『松風』のシテツレを演じて 

粟谷明生
平成14年10月17日、広島県、宮島厳島神社能舞台の観月能にて『松風』(シテ=友枝昭世)のシテツレを勤めました。
厳島神社能舞台での演能は、毎年4月16日から始まる三日間の桃花祭御神能が恒例の行事として行われていますが、観月能は中秋の名月を背景に、ここ5年程前より友枝昭世氏により(主催=厳島観月能実行委員会、中国新聞社、友枝昭世の会、特別協賛=積水化学工業、住宅カンパニー)公演されています。

 観月の名にふさわしく、日時は、天候、月の加減などを考慮して決められ、開演は夜6時半の満潮に合わせて始まり、特設の照明効果により舞台は美しく海の上に浮かび上がり独特の趣をかもし出しています。御神能の時は切戸口(きりどぐち)を使用するため、橋掛りの後方の壁板ははめたままとなり、舞台裏には仮設の通路が設置されますが、観月能では切戸口を使用しないため、橋掛りの背景には海が見え開放感を味わうことができます。

そのためすべての演者の出入りは本幕からという昔風の古い手法で演じられます。見所は回廊に椅子を並べ、また近年は特設桟敷席が作られるようになりましたが、見所からの美景とは反対に、演者側の感じる舞台状況は優美な世界とはかけ離れ、やりにくいものとなっています。

舞台を美しく照らす照明ですが、その光は、面をつける私達演者の目に入り視界を狭めてしまいます。周囲一面真っ暗に見えるため、演者は見当や方向を見失う危険にさらされます。また舞台の床板は平素吹きさらしの状態のため滑りが悪く、板は波打ち通常の運び(はこび=歩行)のようにはいかず、覚悟はしていましたが、舞台に立ってみるとかなりの戸惑いを感じました。しかしこれほどの過酷な条件下にあるにもかかわらず、私や観る人に少しもその不自由を感じさせずに舞う友枝昭世氏には、改めてその強靱な足腰、完熟の芸に圧倒、魅了され、敬服してしまいます。

私は今年47歳、そろそろ『松風』のシテツレをする機会も最後かもしれません。初めて父菊生のシテツレを20代で勤めてから幾度か勤め、7年前にシテを披き演じてみると、シテツレという立場がどうあるべきか、どのようにしたらよいかが、少しずつでもわかってきました。今回はそれらの経験をもとに勤めることを心掛けました。

本来シテとシテツレの登場は橋掛りで謡う真之一声(しんのいっせい=出囃子の名称)といわれるものですが、今回は特別に普通の一声(いっせい)で登場し、「潮汲み車わずかなる浮き世に迴る心かな」と謡い、続いて二の句といわれる「浪ここもとや、須磨の浦」というシテツレの謡につなげます。ここがシテツレ独吟の最初の謡いどころとなり、シテツレとしての位やその演者の技量の程度までが決まると言える大事な謡です。謡の位が重すぎてはシテツレとして失格、軽すぎて世界が広がらないのは問題外と言われ、演者としては悩むところです。舞台に出る間際、小鼓の横山貴俊氏にここの位について、「どの程度の位で謡うのがよいのか、たっぷり謡うべきでしょうか」などとお尋ねすると、「『松風』という曲は銀座のクラブナンバー1という気持ちです。少しやくざなんです」と答えられました。先日勤めた『野宮』の御息所の高貴な謡と比べると、なるほど『松風』の位の位置づけはそうかと思い、その言葉で『松風』に似合うシテツレの位取りが、電光石化閃いて、同時にその答えの面白さに妙な緊張が解け気持ちが楽になって、力まず謡え助かりました。

『松風』のシテツレはシテとの連吟が多く、その謡は重要です。シテツレとしての謡がシテに頼り寄り掛かるようなものでは、シテは疲労しストレスが溜まり良くありません。かといって、自分の勝手な調子を押し通す謡ではシテツレの立場をわきまえていないことになります。存在感がありながら出過ぎず、しっかりとシテを支える、これがシテツレの第一の心得と思います。言うは安く行うは難しですが。

 私はかねがね、難しいシテツレの謡が三曲あると教えられてきました。ここがうまく謡えれば一人前、次の段階に進めるのだと思い強く意識して謡い、また聞いてもいます。その三曲とは、『葵上』の「四阿(あずまや)の母屋の妻戸に居たれども」と、『砧』の「宮漏高く立って風北にめぐり」、そして『松風』の「幾程なくて世を早う」です。『葵上』はシテの怒りを誘い出す謡、『砧』は囃子方もアシライを止めるほど、じっくりと独唱する聞かせどころ、『松風』は姉、松風の心を狂わす仕掛け人の謡です。それぞれ皆シテの心を奮い立たせ、導火線に点火する触発の謡と教えられてきました。とりわけ『松風』のそれは難しく、ツレとしての音の張りや高さを持ちながらも、決して調子をはずさず、しっかりと火をつけなくてはいけない難しい謡いどころです。ここが成立していないと、シテが次に進めないといっても過言ではないぐらいです。
シテ方能楽師にとってシテツレという役はシテ役への一つの関門です。『山姥』を舞うには、あの長時間座り続ける肉体的苦痛をシテツレ「遊君百魔山姥」という役を通して体験しておくべきで、『松風』を勤めるにはシテツレ「村雨」という役を通しての難しい謡やシテと連動した動きを習得しておく必要があります。シテツレの経験が少ないのに、一足飛びにシテにシフトしては、型としては成立しても訴えの弱い能、痩せた能になるのは当然です。今の喜多流の状況があまり威張れた状態ではないように思うのは私個人だけでしょうか。

能楽師はまず舞歌の稽古、つまり謡と舞の稽古から始まるといわれますが、一方子方の稽古のように能の舞台としての稽古も並行してはじまります。青年期になると子方からシテツレへと移り、徐々に役がつくようになります。役がつけば一生懸命稽古し、時には失敗をしながらも段階を少しずつあげ、これから何回も舞台に立てるようにと心掛け精進します。その結果、次第にシテを勤める機会に恵まれるのです。シテの立場にたつと、今までやり残してきた山積みの課題が見えてきて、それらに取り組むためひたすら稽古に打ち込むこととなります。この夢中で稽古一筋に取り組む時期が大切なのは言うまでもありません。そして次第に広範囲に目を向け、演能に役立つものはすべて吸収し稽古する心、単に芸達者になるというのではなく、自己の演技を自分で確立しうる人になるということ、つまり「能を知る」必要を感じ、皆それぞれ個人の次にやるべきことに向かい修練し、一人前の演者になるのだと聞かされています。父は言います。本当にお金のとれる舞台ができる能楽師になれ!と。それが一人前ということだと。

私はシテが充分にできる演者がまたシテツレという役柄に戻ってきたときに本当のシテツレが出来るのではと思うのです。世阿弥は却来(きゃくらい=高い境地に達した後、また下位の境地に立ち返ること)という言葉を使い、上三花(じょうさんか=曲や演者のレベルが最高位)から下三位(げさんみ=曲や演者のレベルが低い位)へ却来する、つまり最終の本物の芸とは最高位を経験したものが曲のレベルが低いものを演じたときでも、単に表面的なおもしろさに終わらせず、曲そのものの豊かな広がりを感じさせるということで、この本物へたどり着く過程で却来をすすめています。

私はこの却来の流れを自分の理想の規範においています。今、身近ではシテツレから徐々に始めるという、時間のかかる手法が少しないがしろにされ、手短かに易くシテを舞う機会が多くなっているように見えます。誤解しないでいただきたいのですが、私はこれからの人に早いうちにシテを勤めるのがいけないといっているのではありません。本物になるためには時間をかけた下積みのしっかりした芸も同じように必要であり、それがシテツレの勉強、稽古であると、まずシテツレの役が沢山つくように日頃の修練が大事だと言いたいのです。そうでなければ、よい能が出来ぬシテや、シテツレも出来ない中途半端な能楽師が氾濫するような気がするのです。本物の芸の華を咲かそうとする栽培方法をもう一度、今の大人たちが再考する必要があると、今思い始めています。

(平成14年10月記)

写真  能舞台裏
回廊より鳥居
特設桟敷席より橋懸り
橋懸りに立って

撮影 粟谷明生

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