神となった光源氏 ー『須磨源氏』を演じて


 鎌倉芸術館が「能で見る源氏物語シリーズ」(全9回)と題して能楽公演を打っており、私はそのシリーズの5回目を依頼されて、8月6日『須磨源氏』を勤めました。『須磨源氏』という能は、光源氏が兜率天(とそつてん)という天上界から須磨の地に下向し、ひととき、在りし日の下界の地を楽しんで舞い、また天界に帰っていくという、比較的単純な物語で、能の基本の二曲(舞歌)に基づいて簡潔に作られた世阿弥作の小品です。演者としては、どこをどのように演じたらよいか苦心し、正直申しますと、やりがいのある曲とは言い難く、やりにくい厄介な曲の部類に入ると私は思います。
前場のクセなどは源氏物語の巻名を語呂合わせ的な詞章で綴っているあたり、能『源氏供養』にも類似しており、源氏の経歴を語るのみで、心のうちを謡いあげているものではありません。ですから奥深さがある能とは思えないのです。
しかし演じる以上何かを掴まなくてはなりません。それで私は気になる、光源氏、須磨、兜率天という言葉を軸に考えてみました。
『源氏物語』を本説にした能はたくさんありますが(現在残っているのは十数曲)、ほとんどが、源氏を取り巻く女性たちを主人公(シテ)にしたもので、光源氏自身が登場するものは『須磨源氏』と『住吉詣』のわずかに二曲。しかも『住吉詣』はシテが明石ノ上で源氏はツレですから、シテとして登場するのは『須磨源氏』のみということになります。数ある能の中でたった一曲しかシテとして現れない光源氏をどう表現するかが問題です。光源氏は『源氏物語』という物語の中の空想上の美男子です。同じ美男子でも、在中将業平の方は実在の人物としてそれなりのアプローチが可能と思われますが、源氏の方はつかみどころがありません。しかし、あまたの女性の心をとらえた美男子であることは間違いなく、平安時代から現在に至るまで『源氏物語』を愛読した人々のイメージの中の美男子像を裏切るわけにはいかないという難しい役どころです。
作者・世阿弥は、光源氏を登場させるのに、なぜ須磨の地を選んだのでしょうか。栄華を極めた地ではなく、都から自ら退いた辺境の地・須磨。
源氏二十六歳の春、右大臣家と左大臣家の政争の中、朧月夜との恋をきっかけに、自らの立場を自覚しての須磨への引退でした。須磨での侘びしい暮らしは、源氏に静かに物を想う清澄な時間を与え、その後の生き方を決める重要な転換期を作り出したといえるでしょう。すでに兜率天の神となり、天界に住む源氏が懐かしく舞い降りてくる地、そこは想い悩んだ青春の転換期の地・須磨以外にはないのです。住吉の神の導きによって過ごした明石では明石ノ上との恋があり、再び華やかな都に召還されるスタートの地となることから、須磨ほどの純粋性、透明性には欠けるのではないでしょうか。『明石源氏』では成り立ちません。
『須磨源氏』の詞章の中でわからなかったのが「兜率天」という言葉です。
サンスクリット語のトゥシタ(満足する)を漢字に当てた兜率陀が基になったといわれ、満足の心で満たされた境地を表すそうです。
辞書(広辞苑)を引くと「欲界六天の第四位。内外二院ある。内院は将来仏となるべき菩薩が最後の生を過し、現在は弥勒菩薩が住むとされる。外院は天人の住所」とあります。弥勒菩薩が住むというのですから、天上界でも位の高い仏が住むところと考えられます。

仏教の世界では地の下に地獄があり、地の上には天界があるとしています。その天界には1、2の地上に住む天、地居天(じごてん)と3?6の空中に住む天、空居天(くうごてん)があり、さらにその上には色界というもう一段位の高いところがあります。1?6に住む神々は、天(=天神)といわれながらもやることは人間と大差無く、道徳的にも不完全な神の存在であるそうです。より高所に住むものほど修行が進んでいますが、未だ愛欲なども持っているため、六欲天と呼ばれてるということです。(参考資料  定方晟 著 「須弥山と極楽」より)
私は、兜率天は神が住む空間であると同時に神の存在そのものでもあるように聞いています。能の光源氏は兜率天という空居天に住み、すでに神になっているように思います。早舞の後の舞台進行が『高砂』の住吉明神や『弓八幡』の高良の神のような脇能の作りに似ているのも一つの根拠になっています。ですから光源氏は気品のある美男子である以上に、神の存在としての神々しさが表現出来ればと思います。
このように考察してきて、今回は様々な新しいを試みをしてみました。
まず第一は面です。源氏は空想上の美男子、多くの人のイメージを崩さない面となると、意外に難しいものです。伝書では中将となっています。
中将には高貴な人々の亡霊系の面と、修羅道に落ちた平家の武人の二系統があります。『須磨源氏』ならば、この高貴な人がつける亡霊系を選べばよいということですが、なかなか『須磨源氏』に使えるような、きりっとした「中将」にはめぐり逢えません。
この「中将」という面は眉間にしわを寄せ、やや苦悩している表情なので、兜率天に住む神としての源氏には似あわないのではと、最初は思っていました。多少の憂いはあったとしても、神としての晴れやかさ、のびやかさ、大らかさがなくてはいけないのではと。そこで、「源氏」という専用面も思案しましたが、この面は「十六」の替えで、余りにも若過ぎて、人生の転換期を過した人の顔としては幼なすぎるため対象外としました。

今回私の意向を聞いてくださって、岩崎久人氏が「二十五六」のイメージにて創作面を打ってくださいました。此の面は邯鄲男をベースに今若、中将、若男を掛け合わせたようなお顔で、眉間に皺が入っています。当初は「中将」の眉間の皺が気になっていましたが、六欲天の事を調べているうちに、彼らは未だ色界にいて天という神でありながらも、やることは人間とそう変わらず、道徳的にも未だ不完全で愛欲さえあるらしい、ならばかえってその負を表現するためにも皺は必要かもしれないと思えたのです。
光源氏というテーマが大き過ぎるため、必ずしも全てが私のイメージ通りとはいかないまでも、創作面にかける意義を再考する良いチャンスとなりました。
能誕生当初は皆、面は創作であったわけです。般若は般若坊が女の恨み、怒り、嫉妬を持つ顔を想像して打ち、三光尉は三光坊が老人の顔とは、と想像して打ったのです。源氏の面としてピッタリ当てはまるものがない今、『頼政』には頼政という面があるように、『須磨源氏』にも適切な創作面が作られていくのもよいのではないかと思っています。
創作するエネルギーのすばらしさ。室町桃山は日本の文化の絶頂期といわれ、面制作においても傑作が続出しました。現代の面打ち師にも、素晴らしい模写の世界と共に是非創作にもエネルギーを注いでいただき、そういう面打ち師の登場を期待したいと思います。 次に装束です。我家の伝書に、「?後ハ、初冠(ういかんむり)追掛(おいかけ)有ルモ宜シ無シハ取リ合ワズ、源氏武官ヲ兼ネタル左大将也?」とあります。
追掛ということは、武官の姿でありますから、巻纓(まきえい・纓は冠についた短冊型の垂で巻纓はそれが丸く巻かれた状態)の武官式でもよいということです。源氏は武官・文官の両方の位についた人物だったので、どちらでも良いと言っているようです。
私は今回、直衣(のうし)《普通は狩衣で喜多流には所有者無し》を着てみようと考えました。直衣は裾横に大きな襞がついていて全体にたっぷりとした、いかにも文官の形で、身分の高い人が着るものです。今回は観世暁夫氏にお願いし、白地に金の刺繍が施されている直衣を拝借しました。ということで文官式ですから、追掛は付けず初冠(ういかむり)に垂纓(すいえい)の形となりました。
 そして新しい試みとして、冠鬘(かんむりかづら)をつけてみました。これは最近、暁夫氏が銕仙会にて能『雲林院』で試演されたもので、考案者は銕仙会の清水寛二氏です。
喜多流従来の面をつけて初冠をかぶるだけの姿ですと、演者の耳や髪という生な部分が見えてしまいます。今まではそれに慣らされてきましたが、私はこの格好を好むものではありません。
源氏は神となったのですから、出来る限り演者の素肌が出ない方がよいのではないでしょうか。今回冠鬘を拝借して、自分の髪と耳を隠し、鬘の髪を頭の上で結って、その上に冠をかぶるという本来の形でやりました。楽屋内では慣れないせいか「違和感がある」との話でもちきりでしたが、そのうち慣れるかもしれません。また今後は、黒垂や冠鬘の他にも、喝食鬘(本当の髪の毛を使った鬘)をつけるなど、兎に角生身の人間を出さない工夫はすべきであると思うのです。
私のイメージに近づけ、高貴な出立で登場した光源氏は、ただただ美しく舞うことが大命題で、ここをいかに舞えるかがシテの技量の見せ所、勝負どころです。
早舞は主に貴人が舞うものですから、颯爽と凛として、が心得です。
早舞には「クツロギ」という特別演出があり、今回私はこれを採り入れてみました。
「クツロギ」は舞の途中でしばし休息する意で、舞台より橋掛りへ行き、三の松でしばし佇んだままになります。そして徐々に高まる囃子の演奏と演者の想いの充実感によって又舞台に戻り、舞い始めるという演出です。この橋掛への行き来の時、リズムに合った笛を吹くのが常ですが、今回は往復ともリズムに乗らずアシライ笛にていたしました。これはなかなかやらないのですが、一噌隆之氏をはじめ囃子方全員にご協力願い、その場での一回勝負という、独特の緊張感の中で作りあげました。一つの舞台効果となったと思います。
私のクツロギでの心持ちは、橋掛りで佇みながら須磨の景色を眺め、青海波を舞っていた時分や青春期のあやまちを回想しながら、下界と天界の間の浮遊感を楽しむといったところです。神でありながらも人間的感情は残っているという色界の神の意識がそこにはあるように思えます。
謡では、「ロンギ」の最初「さてや源氏の旧跡の、分きていづくのほどやらん。詳しく教え給えや」を、ワキの森常好氏に特別にお願いして地謡の代わりに謡ってもらいました。ここの段はまさにワキがシテに問いかけるところですが、現在では地謡が代弁するように謡っています。阪大喜多会OBの藤田隆則氏の著書『能の多人数合唱(コロス)』によると、昔は地謡とワキが明瞭に分かれておらず、ワキが地謡も謡うのはごく自然なことのようでした。喜多流では地謡が謡うところを、地(観世流などはこう呼ぶ)といわず、「同音」というのは、このなごりからです。
今回試しに地謡の一部をワキの謡いに替えることにより、シテとワキのロンギらしいかけ合いが出来たらと考えました。この成果の賛否は判りませんが、地謡を謡った能夫氏によれば、シテとワキのロンギを黙って聞いていて、最後にいきなり「天に住み給えば・・」と張って謡うとなると、なかなか地謡全員のボルテージが上がっていかない。本来ワキが語りかけるところを敢えて地謡が代弁しながら徐々に高揚していき、最後の「雲隠れしてぞ失せにける」で大合唱となる現在の形式には、やはりそれなりの意味があるということでした。今の形の良さを再認識出来たことは、一つの収穫だったと思います。
お能には長く伝えられている形式があります。長い年月に洗われ確立されてきたものですが、形だけの継承で、なぜそれがよいのか実感できないことが多いものです。
今回のように、既存形式を代え新しい試みをすることで、なぜ伝承された形式がよいのかを発見できると思うのです。その意味で今回のさまざまな新しい試みは、次の演能へのステップとして生かされていくものと思います。
最後に、この曲を演じていて一番難しかったのは前シテの尉の謡でした。
世阿弥も『風姿花伝』で「老人の物まね、此道の奥義なり。・・・能をよき程極めたる為手(シテ)も、老いたる姿は得ぬ人多し」と言っているほど、老人を演ずることは難しく、能楽師にとっての大きな課題の一つです。『須磨源氏』においても、演者自身の声で謡って、自然に、前シテは尉に聞こえ、後シテは光源氏になるというのが理想です。私はまだ、自然と尉を演ずるまでに遠い道のりがあるようですが、いろいろ試行錯誤しながら体得しなくてはと思っています。
今回の『須磨源氏』は、待ちに待った粟谷明生指名の公演依頼でありました。
鎌倉芸術館の公演は、私のシテ方としての新たなデビューともいえます。嬉しくもあり、身が引き締まる思いです。これを機会にますます精進していきたいと考えています。

(平成12年8月 記)

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