『項羽』を演じて

『項羽』を演じて
 学生に中国の歴代の国名を尋ねたら、いとも簡単に童謡の「もしもし亀よ」にのせて「殷、周、秦、漢、三国、晋」とすらすらと答えはじめたのには驚いてしまいました。今回、喜多流自主公演能(平成17年10月23日)で『項羽』を勤めるにあたって、学生たちとの会話のひとこまです。

謡の世界で中国の古い話となると喜多流では『枕慈童』ではないでしょうか。魏の文帝の臣下が周の時代の穆王に仕えた七百余歳の少年の形相の慈童に出会う話です。
周の次が秦の時代で、兵馬傭で有名な秦の始皇帝の築いた秦王朝です。そして、次に漢の時代に入りますが、その前に劉邦と項羽の両雄が争う戦国の漢楚時代があります。秦末の紀元前200年ごろのことです。能『項羽』は、劉邦(後の高祖)との戦いに敗れた楚国の勇将、項羽の最期に焦点を当てています。

能では劉邦を高祖と謡いますが、劉邦の名前の方が一般には聞きなれているように思えます。やはり司馬遼太郎の著書「項羽と劉邦」の影響が大きいのかもしれません。この二人、同じ位の年齢かと思っていましたが、項羽が三十一歳で亡くなるとき、劉邦はすでに五十代であったということです。ちなみに虞氏は十代の後半でしょうか? 項羽が歳下でありながら、それまでは連戦連勝したわけですから、如何に猛将であったかが容易に想像出来ます。



この能は、烏江(うごう=揚子江上流)の野で家路につく草刈たちが川を渡ろうと船を待っているところに老人の漕ぐ船が現われるところから始まります。草刈たちはいつものようにただで乗ろうとしますが、老人が船賃を請求するので、草刈は諦めかけます。老人は船賃はいらないと乗船を勧め、やがて岸に着くと、また船賃を請求します。約束が違うと草刈は憤慨しますが、老人は草刈の持つ草花を船賃がわりに欲しいと言い、赤い花を一輪もらって、美人草の謂れを語ります。この花は項羽の愛妃虞氏を葬った塚から生えたために美人草といい、項羽は漢の高祖に七十回以上も連戦連勝したが味方の裏切りから四面楚歌となり、この烏江の戦いで自害した、実は自分は項羽の幽霊であると名乗り、あとを弔ってほしいと頼み姿を消します。草刈たちが功徳すると、草刈の夢に項羽が鉾を持ち、愛妃虞氏を伴って現れ、四面楚歌の中、虞氏の哀切な最後と項羽の奮戦模様を再現し消えていきます。



美人草は漢名「虞美人草」、ポピーの名称が一般的です。花色は紅、桃、白、絞りなどがありますが、伝書にはわざわざ赤色を使用するようにと記載されています。私は美人草から「ひなげし」、そして「芥子」につながり、アヘン、モルヒネへと禁断の世界を想像してしまいましたが、ひなげしには麻薬成分は含まれていないということで、この間違った認識は捨てることにしました。

この能は唯一、鉾を使用します。扱い方は長刀と同じですが、横から切り払う長刀と違い、鉾は槍の原形で突く型が特徴となります。



能や狂言では中国系統の曲には、装束にも工夫がなされることがあります。
例えば観世流の『三笑』『天鼓』など、狂言なら『唐人相撲』と、それぞれ似合った装束で登場します。尉髪に違いを出している流儀もあります。私は今回演じるにあたり、『八島』の義経の化身の前シテの尉と『項羽』の前シテの恰好が全く同じというのが気になり、工夫が出来ないものかと思案していました。
すると能夫が「我が家に一風変わった側次(そばつぎ=チョッキのようなもの)がある、『項羽』の前シテに似合うと思う」とアドバイスしてくれたので、今回は着付け方も工夫し着用してみました。仲間内ではなかなかの評判でしたが、観客の方がどのように思われたのかが、気になります。あれが普通だと観てくださるなら、違和感がなかったということで成功だと思うのですが・・・。



ツレの装束も本来は唐織着流しの上に側次を羽織るだけ、何も持たずに登場しますが、愛妃虞美人が『西王母』の侍女と同じスタイルというのでは、虞氏の位が表現出来ないと思い、舞衣に腰巻姿そして頭には冠をつけ鬢を垂らし、唐団扇を持たせて、より虞妃の存在を前面に出し、妃らしさを強調しようと演出してみました。面も前の舞台が『住吉詣』で小面が続きますので、あえて、虞氏は若く小面でもよいはずですが、艶を重視して宝増女を使うことにしました。



後シテの面は本来「東江(とうごう)」で、伝書に未熟なる者は使用しないようにと注意書きがあります。東江は喜多の専用面と言われていますが、その人相はお世辞にも凛々しいとはいえなく、私は嫌いなので、今回は「怪士(あやかし)」を使うことにしました。
後は舞台正面先に一畳台を置きます。これは虞氏が飛び降りるときの高楼にも、揚子江との境界にも考えられますが、この台は四方に何も立てずに置くため、何処から何処までが一畳台なのかが判らず、演者にとっては非常に危険を伴う型どころとなり、注意が必要なことが演じてみてはじめて判りました。一畳台で舞う『邯鄲』では視界に四本柱があり、目安になって結界も出来、そのため気持ち大胆に動けるように思います。正先に同じように出す『小鍛冶』も注連縄しか張られませんが、台の隅々まで動き回るわけではないのでそれほど苦ではありません。

今回『項羽』ではじめて経験して意外と一畳台での所作が怖いことが判りました。きっと二・三十代ぐらいの若さなら平気で一回転や飛び回りが出来たんでしょうが、型をするたびに内心「えーい!」と掛け声を掛けていたのは、すこし悲しい、情けない思いが込み上げてきました。面を着けて何度も稽古していれば・・・と、演じながら思いましたが後の祭りです。これからはこのようなことがないようにと反省しています。

前シテは烏江の船人となって登場しますが、これは項羽が烏江の岸に辿り着いた時、川を渡り逃げるようにと船を用意してくれた船頭に、同士を沢山殺させてしまった責任は自分にある、それをおめおめとは逃げ帰れない、ここで自決すると言って名馬騅を授け戦地に戻ってしまうことの因果関係からではないだろうかと思っています。項羽は戦いに明け暮れて31歳の生涯を閉じます。天命だからと自らに言い聞かせ自決した死骸には恩賞が掛けられていたので、呂馬童をはじめ、みな争って死骸を奪い取ったと言います。悲劇のヒーロー、項羽の生涯や性格を調べていくと、私には木曽義仲がオーバーラップしてきます。

勝者があっという間に敗者になる。しかしそれにはそれなりの理由があります。武力に優れていても、我が侭で人を信用しない性格は、強さと結集力を持つ反面、事態が急変したときには、その体制はもろく崩れていくようです。四面楚歌になる状況は、味方の裏切り、策略への注意不足などから生み出されたものです。人を信じなくなった権力者や独裁者の最後はいつの時代も変わらず惨めなものです。今現在も身の回りを見れば首肯けることが多いのではないでしょうか?

能の多くは、このような悲劇のヒーロー、ヒロインを主人公にしています。そして舞台化することでその影の部分に光を当て主人公を生き返らせる、という作者の思いを強く感じます。成功者、勝者の能『劉邦』など面白いはずがないと考えたのだと思います。それでも時の権力者から『劉邦』を主人公とする能の創作を強制されたらどうしたでしょうか……?

たぶん世阿弥なら祝言能『劉邦』を拵えて「楽」でも舞わせてお茶を濁していたのではないでしょうか……これは私の勝手な想像です。「何故こうなってしまったのか?自分が悪いわけではない」権力者の最後の言葉に数多見られます。項羽も然りです。権力者・独裁者の盲点・死角とは、本人が闇の死の世界に行かない限り、自らの死因や現世での不備を究明できないということです。世阿弥が日本だけではなく異国人の猛将も書けたのは、芸能者の立場から主人である権力者に向かって、万国共通のテーマ「権力者の落とし穴」を訴えかけたかった、そこにメスを入れたかったからではないか…と、これも私の想像です。        
  (平成17年11月記)
写真 
能『項羽』 シテ 粟谷明生  ツレ 粟谷浩之   撮影 安彦喜久三
装束 側次、 面 怪士  粟谷家蔵       撮影 粟谷明生