祝言の能『田村』について


 平成16年5月10日、広島薪能にて能『田村』を勤めました。『田村』は青年時代に稽古能でいたしましたが、公開のものでは今回が披きとなります。
先代宗家故喜多実先生は、青少年時代の稽古には厳格な一貫性をもって指導にあたり、我々直弟子はそれらを順次皆平等に平物(ひらもの=位が軽いもの)から稽古を受けて精進してきました。脇能ならばまず『賀茂』から始まり、『高砂』はなかなか許されませんでした。二番目物ならば、まず『経政』『知章』『箙』『田村』『敦盛』、次に『兼平』『巴』『八島』等が許されます。『清経』『通盛』は過去に記録がなく、勿論『実盛』『朝長』は論外です。『箙』『田村』『知章』『敦盛』などが選曲される理由は、前シテが直面の里男や『田村』のように少年であることが若いシテにとって取り組みやすいということではないでしょうか。特に『田村』の演能回数が多いのは、この曲が人間的な翳り悲しみとは無関係であり、心持ちより祝言性を基盤に脇能的な素直な稽古法で対応できることが大きな理由です。青年喜多会の過去の演能記録を見てもそれは歴然と判ります。


青少年時代、『田村』のキリの仕舞は『八島』と同様よく稽古させられたものです。少年時代は太刀を抜く能がかっこ良く憧れもあったので、『田村』を舞うときは「『田村』は刀を使わないんだなー」と子ども心にこの曲にもう一つ魅力を感じなかったことを思い出します。

キリの仕舞は「いかに鬼神もまさに聞くらん。千方(ちかた)といっし逆臣に仕へし鬼も…」と鈴鹿山の鬼神退治の話です。今昔物語には千方という頭領が鈴鹿山に立て籠もり、風鬼、火鬼、土鬼、隠形鬼と呼ぶ四人の手下を使って悪事をしていたので田村麻呂が退治したと記されています。白洲正子氏は山に住む異質の人種を「鬼」と呼んでいたと書かれています。私も鬼神、鬼の悪事とは先住民の抵抗であったと思います。能での「千方といっし」と謡われている世界と今昔物語では事実関係がすこし違っていますが、そこが能らしい演出なのかもしれません。

修行時代はとにかく「大きな声で…、張って謡え…」とひたすら身体で覚えさせられました。詞章がどうのこうのというのは問題外で、身体にたたき込んだものは意味も判らずとも詞章がすらすら出てくるので、これは究極の習得法だと今でも確信しています。しかし今、その指導法に感謝しながらも感じる事は、そこに停滞して満足していてはいかがなものか、それでは若き日となんら変わらず、なんとも情けないではないかということです。演能レポートを書きまとめるのは、そういう作業をすることで作品の見直しをし、もう一度身体に作品を浸透させるための手段だと思っています。

『田村』は勝修羅物と言われますが、実は修羅物ではなく祝言の能です。修羅物は修羅道という地獄に落ちた武将の妄執の責め苦を主題にしていますが、『田村』の詞章には「詞を交す夜声の読誦」と一言だけ仏教的な臭いがするものの、全体には祝言性に満ちています。修羅物と呼ぶのは江戸式楽の影響で、勝修羅三曲が特に武士に好まれたのは江戸期という時代背景によると思います。とりわけ初代征夷大将軍を扱う『田村』は征夷大将軍である徳川家には我が家の誉れを世にしらしめる恰好の曲だったのです。



前シテは通常、黒頭、水衣に着流し姿で面は童子(どうじ)です。面を喝喰(かっしき)にする時もありますが、そのときは喝喰鬘となります。この両者の面の違いは、演者が前シテを神道に関わる者と解釈するか仏教に影響を受けた者と受け取るかによります。地主権現の花守ならば神道系として「童子」が似合い、清水寺に関連づけると仏教色が濃くなり「喝喰」を選択したくなります。喝喰とは禅宗の寺に仕える半俗半僧の童子で食事などの世話をする少年を意味し、額に特別な髪型が描かれています。このたびは「童子」を選択し演じてみました。

後シテの装束は修羅物には頭に梨打烏帽子をつけるのが決まりです。梨打烏帽子は源平の区別で左か右に折ります。右に折るのが平家、左折(ひだりおり)が源氏です。昔、勝ったほうが左折で、負けが右だと誤解して装束をつけていた方がいらして、出る間際に折れ方が違うと言われ直していたことがありました。例えば『兼平』は戦では負けましたが、木曽義仲の家来ですから、源氏方、当然左折りです。ここで問題なのが『田村』です。当時はまだ源氏平家の区分けははっきりしていないので難しいところです。どちらに折るかと判断に困っていた時に「勝修羅だ、左折りにしておこう、そのほうが格好いいだろう」という意見が出てそのまま今に継承されているのが現状です。能夫氏が一度、折らずに真っすぐ立てて試みましたが、やは
りどちらかに折ったほうが落ちつき見栄えがよいというので、現在は左折りが主流です。

前場は春、桜の満開の京都清水寺地主権現に花守の少年が登場し、ワキの僧に清水寺縁起を語り僧に問われるままに名所案内をします。

現在地主神社の前には当時の桜はなく何代目かの地主の桜です。桜にも寿命があり、次第に枯れてしまうのだそうです。昔からある巨大な名物桜などを見ると永遠であるかのように錯覚していました。前シテは坂上田村麻呂の霊というよりも、神の使いとして大事な地主の桜を守る少年の花守として登場します。神聖な桜を折る者や花の下での宴から守るために花守が設定されているかと思うと、いつの世も衆生のあさましさを痛感します。以前、故観世銕之亟先生が夏の薪能で『田村』を舞われたとき、ワキ柱と目付柱に桜の造花を立てられたことがありました。先生が「こんなに暑い時に、いくら春の長閑さ、桜の満開を謡ってもお客様にはイメージが湧かないでしょう。薪能という機会だからこそ少しサービスをしてもいいのではないかな……」と仰っていたことを思い出しました。今回は桜の季節には遅れをとりましたが、春風を感じながらの『田村』は演じていても気持ちの良いものでした。

中入前の地謡に「地主権現のお前より、下るかと見えしが、下りはせで坂上の田村堂の軒漏るや月のむら戸を押し開けて内陣に入らせ」とあります。田村堂を想定して東方(揚げ幕の方)をカザシ見て、扉を開ける型をしながら中入りします。この田村堂の内陣は普通は拝観できませんが、先日テレビ番組でこの開山堂(田村堂)の内陣を見ることが出来ました。内部はお堂に向かい右側に田村麻呂の像、左側には高子妻室の像が安置されていました。能では田村麻呂が妻高子のために清水寺を建立したとは謡いませんが縁起物語ではそのようです(清水寺縁起しおり参照)。清水寺は修学旅行では欠かせない名所で誰でも一度は行かれていると思いますが、意外とその宗派は知られていません。唯識を唱えるこの寺は過去にいろいろな経緯がありましたが、奈良(南都)に対して京都(北)であるので北法相宗の本山となります。

後場は甲冑姿にて武将坂上田村麻呂が東夷を平定し、鈴鹿山の鬼神征伐の勝因は清水寺ご本尊千手観音の仏力であると讚えます。


勝修羅三曲では『箙』は「よく弔いて」と終曲し、『八島』は救済を求めない強い義経像を描いています。『田村』は喜多流には「祝言之翔(しゅうげんのかけり)」の小書や、また曲名の頭に白の字をつけた『白田村』があることからも、祝言性を強調した曲であるといえます。「祝言之翔」は面が「中将」となり、位が重く静かなゆったりとした翔になります。翔は翁の舞の片袖を捲く型が入り、戦況よりもめでたさを祝う特別な型となります。『白田村』は後の面が「天神」で鍬形を着し装束は白を基調として狩衣を衣紋に肩上して、型も橋掛りで行われ緩急が付く特殊な型となります。

今回、通常の『田村』を修羅物の枠から外し再考する、そのひとつの手段として、面や、出立ちにも特別な組合せを考えてみました。後の面については八帖花伝書や実鑑抄に「『田村』は祝言の修羅也、平太は祝言に掛けぬ面也。平太は坂東武者の顔也」と、「平太」は『箙』の梶原平太景季の専用面のように記載されています。「天神」では『白田村』に近づき過ぎてしまいます。今回は、我が家の伝書に「三日月」にもと記載されていましたので「三日月」とし、特別に鍬形を着けて試みました。装束は最後に記した通りです。父は装束を見ていると『白田村』のように緩急をつけて謡いたくなると笑っていました。能夫氏はこれぐらいの事をしないと曲が生かされないから、良い選択だったと賛同してくれました。今後も伝統や伝承を大事にしながらも、それを鵜呑みにしないで、自分なりの作品を立ち上げていく、作品を生かす演出や説得力のある舞台を勤めていきたいと、改めて気持ちを引き締めています。

ここに今回の後シテの出立ちを書き記します。
着付紅入厚板、白地狩衣(肩上)、紺地半切、太刀、面三日月、鍬形、梨討烏帽子、黒垂、勝修羅扇。
(平成16年5月 記)

能『田村』前シテ、後シテ 粟谷明生  撮影 石田裕
面 慈童、喝喰  粟谷家蔵      撮影 粟谷明生
清水寺の田村堂と音羽の滝       撮影 粟谷明生

(清水寺縁起しおり参照は下記)
清水寺の縁起


音羽山清水寺は、1200余年前、奈良時代の末、宝亀9年(778)の開創になります。

奈良子島寺の延鎮上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、幽邃の音羽山腹の滝のほとりにたどり着き、草庵をむすんで永年練行中の行叡居士より観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられ、千手観音像を彫作して居士の旧庵にまつったのが、当寺のおこりであります。

その翌々年、坂上田村麻呂公が、高子妻室の安産のためにと鹿を求めて上山し、清水の源をたずねて延鎮上人に会い、殺生の非を諭され、鹿を弔うて下山し、妻室に上人の説かれたところの清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を語り、共に深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置したのであります。

その後、延暦17年(798)上人は坂上公を助け、協力して更に地蔵菩薩と毘沙門天とを造像してご本尊の両脇士とし、本堂を広く造りかえました。

音羽の滝は、清水滾々と数千万年来、音羽の山中より湧出する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、ここより「清水寺」の名がおこりました。

古来、『源氏物語』『枕草子』にも記され、謠曲『田村』『盛久』らにも謠われ、浄瑠璃・歌舞伎『景清』に演じられ、広く篤い崇信を集めてきました。
寛永10年(1633)現在の規模に再建され、国宝の本堂、重要文化財の15建造物を中心とした堂塔伽藍の輪奐の美は、観世音の信仰とともに、観音霊場として多くの人々に渇仰されるところであります。
京都東山の中央・音羽山を背景にした絶佳の場所に位置し、京絡の町の南半を瞰下し、約13万平方メートルの寺域は春は桜、秋は紅葉と、四季の景観はすばらしく、観世音補陀洛楽土と仰がれております。
本尊の十一面千手観音菩薩は、霊験あらたかな観世音として著名で、西国三十三所観音霊場第十六番の札所として香華のたえることなく、全国屈指の名刹であります。
「松風や音羽の滝の清水をむすぶ心は涼しかるらん」

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