『石橋』親獅子を披いて

『石橋』親獅子を披いて

粟谷明生




粟谷能の会(平成21年10月11日)にて『通小町』を勤めた後に半能『石橋』連獅子のシテを披きました。今までにツレ(子獅子)を7回勤め、最後は平成13年10月の粟谷能の会でした。あれから8年が経ち、この度、念願の親獅子を披くことが出来ました。ツレは従兄弟の粟谷浩之君で、こちらもツレの披きでした。
第86回粟谷能の会はちょうど亡父菊生の正命日に当たり、丸三年の月日が経ちました。洵に月日の流れの早さに驚いています。

私は、残念ながら父の子獅子は観ていませんが、親獅子は何度も観ています。
いつかあのように力強く舞いたい、と憧れていました。
父の親獅子は子獅子と変わらないほど軽快で俊敏に動き飛び廻る躍動感溢れるものでした。高齢なのによくあの様に激しく動けるものだと身体的な強靱さに驚き、感心させられたものです。

以前、囃子科協議会で『石橋』連獅子があり、親獅子を粟谷菊生、子獅子に友枝昭世氏という豪華配役がありました。その時もどちらが親で、どちらが子なのか判らないほど二人の勢いは凄まじく、兎に角、身体のキレの利かせ方が上手で、走り回り飛び回って他流の方々もいる楽屋を驚かせていました。「菊ちゃん、お若いね、よく動けるね」と他流の方から声を掛けられると、にやっと笑っていた父の顔が忘れられません。私は、親獅子というものはあのように素早く軽快に動くものだと思っていました。

ところが平成4年、私が友枝昭世氏(シテ)との連獅子を終えた後に、父が友枝氏にすっと近づき「昭世ちゃん、やはり白(親)はあのぐらいゆったりと、頭の振り方も、ゆったりとした方が親らしいね。我々のは、ちょっと動き過ぎていたね」と笑って話していたのを聞いてしまいました。確かにそうです…。私もそれから、ゆったりとしなければ親の貫禄は出ない、と思うようになりました。シテ(親)はツレ(子)よりどっしりとゆったりと、やや遅れめに動き、子の軽快さ俊敏さを引き立てる、それこそ親の役目なのでしょう。

私は数回の子獅子の経験から、いざ幕を上げて出て行くシテの後ろ姿が目に焼き付いています。シテの「おまーく」の力強い掛け声で揚げ幕が勢いよくサッと上がり、橋掛りへ出て行く後ろ姿、それを子は見て真似るのです。

父の出は、スーッと本舞台に吸い込まれるように滑らかに出ていく風でした。友枝昭世師のは、目の前にある重厚な固まりがズカー、ズカーと一歩一歩地響きを起こすが如くに、進むように見ました。どちらもすばらしく憧れます。それでも父には悪いのですが、今の私は地響きが好みです。

連獅子のシテは子を引き立たせることが役目で最優先といいますが、唯一シテの本領発揮の見せ場もあります。それは幕が上がってすぐの場面です。シテが進み出て三の松で一度ピタッと止まり、乗り込む拍子を踏むと次第に囃子のノリも進み、シテは徐々に加速して二の松から急進し一の松で身を乗り出し踏ん張って止まります。牡丹に向かいまるでライオンが「グア??」と叫ぶ様に面を大きく切る、ここの型が決めどころです。そして左右に三度、牡丹に戯れるように乗り込み拍子を踏みます。獅子の気分は最高潮に達し、喜びを表し、右回りに一回転飛びして右足を宙高く上げて一旦止まり、拍子を踏みツレに合図します。ここが最大の見せ場となります。




ここが決められるかどうかが、シテの善し悪しの判断基準になります。ドンと強く足拍子を踏み、子獅子に「さあついておいで、という気持ちでやるんだ!」とは父の言葉です。そして親の役目はここで決まり、あとは子獅子の世界だ! とも言っていました。さて、私がそのように出来たかどうかは別として、そのような意識をして勤めたことに間違いありません。

今回、ツレとの数回の稽古で浩之君には、私が父や友枝師から教えていただいたことを、私の言葉で伝えたいと思いました。常に牡丹に戯れる気持ちを忘れないこと、牡丹の匂いを嗅いでじゃれる獅子という動物である意識、それらを忘れないこと、胸を張り、首筋をきちっと決め、腰で舞うなどと言いながらも、実は自分に言い聞かせていたのです。


今回親獅子というものを経験して、昔のようにシテが自由な気分で動き回るのは荒々しさがあって良いかもしれませんが、現代はどっしりと力量感に溢れた親獅子というイメージで、このように変わっていくのだろうと感じました。
なんでも昔がよかったと丸呑みにする前に、本来どうあるべきかを再度調べる、それを忘れていけないと改めて思っています。




楽屋裏話になりますが、昔はこうだったと、まかり通っていることがよく調べてみると、意外と伝承の読み落としや読み違い、勘違いだったということもあるのです。間違いや勘違いが悪いというのではなく、何でも疑ってかかるのも行き過ぎかもしれませんが、能の本質、本物に気付く努力をしてこそ正統な伝承と言えるのではないでしょうか。
古典や伝統・伝承という言葉に頼り、甘えるのだけはしたくない、と思っている昨今です。
                    

(平成21年10月 記)

写真 『石橋』 連獅子 シテ 粟谷明生 ツレ 粟谷浩之 粟谷能の会
撮影 石田 裕

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