの国に架かったため、その名が付けられたなどと、放送されるそれぞれの橋の説明を面白く聞きながらこの旅は終わりました。