『鬼界島』を演じて


『鬼界島』という曲名は喜多流だけの呼び方で、他流は皆『俊寛』です。
我が家にある九世喜多七太夫古能(健忘斎)の伝書には『鬼界島』と『草紙洗小町』の二曲の記載がなく、『鬼界島』が正式に流儀として演じられるようになったのは明治時代以降と思われます。では喜多流の『鬼界島』の変遷はどのようになっていたのでしょうか?

最近私が入手した七太夫長義(=おさよし、七世喜多十太夫定能と八世十太夫親能との間にて八世を継承すべきところ、部屋住みにて早生した。健忘斎の父)の型付には、表紙に喜多流極伝能手附とはっきり記載され、目録には『卒都婆小町』『鸚鵡小町』『小原御幸』などと共に、『俊寛』が記載されています。記載されている他の曲目を読むと、今でも他流とは異なる喜多流独自の形式が書かれているので、『俊寛』という曲名の記載だけで喜多流の伝書ではないと判断し、伝書自体を否定することは出来ません。『俊寛』の項に記載されている内容そのものは、現在の観世流にかなり近い演出となっているので、これが、どのような経緯で現代の形に変遷したかは、はっきりしません。ただ江戸期の資料がないと思っていたものが、実は『俊寛』という曲名で存在していたことを発見出来て、今回『鬼界島』を演じるにあたって(平成16年11月28日 喜多会)、曲目の歴史・変遷から次第に喜多家の歴史へと興味は大きく膨らみ、演能のよい手がかりとなりました。



現在演じられている型附は、十四世喜多六平太先生の創案だと思われます。
曲名が『俊寛』から『鬼界島』へと変更されていますが、若年の十四世喜多六平太が一人で再興したかは、いささか疑問です。これは推察ですが、当時の後見人の梅津家や紀家などの人たちと相談して、流儀独自の構成を創案したのではないでしょうか。曲名の違いからはじまる他流との相異点は数々あります。まず主ツレは他流は康頼ですが、喜多流は成経が主ツレとなり、成経が赦免状をもらい読みます。そのためツレを勤める順序も先ず若輩者が康頼を勤め、その経験を経て成経を勤めることができるという修業過程です。私は今まで『鬼界島』のツレを15回勤めましたが、その内訳は7回が康頼、8回が成経でした。伯父の新太郎や父がこの曲が好きで十八番であったためか、15回のうち10回までがこの二人のどちらかがシテでした。

 
次なる大きな相違点はシテの登場がアシラ匕出となることです。他流にある「後の世をー」の一声は省かれて、橋掛の一ノ松に出て「玉兎昼眠る雲母の地ーー」と謡います。このため一つの問題が浮上してきました。大鼓と小鼓は、アシラ匕出しの後のシテ謡には、道具を置き囃さないのが決まりです。例えば『湯谷』『巴』『砧』『半蔀』など皆そうです。しかし『鬼界島』はお囃子方の手附に「続けて囃す(アシラ匕)」と伝えられているのです。これは、明治の復曲の時に、三役と詳細な相談がされていなかったため、他流での一声から地謡、そしてサシ謡としての「玉兎昼眠るー」と定型パターンをそのまま導入したためです。アシラ匕出しでのシテ謡は静かに囃さずに謡うところに良さがあります。今回はお役の亀井忠雄氏、亀井俊一氏にお願いし了承して頂き、囃さない演出としました。

さて俊寛を演じる時その人物像は諸流同一ではないようです。喜多流の俊寛像は片意地はって人に従わず反逆精神を失っていない孤高の人物として描かれています。私は今まで俊寛は齡を経た人だと思っていましたが、史実は36歳という若さであったことを知り驚きました。能では、なかなか若輩の者には演能が許されないためか、どうしてもそれまで勤めてこられた諸先輩の方々の俊寛像が重なりあって、勝手に老漢と思っていました。実際、能の世界では実際の年齢よりも、少し老いた感じとして扱っていますが、37歳という若さで有王という弟子に看取られ、島で一人で亡くなっている、なんとも悲しい結末です。

 
『鬼界島』のシテの面は「俊寛」という専用面です。表情は流儀により様々ですが、我が家の面は、細面で彫りが深く独特の表情で、父はアラブ人の顔に見えると言います。確かに面だけを見るとそのように見えますが、花帽子をつけるとまるで表情が違って見えるから不思議です。

今回、『鬼界島』を演じるにあたり、平家物語や源平盛衰記の資料などを見て、意外な事実が発見出来て、演じるにあたり興味がますます湧いてきました。

まずことの発端は内大臣と左近衛大将を兼ねていた藤原師長(左大臣頼長の第二子)が左大将を辞任することから始まります。この師長という人物は能『絃上』のシテツレとして登場する琵琶の名手で妙音院の大臣といわれていましたが、太政大臣になるにあたり左大将の任を辞すことになります。そのため後任をめぐるポスト争いで野望を持つ三人の権力争いとなります。

本来、後任の最有力は徳大寺大納言実定でありました。この人物は一昨年、私の手がけた新作能『月見』の主人公で、徳大寺がこれに大きく関与していたことも驚きでした。そのほか花山院中納言兼雅や新大納言藤原成親もその地位を狙うという三者三つ巴の権力争いになるはずでした。しかし結果は意外、右近衛大将だった小松殿重盛が左近衛大将に昇格し、右近衛大将には次男の中納言でしかない宗盛が昇格するという大抜擢で、三人の野望は断たれます。この平家の横暴に反感を抱く者が次第に増え、成親、西光等の平家討伐を目論む者は団結して密議の回数を重ねていきます。そこにはあのしたたかな後白河法皇も参加するようになり、後白河法皇の近習の俊寛僧都(そうず)も自らの鹿の谷の山荘を提供し「鹿の谷の詮議」となります。

 
現在の「鹿が谷(ししがたに)」は昔、「鹿の谷(ししのたに)」といわれています。古く四つ足はみな「しし」と言い、いのしし、かのしし。鹿(しか)も、しし、と発音していたので「しかのたに」ではなく「ししのたに」と呼びます。(資料 「鹿の谷事件」 梶原正昭著 より)

ここでは蛇足ですが、徳大寺については後の記述があります。徳大寺実定は一旦落胆しますが、家臣の勧めで直ぐに平家ゆかりの厳島神社に参詣し、後に清盛の推薦を得て、小松殿重盛が左大将を辞任した後に宗盛を越してちゃっかり左大将になっています。

 
平家打倒を詮議するために集まった者は、後白河法皇、浄憲法印、西光法師、藤原成親、平判官康頼、多田行綱、それに北面の武士など、そして山荘を提供した俊寛僧都です。俊寛僧都は今は焼失してしまった法勝寺の執行で、僧都とは僧正の一つ下の位です。この俊寛という人は平家物語では元来信心深くなく、傲慢な性格で策士のように語られています。密議は、恐れをなした多田行綱の密告で発覚し、直ちに西光や成親は捕らえられ殺害されていきます。康頼と俊寛、そして成親の子息成経は薩摩潟の沖、鬼界島に死一等の流罪となります。源平盛衰記でははじめ三人はばらばらに小島に流されたようですが、しばらくして硫黄島に三人一緒になったとあります。

能『鬼界島』はそれから一年後、清盛の娘、建礼門院徳子の安産祈願のための非常の大赦が行われ、鬼界島の流人も赦免されるというワキ(平家物語に「丹左衛門尉基康という者なり」とある)の名乗りの言葉からはじまります。

ワキの名乗りのあと、舞台は鬼界島と変わります。薩摩の沖にある鬼界島とは、現在のどの島かは諸説あります。ツレの次第で「神を硫黄(斎う)が島なれば」と謡うところから硫黄島が有力説と考えられますが、鬼界島という名称の島も存在します。どこであろうと絶海の孤島にはかわりがなく、硫黄島の場合はとくに空から降る火山の噴煙が硫黄のため田畑が出来ない状況で、その生活の悲惨さは目に浮かびます。流人となった三人は、きっと島民の濃く毛が密生した焼けた肌色や訛りのある言葉、少数の島民しかいない非常に不便なところに地獄を見たのではないでしょうか。彼らはそこで一年を過ごすことになります。

 
ツレ二人(成経、康頼)は鬼界島に三熊野九十九所を勧請して信仰に余念がありません。上歌(あげうた)に「真砂をとりて散米に」と神に祈ることを忘れませんが、それに比べ俊寛は元来の信仰心のなさから全く信仰を捨てたかのように振るまい、この対比が悲劇の結末を暗示するように場面設定されています。三人が流罪になってから赦免されるまでは、およそ一年の月日となりますが、ではその一年間をどのように過ごしていたのかが気になりました。

諸説あり、三人だけしか流されていない、いや少しの供の者はいたであろうとも、また三人は同居していた、いや各々別々に生活していたと様々です。能の描き方では、やはり三人だけが流され、成経と康頼は信仰心もあり近くに居住していて、俊寛はひとり気ままな性格のためか、別のところに勝手に自分の住み処を持っていたのではないかと思われます。生活の実態は、成経と康頼へは都から手紙や食料物資が届けられていました。それは門脇宰相教盛の娘が成経の妻である親族関係であったためです。しかし俊寛には家族からの手紙も物資も送られてこなかったようで、そこにも俊寛の悲しみと怒りがあったように思えるのです。赦免される成経の帰国は俊寛にとっては今後の食料物資の停止を意味し、田畑が出来ない土地に残された者には、それは完全に生きる望みを断たれたのも同然で、悲劇性は計り知れません。


 今回の演能では喜多流では久しぶりに纜(ともづな)を出す演出としました。昔は纜を使用することが普通でしたが、最近は途絶えていました。纜があることで、ツレが纜を跨がなくてはいけない、クセの後半俊寛が赦免状を投げ捨てる大事な場面でアイが纜を舞台に設置しなくてはいけないなど、少々演技に差し障りがありますが、今回はアイの深田博治氏と相談して出来る限り問題が起きないようと改善策を練りました。結果舞台進行に支障なく、纜出しの演出が出来たことを喜んでいます。

能を習得するには、まずは基本形を経験して応用編に移る仕組みが正統です。であるならば、纜を使っての演技を踏まえた上で、使用しない型を駆使する段階へと進むことが大事だと感じました。マイナス面があるからと、初めから諦めて使用しないのではなく、マイナス面を出来る限り少なくする努力をして、そして次の段階に進むやり方でいきたいと思っています。現在流儀には纜がないので、今回も日頃お世話になっている銕仙会、観世銕之丞氏にご協力いただきました。ここに御礼申し上げます。

私の『鬼界島』はこれで二度目です。『鬼界島』は現在物で、劇的で舞踏的要素を全く持たない能です。舞の基本となる「シカケ」「開き」という型、定型の動きが一つもありません。能全曲の中で、もっとも演劇性が要求され、能楽師が、役者としての技量を試される特殊な能です。ともすると作品自体の劇的要素に頼りがちになり、その上に胡座をかいてしまいがちですが、それでは薄っぺらな芸にしか感じられず、到底この作品を表現したとはいえません。俊寛の拗ねた態度や一時の歓喜、そして忿怒と無念、絶望へとそれぞれの移り行く場面でいかに表現出来るかです。芝居ぎりぎりの演技を、生(なま)にならず、能の世界で許される範囲で踏みとどまり、どのように演じるか、『安宅』や『望月』同様、演者自身の演じる張りや役にどれだけ入れるかにかかっています。

『鬼界島』は明治時代の復曲のころの事情からか、型付等の伝書がなく、流儀本来の決まりがないというのは悲しくもありますが、反面演じる自由さもあるため、役者自身を試される、やり甲斐のある曲目だと思います。今回はまだまだ力不足を感じ反省していますが、纜での演技が出来たことが、よい経験となりました。次回へのステップとしたいと思っています。

この曲は『隅田川』同様全く救いがない悲劇の最高峰です。それだけに俊寛一人に焦点を絞り、俊寛そのものを演者自身がいかに手がけるかがポイントであり、それが演じるものへの限りないテーマなのかもしれません。NHKが録画した観世寿夫氏のビデオは『井筒』と『俊寛』でした。この舞踏と芝居の両極端の二曲で観世寿夫を表現しようとした、当時の担当ディレクターの意図と意気込みが、不思議にビデオを通して伝わってきました。その一つの極に挑めたことは幸せであり、一方で、人間の悲劇を徹底的に描いてきた能という芸能の抜き差しならぬ凄さに、身が引きしまる思いがしました。
(平成16年11月 記)

明治に発行された謡本『鬼界島』
 
 

厳島神社にある卒都婆石、康頼が鬼界島から流した卒都婆はここに流れついたと言われている。

康頼燈篭

俊寛僧都山荘はこれから急坂を登ります。

俊寛僧都山荘跡

京都東山双林寺にある康頼の墓(右)。(左)噸阿法師(中)西行の墓。

面「俊寛」粟谷家蔵


以上、撮影 粟谷明生

トップの写真 シテ 粟谷明生  撮影 東條睦

纜の演出 シテ 粟谷明生 ワキ 宝生欣哉  撮影 石田 裕

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