『実盛』で老体の執心に取り組む


『実盛』で老体の執心に取り組む

粟谷 明生


 二十世紀最後の研究公演(平成十二年十一月二十五日)で、私はかねてからの夢、憧れの大曲『実盛』勤めました。『実盛』は老武者の執心を描く大曲です。前場は老人の独唱が大半を占め、後場は老体ではあるが型所が多く、その動きの中に老武者の心情を入れなければならないため、若い演者には手も足もでない難曲と言われていますが、私はこの名曲を是非四十代で演じたいと研究公演発足の頃より計画していました。
 能の世界では、ある年齢にならないと老体ができないという消極的な考えが、さも本筋本流のように美化されているところがありますが、本来そういうものではなく、技量を持ち得た志のある演者ならば、若年であろうと許されるべきもので、演者は年齢に左右されることなく、常に前向きにそれぞれの高い目標を見据えることが肝心だと思うのです。でなければこの世界は閉鎖的であまりに悲しいではありませんか。今四十代で老体を経験しておくのは、それを演じるのにふさわしい年齢になったからといって、いきなりできるものではない、若い時に取り組む必要性を充分心得てのことです。そして何よりもよき指導者からの芸の伝承を逃すわけにはいかないという本筋の信念にほかなりません。今回四十代半ばの私の実盛がどうであったか、それにしてはへたじゃないか、といわれれば一言もないのですが、志がそこにあったことは、間違いないのです。
 若い人が老体を演じるのが難しいと言われる要因は、老体のからだなり、動きに、なりきれないということがありますが、もっと本質的なことは、尉である実盛の霊としての謡が謡えるかということにあると思います。声の質や発声を、老体らしくする工夫は当然必要ですが、それ以上に、実盛という人物像をどのように理解し、謡の意味するところは何かを明確に把握し、自分の中で消化して、イメージすること、だからこう謡うのだという裏打ちされたものが必要です。それが言葉の強弱や張り、位に反映し、強い訴えかけになっていくのだと思います。
 そこで私はまず「実盛の執心とは何だったのか」を考えてみました。「老武者とて人々にあなずられんも口惜しかるべし、鬢鬚(びんぴげ)を墨に染め、若やぎ討ち死にせん」と常々言っていて、それを実行に移した実盛。そこには、人生五十年時代に、七十三歳まで生きた男の、生き過ぎたという思い、どう死すべきか、人生の幕引への切ないまでの美学があったと思うのです。平家の衰退はわかっている、篠原の戦いが自分の死すべき場であろうと覚悟を決め、それならば若々しく、日本一の剛の者として果てたいと考えていたのでしょう。修羅の中に生きた老武者の死に場所は戦さの場こそがふさわしい。これが多くの戦さで人を殺してきた修羅の業でもあったのです。


 ところが実盛の思うように事は運ばない。二歳の頃、実盛が命を救っている敵の大将・木曽義仲、彼に討たれるならそれもよしと立ち向かう老武者の心意気を、家来の手塚の太郎光盛にはばまれてしまう無念。討たれた後、首を洗われ老体を暴かれてしまう無念。それによってあっぱれな武者として名を残すことになったことへの恥ずかしさ。これらが複雑に絡み合って、実盛の執心となって成仏できず、二百年もの間、幽霊となってこの世をさまようことになるのです。戦さの場でも名を名乗らず、二百年後、他阿弥上人の前に立ち、安楽国に生まれ変われると歓喜したときも、名を名乗らぬことに固執したところに、ひねくれ者・実盛の執心の深さが見てとれます。
 さて、実盛を知るために、ここで少し、彼の生い立ちを見ておきたいと思います。斎藤別当実盛は越前の生まれ、藤原氏の藤と、藤原の斎宮の頭を勤めたことから斎をとり斎藤の名字をもらったようです。別当は荘園の管理をする職で、それほど高い位ではなく、下級武士ほどの身分だったと思われます。保元・平治の乱では源氏につき、義朝のもとで手柄を立てています。二十年を経て篠原の戦いでは平家につき、これは二股武士ではないかと文楽などで脚色されているようですが、当時の田舎の下級武士は、自らの領地を守るために、その時々の領主につくことはよくあることでした。ましてや源氏方で戦ったときから二十年の歳月が流れているとあれば、何らの問題はなかったはずですお能で取り上げられ、あっぱれな武将と讚えられると、高貴な人と勘違いされがちですが、実盛の場合はごく身近にいる下級武士で、偉いのは人物像であって位ではないことをわきまえて演じるべきだと感じました。

 父菊生は謡が難しいものに『葵上』があるが、やはり一番難しいのは『実盛』だろう、その中でも前シテならば「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上、聖衆来迎す落日の前・・」と「深山木の、その梢とは見えざりし、桜は花に現はれたる、老い木をそれとご覧ぜよ」は、とりわけ難しいがいいところなんだと言います。
「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上」は能『石橋』で登場する大江定基、出家し寂昭法師となった人の臨終の和歌です。ここは浄土への距離感と透明感をもって遥かを見やりじっくりと謡うのが鍵のようです。
 また、「深山木の…」は名を名乗れの問答の後に自らをほのめかして謡いますが、大鼓の亀井広忠氏が「本来道具を取り準備するところですが、とても動けない」と言われるごとく、訴えかけのある大事なところです。これは頼政の和歌ですが、執心を残している老体同士をここにはめ込んだ世阿弥らしい洒落た演出を感じさせられます。
 そして物語も最後「老武者の悲しさは、戦には為疲れたり」。戦さ上手の実盛のはずが、老いて、戦さにも、人生にも疲れたと独白するところは、壮絶であり悲しくもあります。そして、篠原の土になることを願い、弔いを乞います。実盛の執心、心の揺れを常に意識しつつ気持ちを張りつめ謡っていくこと、この作業なしではこの作品は成り立たないように思えました。
 世阿弥は、斎藤別当実盛没後二百年目にして、その亡霊が時宗の他阿弥上人の夢枕に立ち、言葉を交わし、十念を授けられたという噂話に魅かれ、これを戯曲にします。当時流行の時宗のPRにもなるのではないかと思いたったようで、江戸時代に曾根崎で心中事件が起こると、即座に心中ものを戯曲にしてしまう近松門左衛門のように、作り手の名手達は、いつの時代も、世の中に流布する話に敏感でパワフルに対応していたのではないでしょうか。

 

修羅物としては珍しく、狂言口開け(アイが最初に舞台状況を説明する)で始まり、シテの老人を幽霊として登場させ、後半は甲冑姿にて極楽世界を謡い、強い執心の表現としての大ノリのリズムにも多分に踊り念仏を意識させ、全体に宗教色を強く現わしています。実盛の執心に焦点を当て、静かにその心の内を語らせながらも、ただ静謐さに留まらず、後半の踊り念仏の場や戦さ語りで盛り上げ、一人の男を描いていく当たり、さすが世阿弥、物語作家としての面目躍如というところです。

 四十代で『実盛』という老体を勤めて、今後五十代、六十代でのよりよい実盛への布石となったことは確かです。この曲が実盛という人物を通して、男の生涯はどうあるべきか、どう生き、どう幕を下ろすかという重いテーマを我々に投げかけているように思え、研究公演で取り上げ、深く掘り下げておく意義があったのではと思っています。

(平成十二年十二月記)

実盛写真
舞台写真撮影 石田 裕
首洗い池・実盛塚 粟谷明生

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