横浜能楽堂特別公演 『半蔀』「立花供養」を語る
平成16年9月11日、横浜能楽堂特別公演で、『半蔀』「立花供養」が催されました。番組は川瀬氏の講演「花の心 能の心」から始まり、狂言『萩大名』、立花を出して、能『半蔀』「立花供養」と続きました。
舞台が終了した後、出演者の川瀬敏郎氏、山本則重氏、そして私、粟谷明生、演出家の笠井賢一氏、横浜能楽堂の中村雅之氏と大いに語り合いました。よいお花を立ててくださった川瀬氏には恐れ多い思いがありましたが、気さくなお人柄で、ざっくばらんにお話がはずみました。この会を企画してくれた横浜能楽堂の企画仕掛人の中村氏、私と川瀬氏を結び付けてくれた笠井氏、新進気鋭、将来が楽しみな山本氏、話はとどまることを知らず・・・。
(1)はじめに
中村 今日は満席、雰囲気もよくて、よい会になりましたね。
粟谷 満席でも、あまりぎゅうぎゅう詰めとは感じませんね。ゆったりしている感じにこちらからは見えましたが…。私は横浜能楽堂で舞うのは初めてで、音の跳ね返りがいいですね。
中村 でも先生、うちの舞台には地謡などで散々出演しておられるではないですか。
粟谷 面をかけて舞台に立つのは初めてですよ。面を通しての感覚は違いますからね。声の通りはいいよね、びっくりするくらい。もっともお囃子方とは意見が違うようだけれど…。
中村 先生にお願いする曲がなかなかなくて、それで8年間待って、今回は満を持してお願いしたわけです。
粟谷 ありがとう。待っていた甲斐がありましたよ。(笑い)
中村 気持ちよく舞っていただいて、私も8年間待った甲斐がありました。
粟谷 笠井さんがまだいらしていないから…、きっと後からご批判をいただき、駄目だしが出ると覚悟していますけど・・・。(笑い)
中村 笠井さんには本当に感謝しています。川瀬さんを説得していただいて…。
粟谷 笠井さんにも、中村さんにも本当に感謝していますよ。私は本当にやりたかったから。
中村 よかったですよ。そういっていただけると。
(川瀬氏が少し遅れて登場)
川瀬 すみません、遅くなって。後片付けに追われているうちに。花って、最初にやらなければいけないのですけれど、後片付けがあって最後になってしまう。でもまあ無事終わってやれやれです。
粟谷 本当にありがとうございました。
川瀬 いや、本当に。どうなるかなんて、昨日まで心配していたんですよ。
中村 お客様の雰囲気もよくて、よい会になりました。
川瀬 それはよかった。
粟谷 周りの方に恵まれて、本当に!!(笑い) ありがとうございました。(笑い)今日もお客様がなかなか帰らなかったですね。橋の会のときもそうでしたね。
中村 終わった後、立花を見てもらうということで30分ほど時間をとっていますからね。それが楽しみという方も多かった。私自身、国立能楽堂で拝見したときも、終わってからお花を近くでじっくり見せていただきましてよかったですから。
川瀬 脇正面や中正面にいた方に最後は正面で見てもらわなければならないので。だから、中入りでお花を下げてしまう場合は、脇正面や中正面におられた方はほとんど見られないことになりますね。
粟谷 ペンギンみたいに前のめりになって熱心に見入っておられた方がいらしたけれど、わかる気がしますね。
川瀬 終わってからいろいろな質問を受けましたが、人それぞれでおもしろいものですね。
粟谷 どんな質問ですか。
川瀬 最後、立花の花の真を抜いて見せるのではないですか、そういうのを本で読んだことがあるんですけれど…とか。一番多いのはやはり花材の質問ですね。あと、こんなに長い素材はあるのですかとか。
中村 やっぱりいろいろ興味があるのですね。
粟谷 川瀬さん、「立花供養」のお願いのお話をしたのは覚えていらっしゃいますか?
川瀬 1年ぐらい前ですね、このお話をいただいたのは。その前に橋の会があって。
粟谷 橋の会のその日ですね。ちょっとお願いがありますと申し上げて…。
川瀬 そうでしたね。
粟谷 お花を片付けた後の、お疲れの時にこの話でしたから。(笑い)
川瀬 去年の7月でしたね。
中村 「立花供養」を川瀬さんとやろうと話を持っていこうとし、橋の会のチラシを見て絶句してしまいましたよ。
粟谷 実は橋の会の打ち上げ会に私も同席することが出来て、その後に、笠井さんに川瀬さんと合う機会を作っていただき、青山のコジャックで川瀬さんにご馳走になっちゃいましたね…。
中村 それで実現できてよかったですよ。
粟谷 川瀬さんは、やっと終わったという日だったから、ちょっと食傷気味だったでしょうが、笠井さんが口説かれて。
中村 僕も企画としては二番煎じになるのではないかと。真似をしたと思われるのは嫌だなというのがありました。
笠井 客層も違うわけでしょ。
中村 客層も違うし、演者の組み合わせも違うし、これはもう内容を転換しなければならないと思いました。
笠井 川瀬さんは今回で「立花供養」は6回目ということになりますね。
川瀬 そういうことになりますか。最初はカザルスホールで浅見真州さんとでした。あれも笠井さんに頼まれたのでしたね。
笠井 そうね。それから名古屋で2回、片山九郎右衛門さんと大槻文蔵さんと一緒で。そして去年の橋の会の二日連続公演で、梅若六郎さんと友枝昭世さんと。そして今回で6回。
中村 真州先生、九郎右衛門先生、大槻先生・・・。
笠井 大物だねえ。
中村 六郎先生、友枝先生、そして粟谷明生先生。
粟谷 ガーン。(笑い) だから私は時分の花といったでしょ。川瀬さんは真の花だけれど。
笠井 だから、僕はチラシに「粟谷明生が川瀬敏郎の花との立ち会いで、いかなる真の花を咲かせるか、刮目して待ちたい」と書いたんだよ。
中村 あのコピーは二番煎じにならないための仕掛けでもあったんです。
笠井 川瀬さんが「立花供養」を6回やってきたわけだけど、僕が鮮烈に覚えているのは友枝さんと六郎さんのでやった、蓮の立花供養ですよ。川瀬さんとは長くおつきあいしているつもりだけれど、ああ、変わったなと思った。ある種、その年々で更新している、つまり同世代だからわかるのだけれど、この世代で更新しなければいけない位置にいて、それを見事に成し遂げているなという感じがした。
川瀬 徐々に変化はしていますよね。
笠井 その緊張感はすごく感じましたよ。
粟谷 私も橋の会の2日目を見せてもらいましたが素晴らしかった。あの橋の会の2日間にしても今回の会にしても、ああいうものだったら自分もやってみたいなあーと、喜多流の、いや他流の若い人たちにも大いに刺激になったと思う。憧れみたいなものをみんな持ったと思いますよ。
川瀬 そうですか。それはありがたいな。
(2)横浜能楽堂に合う「秋の草」
粟谷 今日の立花は、真ん中にススキがすっくと立って、下に桔梗や女郎花などの秋の草花をあしらう感じのお花でしたね。
川瀬 今日のは、秋の草をどうやってやろうか、いろいろ考えたんですよ。横浜能楽堂は舞台自体が瀟洒なんですね。秋の草が一番似合う舞台だなと思いました。たとえば国立能楽堂ですと、ああいう秋の草では、とてももたないと思うんですね。きっと世界が違う。そういう意味では場というものがすごく大きい。
笠井 本当、場ととても合っていた。場とこうなじめるというのは、ある年輪だね。
川瀬 そうですね。先日、8月に能楽堂を見せていただきましたが、思いがけないほど瀟洒なんだなと。これは上に硬いものが来たのではしんどいなと思ったのです。
粟谷 鏡の間から舞台を見ると床の新しい感じ、私は白さが気になるんですよ。歩み(運び)易さは問題無いのですが、どうもあの白さが本格志向で思うと引っ掛かると。でも演じているときにはわからなかったのですが、終演後、見所にまわって拝見して、改めて感じたのは、あの鏡板の松の色とか、屋根の色、あのちょっとこげ茶っぽいあの色がとてもいいんですね。あの色、とても落ち着くんですね・・・。あの鏡板の年季がかかった風合、本当にいいですね。そこにまた瀟洒な秋の草花でしょ。すきがないという感じですね。
中村 その点は得しているところですね。川瀬先生がおっしゃったように能楽堂全体が瀟洒な感じというのは。あれ、誰が設計したかと思うんですが、前田斉泰の趣味というか、個人的な耽美主義が全部でているのかなって・・・。
川瀬 西本願寺の舞台などですとしっかりしていて、本願寺の建造物の柱に匹敵する真を立てますが、こちらの能楽堂はどちらかというと江戸末期の独特の雰囲気といいますか・・・。
中村 そうですね。しゃれたというか。言い伝えによると、前田斉泰が知らないうちに家臣が作ったなんていいますが、あれは前田斉泰自体の幕末の大名の好みかなと。
川瀬 幕末の絵というのもだいたい、ああいう小ぶりのものですよね。
中村 お洒脱な感じですよね。
川瀬 そういう意味で言えば、時代の嗜好というのが大きいかもしれないですね。見に来てくださった方で、懐かしい舞台だとおっしゃった方がおられました。
粟谷 あの昔の染井能楽堂をご存知なのかな。(横浜能楽堂は染井能楽堂を移転したもの)。私は金春惣右衛門先生が住んでいらした時の事をまだ覚えていますよ、あの舞台の桟敷席で金春国和さんと追っかけっこしたんだからね。
(3)狂言『萩大名』について
笠井 則重さんは『萩大名』のシテは何度目ですか。
山本 2度目です。
粟谷 今お年はおいくつですか。
山本 27歳です。
中村 少し早目ですかね。
粟谷 そんなことはないでしょ。
山本 大体今までは東次郎がシテをやって、僕たちが冠者や亭主をやるんですが。
笠井 僕、いいと思ったよ。本当にいいと思った。
山本 舞台から戻ってきたときに、東次郎が僕がシテをやったときは父親が亭主でおじいさんに太郎冠者をやってもらったんだと言っていました。今日は東次郎が太郎冠者で僕の父が亭主ですからね、だんだん、そういう風に逆の立場になっていくって。
笠井 そうなっていくね。泰太郎さんは何回もやっているの。
山本 やっております。
笠井 あなたは酒を飲まないと聞いたけど、そういうこともあるのかな、その分酒を飲むという演技により自覚的でそういう意味で東次郎さんの資質に似ているなあという感じを持った、僕は。
山本 ああ、そうですか。
粟谷 だって、東次郎さんに習っているのでしょ。
笠井 そうだけれど、資質はみんな人それぞれだから。泰太郎さんとか、みんなそれぞれ違うから。何となく、ちょっとそういう思いがあったなあ。
山本 私も、山本の若い者の中では、東次郎先生の精神性に一番似ているとは思います。
笠井 泰太郎君が直球を身に受に付けていて、直球勝負の気持ちよさ、スピードで勝負しているみたいな感じがするけれど、東次郎さんはそうじゃないわけよね。今や、あなたはその東次郎さんのそういうところを受け継ぐ資質を持っているのかなと、ちょっとそう思ったけどね。
山本 そうですか。
笠井 流是としてはあまりよくないのかもしれないけれど。東次郎さんやあなたは台本をちゃんと読もうとしているというか、役の位置を考えようとしているなというのがあるわけ。それが流儀の決まりの中でバランスをとっていくといいなと思いました。今日の舞台はあなたの親父さんと東次郎さんと、両方がうまく支えてくれていたし、あなたがとてもよく見えた、本当に。
川瀬 よかったじゃないですか。
中村 東次郎さんの論理的な部分は則重さんが一番受け継いでいますね。
山本 稽古のときにそういう感じですから。
笠井 東次郎さんはすごく台本を読んで考えている人ですよね。
山本 理詰めですからね。
笠井 そうしたこともやっぱりやらないと。山本家のよさは一杯幅があるけれども、その中の一つ、東次郎さんがずば抜けているのはそういうところもあるから、それは受け継いでいく人がいないとね。それは僕は思いますよ。
中村 東次郎先生がやっていることを、若い人はバラバラのキャラクターでやっているから。それを合体すると東次郎先生になるのかなと。
笠井 そうね、全くそう。
中村 今、笠井さんがおっしゃったけれど、則孝さんとか泰太郎さんはまさに直球でやってくれる、論理的なものより、とにかくやると。それが東次郎先生は考えてやると。その部分というのは・・・。
笠井 ただ、その部分は40過ぎてからやれと、親父さんに言われたんでしょ。
山本 60ですよ。道は長い。
中村 まだ30年ある。
笠井 だけど僕はやっぱり、そういう感覚を20代で持っていない人は40代、50代になってもなかなか行かない、行かないままで終わってしまう人が多いと思うのですよ。そういった意味で、こういうものは大事にしてほしいと思うし、しかしやっぱり直球の大事さね、お宅の流儀でいえば語りの大事さみたいな、まっすぐやる強さみたいなものも大事にしてほしいし、それがそういう風に変わっていく時間と、その幅を共有してほしいなという気がしたなあ。
山本 ちゃんと見ていただいて・・・。
川瀬 笠井さんのそれ素晴らしいね。やっぱり資質というのは、若いときにないと本当に花開かないと思うんです。
中村 今回狂言を、今のタイミングで則重さんにお願いしたというのはそれなんですよ。それはもうチラシに書いていただきましたけど。
笠井 馬場(あき子)さんのね。
中村 今まで則孝さんがすごく伸びたとき、泰太郎さんがすごくよかった時期、あるとおもいますよ。それはそれでいいけれど、山本若手の4人の中で、今盛りなのは則重さんかな。ここ1、2年すごくよくなってきたから。
笠井 役ついているしね。
中村 だから役がついているんですよ。
川瀬 伸びる時期というのはあるんですよね。
笠井 停滞する時期もあるからね。(笑い)
山本 厳しいお話ですね。
川瀬 粟谷さん、停滞したと感じられることもありますか。
粟谷 今日、停滞しちゃったんじゃないかな・・・。(笑い)
中村 今日停滞されると、こっちが困るんですよ。(笑い)
川瀬 本人の自己申告というのはあてにならない。本人が停滞していると思っているときによいものができているときもあるし、すごく自分でよくできたと思ったときの方が・・・。
粟谷 悪評ということもありますからね。「どこが悪いんですか」「それが分からんのか、お前は。もうちょっと考えろ」なんてね。
川瀬 それはありますね。
笠井 役者はなかなか自分のことは見れないよ。
粟谷 段々、年を取ってくると、自分で自分を見るしかない。60を越したら誰も注意してくれなくなりますからね。恐いですね。本当に言ってくれる人がいなくなると。
中村 先生には、ちゃんと笠井さんが言ってくれる。
粟谷 笠井さん・・・・・・。
笠井 今日はしっかり見たからね。(笑い)
粟谷 あとが怖いな…。(笑い)
(4)昔の「立花」は天こ盛り
粟谷 今日、川瀬さんが立てられているところを拝見しながら、喜多流の健忘斎の頃の伝書をお見せしましたよね。ここに書いてあるのはお花がてんこ盛りで野暮ったくないですかと申し上げたら、そうですねって・・・お答えになられて・・・。
川瀬 伝書によると、すごくたくさん入れるものなんですね。びわの葉35枚とか。
粟谷 熊笹何枚とか。
川瀬 もうこうなると、本願寺の仏花ですよ。
笠井 そう、仏花。それが原点ですからね。でっかいね。
川瀬 でっかいですよ。仏様に供える物みたいに、もう詰めて詰めて、山のよう。僕はびっくりして見ているんですけれど、こういうのをおやりになったことはあるのですか。
笠井 僕が昔写真でみたものは、全部こういうのでひどいものだった。今度忠実に再現してみたら。
粟谷 いかに馬鹿げたメニューかということですよ。でも、この我が家のこの伝書はちゃんとしたものだからなあ…。
笠井 健忘斎という人はどの時代の人なの。
粟谷 江戸中期ですよ。喜多流としては一番充実していたころ。それ以前はまだ固まっていないし、それ以降は書き留めるエネルギーがないから、伝書といえば、もうこれに極まりますよ。
川瀬 花を塊のように入れていますよね。よくこんなに重ねて入れられるなと思って。菊が入り、熊笹が・・・。
粟谷 20本とかですね。
川瀬 こんなに入れたら、至難の業だと思ってしまう。粟谷さん、こんなに花が入ったのをご覧になったことはあるのですか、『半蔀』で。
粟谷 1、2回あります。伝書には立花を挟んで運ぶ木製の道具が書いてあり、後見二人が立花をはさんで持っていくんですが。私が見た時は直に持っていました、水を垂らさないように。ピチャピチャと音がしたりして。
笠井 すごく大きいから不安定だね。
川瀬 見ていて危ない。だって、上が化け物みたいに大きいんですよ。水も入っている?
粟谷 入っていた時あります。放せばバチャーとなるから危ない。(笑い)
(5)今回の「立花」の工夫
粟谷 今回はそんな風に天こ盛りではなく、瀟洒な秋の草ということでしたが、やはり後見が持って出るのは難しいですね。川瀬さん本人が持って出てられるのがいいですよ。でも、あれ大変でしたでしょ。橋掛りが低いから、かがんで持って出なくてはいけないから。
川瀬 後見の方が運んでもいいのですが、真が崩れるとね。
粟谷 せっかく拵えたのに!となりますよね。あれはやっぱり拵えた人でないと運べないなあ。
川瀬 そうなんですよ。途中に曲がっても自分だったらだいたいの筋がわかりますから直すこともできるのですが。昔のものもかなりズレることはあるんですね。だからズレないようにガチガチに打ち付けてあるのが多いです。幹造りという手法の立花なんかは全部打ち付けてありますから。それならただグーッと持っていけばいいんですよ。今日のような草ものはズレ始めたらもう直しようがないので、ちょっと恐いんです。
粟谷 お花は本来、前場だけに置いて中入り後に後見が引くのが決まりなのです。立花供養をするのは前場の紫野・雲林院で、後場は五条辺りと場所が変わりますから。でも、今回はせっかくの素晴らしい立花、すぐに引っ込めてはもったいないし、後見が持って入るのは至難の業(笑い)で、最後まで舞台に置く形となりました。それにシテの型としては造花の夕顔の花を一輪シテが持って出て、立花に挿すのですが、完成された立花にはできませんので、それもやめました。
中村 昔のことを知らないから、そういうことの方が意外な感じがしますね。今の感覚からすると考えられない。
笠井 以前は舞台の上で実際のお花を立てられるということもあった。40分から50分、それは時間がかかって、かかって。
中村 40分なら早い方ですよ。館長に最初に聞かれたんですよ。立花だけどどうするんだ?って。立ててから持って出てもらいますと言ったら、それがいい、最初から見たら見ている方も大変だよというような話をしたのです。
川瀬 名古屋の能楽堂では最初から(お客様が入る前から)舞台に出しておきましたね。階(きざはし)から持っていって正先に置きました。お能の前に、今日のような狂言がなかったのかな。
粟谷 それはお能一番だったのでしょう。
川瀬 名古屋のときは、そうそう狂言はなくて、馬場あき子さんのお話がありました。
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