『松風「見留」』の恋慕と狂乱

『松風』の恋慕と狂乱

第七十八回粟谷能の会(平成17年10月9日)で私は『松風』を選曲しました。『松風』は二十代から幾度となくツレを勤め、シテとしてはちょうど十年前の研究公演(平成7年)で披いて以来で、粟谷能の会での再演の必要性を感じていました。再演ということで、初演のときにはできなかったことをいかに取り組むかが課題となりました。

まず考えたのが面の選択です。喜多流は本来、シテもツレも小面を使用します。小面にもいろいろあり、皆同じお顔をしているわけではないのですが、かわいい清楚な感じの妹の村雨に対して、少し大人っぽい姉の松風を演じるにはそれなりのお顔が必要です。行平への執心を引きずる姉と、過去を悔やんで償って罰を受けている妹では、面にも違いが出てきて当然ではないでしょうか。今回、敢えて流儀の主張とは違う選択をし、姉と妹の違いを出してみたいと思いました。
実は前回の研究公演でもシテは眉の銘のある万媚(まんぴ)系、ツレは小面としましたが、その成果はあまり発揮されなかったので、今回はよりいっそう姉を浮かび上がらせたい気持ちで、宝増女を使用しました。観世流は一般的に、若女を使用するようですが、銕仙会系統では寿夫先生のお好みを継承してか、増女を使用するのが通例のように聞いています。

面が替われば、それに伴い烏帽子も替わっていいのではと思いました。かわいい小面には金風折烏帽子が子どもっぽく相性がいいですが、増女にはどうだろうか疑問です。ぴんと切立っている黒い小立烏帽子は大人を演出してくれるのではないかと思い選択しました。先代実先生は小書「戯之舞」で小面に小立烏帽子を使用されています。

 再演でもう一つ考えたのが小書演出です。当初は「戯之舞」という小書で演じようと考え、資料集めも始めましたが、囃子方を勤めてくださる小鼓の大倉源次郎さんや大鼓の亀井広忠さんの「戯之舞より、見留の方が魅力的!」の助言もあって、「見留」にしました。
喜多流には「見留(みとめ)」「身留(みどめ)」と紛らわしい二つの小書があります。「見留」は破之舞の留めに橋掛りに行き、扇をカザシ松を見る型となり、「身留」は大小前にてじっくり身体を正対させ松を見て留めます。一般的なのは「見留」のほうです。
『松風』は長丁場の曲です。今回は1時間50分でしたが、シテは中入りがない、この長丁場の曲を終始、気を抜くことなく緊張を持続させ、しかも観客に飽きさせず舞台に集中させる体力も気力も必要な、まさに大曲です。
そこでこの長丁場を、シテは三つの段落に分けて演じます。

第一の段落はワキ(旅僧)の名乗りから塩屋に入るまでの汐汲みの情景描写、第二はワキとの問答から行平の形見への思いの段まで、第三は形見を纏い恋慕の思いに狂喜して中之舞、破之舞を舞い、終曲します。
三つの段落に分かれているのは、この『松風』という曲の成り立ちからもうかがえます。『松風』は亀阿弥作『汐汲』がもとになっているといわれています。亀阿弥は田楽のころ、能がまだ確立する前の人ですから、月の光に照らされて、汐を汲む女の物真似芸を、それなりの見せ場を入れて創作したのだと思います。『松風』の第一段落の最後、「汐路かなや」で留め拍子を踏むところからも、あの場面までが『汐汲』に当たり、そこで終曲していたことがわかります。
その後、観阿弥が汐汲みする二人の乙女に行平という男をのせて『松風村雨』という戯曲に作り変え、世阿弥がさらに、そこから村雨を取り除いて『松風』とし、松風に焦点を当てたものと考えられます。

ここで、『松風』の第一の段落から見ていきます。
ワキの旅僧が摂津の国須磨に来て、松風、村雨の旧跡、磯辺の松を弔い、日の暮れそうなので宿を求めることにします。
真之一声の荘重な出囃子にて二人の海女が登場しますが、ここからが旅僧の夢の世界となり、真之一声は夢への架け橋となります。その導入部分に真之一声を持ってきたのは作者観阿弥や世阿弥の思い切った手法であり、うまい工夫です。
真之一声とは一般に脇能の前シテ・ツレが登場するときの囃子ごとをいいます。脇能の神霊の登場にふさわしく、荘重で品よく、しかも力強さが特徴です。脇能以外で真之一声でシテ・ツレが登場するのは喜多流ではこの一曲、『松風』だけです。脇能の荘重さとも少し違う、重苦しい雰囲気は二人の海女の賎の業、汐汲みというきつい重労働と、苦悩の深さをよく表現しています。

脇能以外にはほとんど使われないこの真之一声を観阿弥や世阿弥がなぜここにもってきたのか、その意図を探るなかで、作者がこの曲をどう改作し造形しようとしたかが感じ取れ、後の伏線になっていることが意識されてきます。
二人の海女(シテ・ツレ)が登場すると、橋掛りで向かい合い連吟となります。離れた二人の演者が声を揃えて謡うことはもとより難儀ですが、真之一声のため、ゆっくり重々しくと、いきなり難しいところから始まります。ここは騒がしくなってはいけませんが、去勢されたような軟弱な声では駄目で、「汐汲車、わづかなる、浮世に廻る儚さよ」が観客に適切に伝わらなくてはいけないと思います。

 『松風』では、この出だしだけでなく、シテ・ツレの連吟や掛け合いが多く、お互いの波長を合わせなければ、舞台は台無しになってしまいます。私はツレを多く経験してきて、『松風』のツレは特に、シテと拮抗するぐらいの力がないといけないと感じてきました。そこで、ツレの大島輝久さんには、これまで私が習い覚えたツレの心得をできる限り伝えたいと思いました。特にこの真之一声の「汐汲み車・・・」は、しっかりと芯の強い謡で、お互いの謡がビリビリと響きあうように謡おうと話しました。それがどのように聞こえたかは当日ご来場の方にお聞きしたいと思っています。囃子方の小鼓、大鼓、そして笛の一噌幸弘さんも、謡を盛り上げてくださり、よいアンサンブルができたと感謝しています。

第一の段落は、その後、須磨の景色を謡いながら次第にロンギへと進んで行きます。ロンギの最後に「月は一つ、影は二つ」とありますが、水桶を二つ汐汲車に置く時もある観世流と、一つ置くだけの喜多流では読み取り方が異なります。喜多流では空にある月が一つ、その影は車に乗せられた水桶に写るものと、もう一つは海面に写るものと解釈しています。ここを男は一人、女は二人と読み取る方もおられるようで、水桶が二つで出ていればそのように解釈できるでしょうが、喜多流の場合は素直に月の風景描写に留めているのではないかと思います。

 三つに分けた第一の段落は、男と女の恋物語に入る前の静かな情景描写です。私はこの場面では、月=空高くある白く小さな寒々とした月、夜の海・潮騒=寂しく、恐ろしさを感じるほどの浪の音、海女乙女=最下層の女性、汐汲み=最下層の海女の賎の業、地獄に堕ちた二人に課せられた重労働 といったことを意識して、それらが表現できればと勤めました。しかし、それはあくまでも重苦しく、執心の罪を背負った二人の海女乙女の次からの物語をどこかで暗示させるものでなければならないと思います。
中盤は、ロンギの後、塩屋での旅僧との問答から始まります。囃子方が床机からおり、シーンと静まり返った音のない舞台で、しっとりとしたワキとの問答。第一の段落とは明らかに趣が変わり、場面の転換がなされています。

『松風』は在原行平という男が姉と妹という二人に愛を与えたために起こる話です。身分を越えた最下層の女たちが、中納言の職にある色男の伽の指名を受けた喜びと衝撃はその後の姉妹の心に重くのしかかります。身分の違いもさることながら、男一人に二人の女性、それも姉妹という複雑な関係がこの戯曲の面白さでもあると思います。待つことを諦め、執心の罪を悟っているかのような冷静さを持つ妹の村雨、周りの環境に感化されやすい情熱的な姉。恋慕のあまり追憶に浸り、まだ待とうとする姉の松風。この二人の性格の違いがこの戯曲を最後までひっぱっていきます。

塩屋に一夜の宿を乞う旅の僧に、姉から言われたとはいえ、きっぱりと断る妹の村雨。その後、旅人が出家の身であると知ると、心が変わり宿を許す姉の松風。そこには、旅の僧なら自分たちを弔ってくれるかもしれない、常に救いを求めている松風の気持ちが隠されています。
案の定、ワキの僧は「わくらはに問う人あらば・・・」と行平の歌を持ち出し、松風・村雨の旧跡を弔ってきたことを告げ、二人の涙を誘います。
そして二人は名を名乗ることになり、自分たちの境涯を嘆くクドキへと導かれていきます。
クドキの最後には、「三年が過ぎ、行平様は都に帰られた、そしてそれから少し経ってお亡くなりなったらしい。ああ恋しい」と松風は待つ女の悲しさを切々と訴えます。シテが最も力を尽さなくてはいけないところです。

史実を知ると夢がさめつまらなくなりますが、行平は実際75歳ぐらいまで生きています。能では都に帰った後まもなく亡くなったことになっていて、そうでなければ、「あーら恋しや、さるにても」の謡に続きません。死者になった行平だからこそ、同じ死者である自分がもしかしたらまた会えるかもしれないと、松風は思い、ひたすら待っているのです。執心の罪を負いながら、まだ「待つわ」「会いたいわ」と一途な松風だからこそ「あーら恋しや」と謡い、その昂ぶりが狂気とも追憶とも取れる舞へとつながるのではないでしょうか。

そして行平の形見を抱いて、恋慕の情をつのらせる松風。ここはよい型どころで、先人たちはもっとも女らしいしぐさで型を見せてきました。自分もと思うのですが、なかなか上手くいかない至難の型所です。
今回、『松風』を演じて、一番難しかったのは、この塩屋のワキとの問答から形見の長絹を抱くまでの中盤です。松風の恋慕の情の訴えかけ、物着以降の狂乱へとつなげるための大切な場面です。ここが演じ切れたか、いささか不安でもあるところです。
終段は物着の後、磯辺の松を行平と思い、近寄ろうとする松風に、村雨が「あさましや」と鋭く制止する場面から話はエスカレートしていきます。ここにも理性的な村雨と恋慕の情がまさり、物狂いとなる松風との違いがくっきりと現れます。『松風』という曲はともすると松風ばかりを考えてしまいますが、この妹役のツレは大変重く影響力がある位の高い役です。私は理性が働く村雨役を経験してこそ、姉の一途な想いが理性をも撥ね退けるほどのエネルギーに変えられるのだと思っています。しかし、言い争う姉妹も最後には同じ思いに沈んでいくようにも見え、人間の感情の面白さ、深さを感じます。

 そして、「立ち別かれ」の地謡でイロエ掛の中之舞となります。形見の長絹、烏帽子を身に纏った松風は恋慕の舞を舞います。続く破之舞は『野宮』と同じ二の舞として舞われます。短いながらも主張のある舞です。ここに松風自身の思いが凝縮されていて最も大切な舞とされています。最初に検討していた小書「戯之舞」は、この中之舞と破之舞を合体させるような演出ですので、私の破之舞を際立たせたい思いとは少し違ってくるようで、今回の断念の一因でもありました。破之舞の最後、シテは袖を被いて作り物の松の周りを廻り行平との契りを表し、橋掛りにて扇をかざし、行平にも見える松を思い留めます。

舞ううちに夜が明け始め二人は何処ともなく消えて行きますが、小書「見留」では脇留(わきどめ・ワキが常座で留めて終わる)になるため、シテ・ツレは「夢も跡なく夜も明けて」までに幕に入ります。父は「故金剛右京氏のそれは風が吹くようにすーっと走り込んですばらしかった」と口癖のようにいいますが、正直国立能楽堂のあの長い橋掛りを綺麗に、短い謡の詞章の中で幕に入り込むのは至難の技です。曲が終わるまでにシテ・ツレが舞台から掻き消える演出は、いま目の前にあったものは夢・幻だったと思わせてよいのですが、やりようが問題になります。勢いよく、すたこら逃げるように見えては一曲が台なしになってしまうからです。ここは地謡も囃子も含めて再考の余地があるように思えました。

今回は小書「見留」で演じましたが、当初は「戯之舞」を考えておりました。「戯之舞」は観世流から戴いた小書ですが、その経緯が明瞭でなく、実先生の初演以来途絶えてしまっているので資料集めも難しい状況でした。私が調べた「喜多流の戯之舞」の経緯について、驚くべき発見がありましたので、ここに書きとめておきたいと思います。
先代の15世宗家喜多実先生は昭和44年4月6日の12代喜多六平太能静百年祭能を水道橋能楽堂(今の宝生能楽堂)で初演され、その際、当時の雑誌「喜多」の座談会に「戯之舞」について述べられています。ここに引用させていただきます。

実先生:「戯之舞」は元来おやじさん(14世喜多六平太)が先々代の観世清廉さんに「求塚」と交換してもらう約束していたものだ、ずいぶんこっちはわりの悪い取引だけれども、それがやはり反対があったらしいね。それで取りやめになって、去年元正さんのところに行って僕が頼んで承知してもらった。もっともそのとき「鸚鵡小町」の型付けを戴いておりますと元正さんの話だったよ、そのことは僕知らなかったよ。あっちには「鸚鵡小町」ないのだね、観世は。梅若だけにあるとかいうので、観世にはないので「鸚鵡小町」の型付をあげたらしい。左近さんのときらしいね。その話おやじさんにしたら、忘れちゃったというのだ。で、まあ「戯之舞」は随分長い間懸案になったまま中止になっていたのだ。だから今度もらって。

このように記載されています。私は今まで「戯之舞」と『求塚』の交換が成立していたと思っていましたが、事実はこのように不成立で、その代わり『鸚鵡小町』を譲っていたのは驚きでした。「戯之舞」を戴いて、『鸚鵡小町』を差し上げる不均等さは私には理解に苦しみますが、割の悪いトレードを敢えて行われたことの裏に、なにかが隠れているようにも思えて仕方がありません。しかしもう藪の中で、追求することは控えたいと思っています。粟谷能の会での『松風』を「戯之舞」にと思ったことが、思わぬ面白い発見へとつながりました。

『松風』は最初に述べたように、十年前の研究公演に続く再演でした。一度勤めると、初演のときの新鮮さ、意気込み、情熱といったものが薄れ、何となくできると錯覚してしまいがちです。安堵し危機感をなくしてしまうのは役者にとって怖るべき悪魔の誘惑だと感じました。
世阿弥は慣れを嫌っていました。いつも新鮮な気持ちで舞台に取り組まなくてはと説いています。慣れで同じ舞台を繰り返しているだけではつまらないものになるでしょう。先人、先輩方で何度再演しても、いや再演するごとに新鮮でよい舞台を創り上げている方もおられ、感心させられます。

 同じ曲を何度勤めることになっても、常に新しい気持ちで、チャレンジ精神を持ってやっていきたいと改めて思いました。小書への挑戦、面への選択もしかり、粟谷能夫と「我々はさきがけ隊でありたいね」と話しています。新しく切り拓くことには障害もあり、批判もあるでしょうが、さきがけ隊として、できる環境の中で、最善の努力と最善のチャレンジをこれからもしていきたいと考えています。
今年の粟谷能の会は新太郎追善能と銘打って行いました。能夫の『実盛』も私の『松風』も思い出してみると、新太郎が大好きで何度も勤めた能でした。いまそれらを勤められる環境にあることを感謝しています。
                    
  (平成17年10月 記)