『烏頭』 ー殺生の業についてー


本州最北端の地、青森市で催される「外ケ浜薪能」にて『烏頭』(他流では『善知鳥』)を勤めました。外ケ浜(注・謡曲では外の浜)は謡曲『烏頭』の舞台として知られ、また版画家、棟方志功の出身地であります。棟方志功には能『善知鳥』を題材にした善知鳥版画巻があり、「善知鳥」(世阿弥元清原作、ブルース・ロジャース、メレディス・ウェザビー訳、棟方志功装幀、昭和22年旺文社発行)に掲載されています。今年は彼の生誕百年祭である為、今回の実行委員の方々が『烏頭』を選曲されました。
能『烏頭』は陸奥・外の浜でうとう鳥(ウミスズメ科の海鳥)を獲る猟師が、死後地獄の責めに苦しみ、僧に救いを求める物語です。

舞台は、越中の国(富山県)立山へ禅定(ぜんじょう=山中の霊場を廻る修業)した僧(ワキ)が目のあたりに地獄の光景を見て感慨し下山するところから始まります。そこに去年の春、外の浜で死んだ猟師の霊(シテ)が老人として現れ、禅定を終え陸奥へ向かう僧に、死別した妻子に麻衣の袖を届け、蓑笠を手向けてほしいと伝言します。立山といえば嶮しい霊山。今は立山黒部アルペンルートがあり、バス、ケーブルカー、ロープウェイを利用して簡単に立山から信濃大町まで横断できますが、その昔は、修験の山として信仰され、霊が集まる恐山、峻厳な秘境であり、立山に入ることは修行でありました。
私も学生時代に山に登った経験がありますが、残念ながら立山への登山は果たしていません。しかし室堂までは行ったことがあり、あのあたりの景色は今も覚えています。弥陀ケ平には「がきの田」といわれる、立山餓鬼道に堕ちた死者の霊が飢えを凌ぐために田植えをする田があって、この山に霊が集まるという立山信仰をあらわす不思議な場所でもあります。

後場の舞台は立山から遠く隔てた本州最北の外ケ浜となり、殺生を生業にする人間の罪という重いテーマを、前場、峻厳の地の立山と、後場、辺境の地の外ヶ浜を結んで描くところに、能『烏頭』の展開の面白さが感じられます。

今回は、初めてご覧になられる方もいらっしゃるのではないかと思い、物語が少しでも解りやすいようにと工夫を試みました。

一つは、日頃から気になっていた既存の簡略化されたアイの言葉の見直しです。横道萬里雄氏は著書「能劇そぞろ歩き」に『善知鳥』のアイの試案を書かれています。今回ご承諾を頂き、そのアイの言葉を野村万作氏のご協力を得て深田博治氏に勤めていただきました。通常、僧(ワキ)が外の浜在所の者(アイ)に猟師の家を訪ねると、「さん候、去年の春みまかりたる猟師の家は、あれに見えたる高もがりの内にて候。あれへ御出であって、心静かに御尋ね候へ」と非常に手短に、ややそっけなく答えます。それに対してワキは「ねんごろに御教へ祝着申して候」とたいそう仰々しく受けて謡いますが、私はここをかねてより不自然に感じていました。今回はご当地ソングでもあり、外ケ浜や主人公の猟師の説明などを丁寧に語ることにより、内容も一段とわかりやすくなり、ご覧になる方に身近に親しみを持っていただけるのではと思い試演してみました。
また「出し置き」の手法をとらないことにしました。出し置きとは、本来その場にいない人物を、最初から舞台に出しておくやり方です。『烏頭』の前場は立山が舞台ですから、外ケ浜の妻子がいるはずがないのですが、子方とツレは最初に登場してワキ座に座っています。初めて能をご覧になる方は、きっとここに戸惑いを感じると思うのです。「出し置き」は、能という中世の日本の演劇の特徴的な手法で面白いとは思いますが、敢えてわかりやすさに重点を置いて、中入り後、場面が外ケ浜に転回するところで、猟師の子どもと妻(子方とツレ)を登場させ、アイはワキに呼び出され幕から登場していただくことにしました。

 面は前シテが小牛尉、尉としては品のよい顔で、喜多流では『高砂』や『弓八幡』などの脇能に使用しますが、なぜ身分の低い猟師の霊が小牛尉を使用するのか、品位の落ちる三光尉でよいと思うのですが、その理由ははっきりしません。研究の余地がありそうです。
前シテは呼掛で橋掛りにて留まり、片袖を脱ぎ取りワキに渡します。シテは本舞台へ入るぎりぎりのところで、ワキは決して橋掛りに入らずに受け渡しをするのが流儀の心得です。シテのいる橋掛りは霊界、ワキの立つ本舞台は現世とされています。その境で「立ち別れゆくその跡の」と二人の歩みが糸を引くように同じように離れて行くと良いと父は言いますが、これはワキとよくよくお稽古しなければ、そう上手くはゆかない難しいところです。
後シテは「痩男」の面に、羽蓑を腰につけ杖をつき猟師の霊として登場します。
『烏頭』のメッセージはシテ自らが謡う「何しに殺しけん」に集約されていると思います。人間が生きていくために、他の動物の命を奪わねばならぬという悲しい業。地球上のあらゆる生き物は弱肉強食のルールの上で成り立ち、人間も又例外ではありません。もし猟師の殺生が罪というならば、それは人間の背負った宿命的な罪と言うべきであり、道義的に許されない不条理であっても、これはもうどうしようもないものと目をつむるしかなく、理屈だけでは割り切れないことでしょう。生きるための生業ならば、致し方ないと思うのですが…。

『烏頭』『阿漕』『鵜飼』の三曲を三卑賎と呼び、いずれも殺生を生業にする猟師達の話ですが、『阿漕』『鵜飼』の猟師達が弔われ成仏していくのに対して、『烏頭』の猟師は、地獄に落ちて呵責の責めを負い続け、最後まで成仏せずに消えていきます。救われない何かがあり、それが『烏頭』の特徴ではないでしょうか。
では、救われない何かとは何か。答えは狩猟方法にあるように思います。幼い雛鳥を狩猟するところに問題点があるのではないでしょうか。度重なる殺生のうちに、いつの間にかそれ自体が快楽となり、罪の意識が薄れてしまった猟師。雛鳥と感じた瞬間、もう目の色を変えて散々に打ち尽くす姿は、正気を逸し、まるで何かに取りつかれたとも思えます。


 猟師が鳥を打つ様を描く「カケリ」は「追打ち之カケリ」とも言われ、修羅道に堕ちた武者たちの苦悩や、狂女の心の狂いの様を表すカケリとは明らかに違います。型は正先に置かれた笠を巣に見立て、はじめは親鳥を狙い打ち、逃げられ空を見上げ悔しがります。二度目は橋掛りで「うとう」と親鳥の声をまねて謡い、それに答える雛鳥を見つけます。今度は散々に打ち殺し捕獲します。親鳥はそれを見て空から血の涙を流しながら泣き叫ぶという悲惨な場面となります。猟師は親鳥の血の涙が身にかかるのを嫌い、笠をかぶり蓑を着て身を守ります。現代でも人間が烏(からす)に襲われる事件がありますが、親烏は雛を守るために、巣に近づく者の頭めがけて襲いかかるといいます。襲われた人が帽子でもかぶっていたらよかったと言う言葉で、私は『烏頭』の笠と蓑というキーワードに繋がりました。前シテの猟師の霊の「蓑笠手向けてくれよと」と哀願する謡が、殊更強く切実な叫びとならなくては、と…。

稽古しているうちに、このカケリの動きが、親鳥を狙うものか、雛鳥を狙った狩猟なのかと、疑問を抱きはじめました。「うとう」と親鳥の鳴きまねをして、それに答える雛鳥を捕まえる猟法であれば、目的は雛鳥であるように思えます。あるいは雛鳥をおびき出して助けに飛んでくる親鳥諸共に打ち落としたいのかとも考えられます。我が師、友枝昭世氏ははじめの空を見上げる型は、雛鳥を打ちに行くと親鳥が猟師目掛けて襲いかかるので、親鳥への威嚇を表しているのではないかと言われます。でなければ一連のカケリの型の辻褄があわないと教えて下さいました。またある方は主眼は親鳥か雛鳥かではなく、猟という惨状の有様の表現ではないかと教えて下さいました。どちらであってもいい、観る方の想像にお任せすればという声が聞こえてきそうですが、どうも私は演者が自分の型、動きに説明ができないようでは問題ではないかと思う性分。師の教示でもやもやした疑問が晴れすっきり納得できました。

能『烏頭』は雛鳥の生命を絶つ罪の深さを、人間と鳥類の親子の情にからめて描いたところに主張があります。うとう鳥は親子の情愛が深い鳥だと言われています。「平沙に子を産みて落雁の儚や親は隠すと」も、外敵に見つからないように、親は懸命に巣を隠して子を守ろうとします。ところが、親鳥が「うとう」と鳴くと「やすかた」と答える習性があり、その親子の絆の深さがかえって命取りになっているわけです。そして、親子の別離は猟師の霊にも降りかかります。ひと目妻子に会いたいと外ケ浜までやって来る猟師の霊ですが、子供の髪を撫でようとしても、「横障の雲の隔てか」と阻まれてしまいます。まさに因果応報、罪の深さを鮮烈に描き出しています。

この救済なき罪にもがく猟師の心境。そこをどう表現するかが演者の力であり見どころです。後シテの「一見卒都婆永離三悪道、この文の如くんば・・・」と、経文を唱えれば助けてもらえるはずなのに、何故俺は救われないのか・・・という悲痛な謡を、単に朗々と謡ってはその苦しみが表現できるはずがなく、陰々滅々と気持ちを埋没して謡うだけなら容易いことですが、あの苦しみの訴えは通じないのではないか…。父は淡々と落ち着いて力強く謡う中に本当の強さが生まれ、それが聞いている人の想像力を掻き立てる、あまり前面に押し出すような謡ではいけないと教えてくれました。演じる心に余裕を持ち、下の下の身分の嘆き、実盛や頼政などの武将のような訴えかけの強さとも違う、低い身分にありながらもそこに強い張りと内圧のある叫びのような謡ができればと思うのですが、今回もつくづくその難しさを実感させられました。


 私が『烏頭』の子方を初めて勤めたのは六歳の時、父菊生がシテでした。シテツレも二十三年前の昭和五十五年にやはり父菊生のシテで、奇遇にも青森喜多会の公演でした。私自身シテは、十年ほど前の妙花の会以来の二回目の演能です。

子方で思い出すことはたった一度の稽古で「ツレが立たせに来たら立ってシテの傍まで行きなさい、シテが触ろうとするから、触られないように長袴を踏まないようにもとに戻り、あとは最後まで座っていて、終わったら立って帰るんだよ」とこの程度の指示で、最初から舞台に出されたあのときの心境です。中入りが過ぎるうちに段々、いつシテの近く行くのだろうと不安になりながらも座っていました。シテが我が子の髪を撫でようと寄って来るところを、スッと後ずさりして逃げる動作は子ども心にも難しいと思い緊張しましたが、何よりもシテと向き合って、その面の顔をまともに見た瞬間、本当に恐ろしいと驚きました。これは髪を撫でてくれるのではない、殺しに来るから逃げるのだと思いました。それほどの恐怖を覚えたのです。もちろん、その場面はただ恐ろしいというものではありませんが、触りたいけれども触れない無念さで歩みよるその緊迫感が、子方の私には異常な恐ろしさと映ったのでした。

このシテツレは本来は年相応の者が勤めるべきものですが、流儀では若年でも勤めるチャンスがあります。シテが若年で勤める場合はどうしても、さらに若い者にということでこの役がまわってきますが、このツレを見事に演じた若年の舞台を見たことはありません。若い身体に「曲見」の面は似合わぬではないのですが、問題は「げにやもとよりも定めなき身の習いぞと」に始まるツレの謡を聞くと違和感を覚えます。若さでは表現出来ないツレの謡。父が言うように何回も何回も謡い、謡い込んでいくうちに、徐々にそれらしく謡えるようになるとはまさにその通りです。自分の過去を振り返れば恥ずかしい限りです。

終曲に、猟師は「助けて賜べや御僧」と嘆願しますが、救いはなく成仏は難しいようです。作者は、猟師に救済処置を施さず、永遠に地獄の責めを負わせることで、幼い命を奪うことの悪を教えているように思えます。最近の幼児殺害という悲惨な事件の数々。大人、子どもを問わず人間のもって生まれた残虐性と愚かさをこの作品は戒めているのではないか、現代にも通じる強いメッセージになっているように思えてなりません。人間が生きるかぎり『烏頭』は廃曲にはならず、永遠のテーマとして演じ続けられるでしょう。猟師の魂はあの恐ろしい地獄の有り様を表す立山の霊山に永遠に彷徨い続けていると、私は思っています。

(平成十五年七月 記)
小牛尉 痩男 粟谷家蔵             撮影 粟谷明生
烏頭 シテ 粟谷菊生 子方 粟谷明生 モノクロ 撮影 あびこ喜久三
烏頭 シテ 粟谷明生         カラー  撮影 石田 裕

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