能楽鑑賞教室の『黒塚』を演じて

粟谷 明生

平成15年度の国立能楽堂主催の能楽鑑賞教室は喜多流の能『黒塚』、大蔵流の狂言『樋の酒』で催されました。6月23日(月)から27日(金)までの五日間、午前、午後の二部構成で十回公演、これを十人のシテ方が担当し勤めました。
能楽鑑賞教室は以前学生観賞能とも言われ、中高生など学生たちを中心に幅広く能、狂言に親しんでもらおうと催されるものです。シテ方は各流儀が交替で勤め、今年は喜多流の担当となりました。今年で20回を数えます。

歌舞伎役者や文楽など長期興行に慣れた方々は同じ曲目を繰り返し勤めることはさほど抵抗がないでしょうが、能楽師、特にシテ方は、一回一度きりの公演に身を置くことに自然と慣れているので、長期の公演はどうしても気の緩みが出てしまいます。その中で、いかに緊張感を持続させ、より良い舞台をつくるか、この五日間の興行をどのように過ごすかは、それぞれのシテ担当の能楽師、つまり太夫の責任に因るものと思います。

昔から興行が続く場合、例えば『翁』などの御神事のものは初日の式、二日目の式、と少しずつ演能形式を変え、演じる側の緊張を持続させ、観客にも飽きさせないような工夫が凝らされていたようです。伝書にも、続くとき、立ち会いのときには、それに似合った演じ方で演じ分ける心がけが必要と書いてあります。今回の興行はそのことを再認識する良い機会でした。

昔は家元から装束が出されれば、毎回同じ扮装、格好で登場することになります。幸い今は各々の演者が装束を調達するため、幾分個性が発揮され、一緒に舞台に出ている我々出演者の目も楽しませてくれますが、毎回同じ扮装、格好ですと、いささか興ざめしてしまいます。
今回、私は木曜日の午前を担当しました。前日までの演能形式に変化をつけようと考え、時間の短縮や、出囃子を変えることを試みました。地謡をはじめ、ワキ、アイ、囃子方すべての人の舞台慣れした空気を少し変えてみたいと思ったからで、必ず良い舞台効果を生むと確信していました。

前場は地次第「眞赭(まそう)の絲を繰り返し昔を今になさばや」のあと、シテの一声からクセまでを省いてロンギに続け、糸繰る労働歌「さてそも五条わたりにて夕顔の宿を尋ねしは」と糸繰る段に焦点を当てました。観世流には「長絲之伝」といい、枠枷輪を回し続ける小書がありますが、それにならってロンギの間、シテ謡を謡ながらも回し続けて糸繰りの動作をクローズアップしてみました。

黒塚の女をどのように勤めるか、どのように表すかは、演者の意識によりさまざまです。過去に人が人を食うという、犯してはならぬ罪障を背負った女が、今度こそは自らの過去を語り、懺悔したいと救済を求めている。夜陰の寒さに、通い慣れた山に薪を取りに出掛け救済者に暖をとらせようとする貞淑な女、私は決して前場で鬼女らしき所作は見せぬと思って演じています。中入りの橋掛りで一旦止まり、じっくり山を見上げ、裾を上げ、カッカッと大股で幕に入る型があります。ご覧になられた方から、「あのとき鬼女になったのですね」と言われましたが、私は、中年の女が真夜中、山へ薪を取りに向かうという強い意気込み、ある面尋常ではなくなる精神状態を表したいのです。庵で糸を繰る状態と山に出掛けようとする女の身体に異変がおきる、そこが表現出来なければと思うのですが。しかし能はあくまで、ご覧になる方の想像によるものです。鬼に変わったと思われればそれもまた良しなのですが、私としては鬼女になるのはその後と思って演じているので、演技の仕方に問題があったかもしれません。次回は型自体の修正も考え改善したいと思いました。山に向かった女の気持ちとは裏腹に約束は破られ、見られたくない閨の内を見られたその瞬間、彼女はまた鬼女となり、救いを求めようとした山伏をも食おうと襲いかかります。黒塚はこの怒りがテーマではないでしょうか。

今回後シテの装束は本鬘の掴み出しに般若をつけ、紅無腰巻の格好、登場の場面もそれまでやられていた早笛(はしり)を流儀本来の出端としました。これもまた工夫をこらし、怒りの鬼女は出端のはじめより幕から出て、三の松に止まり、逃亡する山伏達を見つけた途端、囃子が急速になるや、凄まじい形相で追いかけます。ここに鬼気迫る姿を表現したいと思いました。

 鬼女は柴を持って登場しますが、持ち方に二通りあります。通常は負柴といい、肩に柴を背負うやり方、もう一つは抱き柴といい、左手に着物で包んだ柴を抱えながら登場する方法です。抱き柴は本来白頭で千鳥に(ジグザグに)橋掛りを歩むときの持ち方ですが、私はこの抱き柴に女の思いを感じます。あの人のためにと木々を集め自らの着物で束ね大事に抱えるその姿。それが救済者であろうはずのその人に祈られ退治されようとするのですから、女はついに抱き柴をほうり投げ、鬼女の本性を剥き出しにします。私はここに鬼女の精神の完全な断絶があると思って演じています。

祈りという型、動きは『葵上』『道成寺』『黒塚』の三曲が有名です。(稀曲『飛雲』もありますが、見た人はいません。)『葵上』はねちっこく、『道成寺』は激しく、『黒塚』は強くと教えられてきましたが、祈られる者は三曲とも女です。
強く激しくと動き、型ばかりが先走りしてとても女とは思えない後輩達の祈りをみると自分もかつてこうであったなと反省しますが、今祈りに、もがき苦しみ襲いかかる女の姿が見えないとやはり本物ではないと思い演じています。後半はキビキビした仕舞所があり、鬼女は祈り祈られ次第に弱り、夜あらしに紛れて消えていきます。
能楽鑑賞教室はそれぞれの演者が競い合い、見比べられる場。これにどう対処したらよいか、自分なりに考え、成果を示す良い機会となりました。日頃もそうですが、こういう機会こそ、それぞれの役者が切磋琢磨し、喜多流全体のグレードを高めていくものではと強く感じました。

(平成15年6月 記)
写真 前・後 石田裕

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