対談 禅宗などから
能には命の高揚があるのですね
粟谷 明生
松下 宗柏
臨済宗の機関紙『法光』で「能の楽しみについて」記事にしたいということで、私(粟谷明生)のお弟子さんでもあり、臨済宗の僧侶でいらっしゃる松下宗柏氏と対談を致しました。能は宗教がベースになっていることもあり、宗教的、哲学的な話は興味深く、松下氏の軽妙な語り口に乗せられ、話は縦横無尽、とどまるところを知らぬこととなりました。
第1回目
謡の中の余白と間
松下 今日は、能の楽しみとか見どころとか、能にまつわるいろいろなお話を聞かせていただきたいと思います。
粟谷 どのようなことから入りましょうか。私が松下さんから教えて頂きたいことは、禅宗を始め、能が影響を受けている宗教的なものです。能はベースに、天台密教から始まって、浄土教とか、時宗や、いろいろありますね。特に禅宗は禅の心や考え方が深く入っています。観世銕之亟静雪先生も禅の力とか、余白や間、余白と抑制など本に書かれています。
松下 禅宗の教えでは、間との関係でいえば、呼吸とか息づかいに注目していますよね。私たちには動きの中の工夫「動中の工夫は静中に優ること百千億倍す」という言葉があるのですが、機(はたらき)として禅の心を表すということがあります。
粟谷 私どもも、呼吸とか間が大切で、例えば謡では「間が無く、矢継ぎ早に謡ってはいけない」、間とか空白があって、はじめて広がりのある謡が生きてくるのだと言います。単にだらだらと、また妙に詰まったように謡うのではなく発声とか言葉、謡の中にある種(たね)みたいなエキスをしっかり、とらえていなければならないのです。発声のことでは、世阿弥が書いています、「一調二機三声」。まず自分で調子をつかんで、次に機、機というのは気をためて、チャンスとか機会をねらってとかいう意味で、このような過程を経て初めて声が出るのだと。だから、何となく「あ」という声(音)が出るのではなくて、発する前にいろいろな意識が働き、作業が起こり、最後に「あ」という声が出るのだと。きちんとした呼吸法も意識していないといけないのです。このことがうまくできて謡われている方の謡を聴くとその舞台や演者に引き込まれていきますね。よい謡をする方はよい呼吸をなさっている、聞いていて安心ですよ。間があっても妙に焦れなくていいし…。それが、呼吸に問題があると、「あれー、絶句したのかな」と思ってしまうし、間を掌握できていないな、と感じてしまいますね。これらは余白とか抑制という言葉に関係していて、観世銕之亟先生の言葉は本当に説得力あると思いますね。
松下 世阿弥は何処でそういうことを言っておられるのですか。
粟谷 『花鏡』ですね。世阿弥は花伝書といわれる『風姿花伝』という最初に書いたものと、その後、晩年にかけて書いたものと少し変化してくるのです、どちらかというとおもしろいのは晩年に書かれたもので…。それはそうですよね。多くの経験を積んだ後に書いたものの方が面白いのは。お稽古を始めたばかりの初心者の方には「一調二機三声」などと言われてもピンとこなく、わからないでしょうが、稽古していくと徐々に、こういう言葉の説得力が判るようになりますよ。私、お聞きしたいのは、謡と読経の違いみたいなものなのですが…。
松下 そうですね、謡と読経の違い…。お稽古で、謡い方ではお腹から出すものと鼻から出すものとがあると教えていただきました。引く息もあるとも。
粟谷 人それぞれのやり方がありますが、自分の声質を上手に使って声を出す工夫ですね。松下さんの場合は鼻音というか、多分読経の系統のお声ですと、どちらかというと腹が三分で、残り七分は鼻を通しての声ではないかなと、そんな感じがしましてね。
松下 初めのころ、私の謡曲はお経みたいだと言われ、「これは褒め言葉じゃないですよ、良くないです」とおっしゃいましたが、それはどういうことなのでしょうね。
粟谷 失礼な事申し上げましてすいません、お詫びいたします。読経のことをよく知らないで申し上げるのは失礼にあたりますが、お許し下さい。私は読経が抑揚がなく、上り下がりが少なく平坦に聞こえるのですが…。
松下 そうですか。
粟谷 そちらは「いいえ、ちゃんと抑揚がありますよ」とおっしゃるかもしれませんが。現代の謡曲、私のまわりで聞いている範囲ですが…。平坦な音のつながりを嫌う…。
松下 お経は、同じ調子を続けていくというのが、ある意味では心に影響を与える力といおうか、打楽器みたいな効果があるのです。
粟谷 そうですね。謡の中ではそういうことはあまりやらないのです。たとえば役として巫女がお祈りをするときや祝詞を読むときは、鼓はポンポンと同じ調子でノットという手組みを打つ、こういうやり方でテンションを上げることはありますが、謡ではこの方法をとらない。うちの父はこういう謡を「雨だれ謡」といって、ぽたぽたと同じノリで謡うのを固く戒めていますよ。
松下 雨だれ謡ですか。それはお経ですわ(笑い)。天台宗の比叡山でやるのは、朝法華に夕阿弥陀といって、夕方の四時から五時ぐらいに勤める晩課で読む阿弥陀経は、御霊を鎮める、まさに雨だれですよ。心を鎮めるようにね。
粟谷 それは宗教的には一つの効果があると思うのですが、謡としては、してはいけないと。抑揚が大事でね。基本的にはすべてのものが序破急理論ですよ。序があり破があって急となる。導入、展開、解決ですね。
松下 変化ですね。
粟谷 ええ。大きいものから段々小さくなっていくとか、その逆でもいいのですが、とにかく変化と流れがないと…。謡も同じで、口を開け謡い始めてから謡い終わるまで同じ速度ではなく、段々速くなっていくとか。それが、そ・も・そ・も・こ・れ・は・な・に・な・に・と、同じスピードで謡われるとね。
松下 それは私ですな(笑い)。
粟谷 「そもそもこれは、花月と申す者なり」と謡うとき、「そもそも」というのが序で謡い出しですから、謡い出すまでに高さ、調子、といろいろ考えて、先ほどの一調二機三声理論でいうと、「そ」をどういう音で出すかというのを考えるのです。そしていつ謡うかですね。能の場合では、お囃子があるわけですから、例えば小鼓の鳴らした音を合図に、さあ謡うとなるわけです。
松下 第一声が非常に大事ということですね。
粟谷 どのように声を出すかが大事で、そのときなおかつ、大きいふくらみがあって、段々ゆっくりした序から破でちょっとスピードが加わっていく、そしてどんどん速くなり急になる。つまり「そもそもこれは花月と申す」と水が上から下まで流れる感じで。そして流れる最後は落下の法則でスピードが速くなっていくと…。同じように流れるのではなくて、時間が経った後の方、水の落ちる早さは速くなるでしょ。それはすべての場合に当てはまります。謡でも舞でもそうですね。ごくまれに例外もありますが。私はそう心がけています。
松下 謡にも舞にも序・破・急というのが出てくる?
粟谷 そうです。三番目物になって『定家』とか『野宮』『井筒』になると、非常に密度が濃くなって、動きもゆったりしてきますが、でも同じことで、舞いという動きの中にもゆっくりとしたところと、中ぐらいのところ、そして少し速いところと微妙な変化があるはずですね。
松下 濃縮した感じ。
粟谷 そう。だから基本的に、底流に流れているものは同じ。序破急。
松下 序破急。確かに序破急があってはお経にはなりませんね。
粟谷 能には訴えかけがある。お経は同じリズムで心を鎮めるもの…。
松下 そういうものでないといけないのですよ。
粟谷 そこがちょっと違うかな、というのはありますね。
松下 命の高揚、変化を映し出すのがお能なのですね。
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