『白田村』について 能の曖昧さと時流に似合う演出

『白田村』について
能の曖昧さと時流に似合う演出




毎年恒例の厳島神社・御神能(平成21年4月16日)で『白田村』を勤めました。
演能前に観客の方から「『田村』と『白田村』はどこが違いますか?」「『白田村』の謡本がありませんでしたが…」とのご質問を受けました。『白田村』は『田村』の小書のひとつで『白田村』と『田村』は同じ曲です、とお答えしましたが、この質問はよく聞かれます。
『白田村』の歴史を調べると、演じられるようになったのは意外と新しく、現在行われているような形にまとまったのは、ごく近来のことだとわかってきました。

九世喜多古能健忘斎の伝書には『田村』の小書は「祝言之翔」のみとなっており、『白田村』の文字は見あたりません。十世喜多寿山が書き残したものに「田村に白水衣を着るもあり、宮子の心なり、古能公披成る候也…」とありますが、これは前シテの心持ちを記したもので、『白田村』そのものではないようです。
大正十三年の中型謡本に『白田村』とは別に「白式」の記載があります。前シテ白水衣、着附金地或いは白地紅入縫箔、後シテ法被白、「思えば嘉例なりけり」の後カケリ、「さるほどに・・・」の文句抜けて「如何に鬼神」。カケリは常と異なる…、とあることから、この白式が『白田村』のモデルになったと考えられます。




ではいつから『白田村』の記載があるのでしょうか?
六平太芸談に「『白田村』に似合う天神の面がない…」とあることから、『白田村』は十四世喜多六平太の時期にはすでに存在していたようです。ただ現在行われている型であるかは不明です。現在演じられている後シテの演出に新たな工夫を施し公式化したのは十五世喜多実先生のご考案であろう、というのが大方の楽屋内での認識で、その実先生も幾通りもの型をやられており、それぞれに伝承されているのが実態です。

この曲名を変えて小書とする手法は他流にはなく、喜多流独自の工夫のようです。
喜多流の成立は江戸時代初期、他の四座(観世・宝生・金春・金剛)に組み入れられ、五流に認可されたのは徳川秀忠公のお陰と言われています。流祖が舞った『羽衣』が豊臣秀吉公の目に留まったのをきっかけに、徳川秀忠公の庇護を受けるようになったのは注目を浴びる斬新な型や目新しい舞台演出の賜物かもしれません。弱小流儀の、それも後から出てきた喜多流には、それだけのバイタリティーが必要であったと思います。先人たちの他流と互角に張り合うための工夫、そして観客の目を引く演出、それらを生み出すものの一つとして、江戸時代末期か明治初期に、曲名に色をつける特殊なやり方をしたと思われます。他に、同じように白をつけた『白是界』、そして青をつけての『青野守』がありますが、どちらも流儀成立当時、または古くからあるものではありません。喜多流が時代の流れの中で育んできた精神によって生み出された特殊演出なのです。喜多流にはこのように、時流に合う演出を求める気風が備わっているのだと思います。それは成立以来の宿命であり、伝統であるとも言えます。現在、職分会で公認されている色つきのものは、『白田村』『白是界』『青野守』の三曲で、これは「喜多流正史」(高林吟二著)にその記載があります。

では今回の『白田村』を演じた感想を交え、舞台進行とその演出をご紹介します。




前シテは地主権現に仕える宮守として登場し、春の清水寺の景色と縁起を語ります。
シテ謡にある「もとより和光同塵の…」の言葉通り、仏が神として現れる本地垂迹の考えを踏まえて、面を喝食(かっしき)にして、喝食鬘の姿で清水寺や田村堂の仏的なものに重きをおいても、また面を慈童(じどう)や童子(どうじ)にし黒頭を被り地主権現の宮守、神の使い、または神の子と神道的なイメージを出しても演じられます。
どちらにするか? それは演者の自由で、その選択の余地があるのが能楽師にとって楽しみの一つでもあります。今回は面を童子にして「白式」に記載されている白水衣にしました。行叡居士が延鎮法師と出会った時に白い衣を着ていたという故事もその裏付けになり、仏と神の一体感が出せればと思いました。そして試しに今回は全部白地で…と希望しましたが、生憎厳島神社から出された装束に白地着附がなかったので、仕方なく他の物で代用しました。型や謡は通常の『田村』と変わりはありません。但し、通常クセの仕舞は扇を閉じて舞いますが、『白田村』では開いたままで舞うのが異なるところです。

後場は千手観音の威徳で鈴鹿山の鬼神を退治した戦物語となります。小書「祝言之翔」があるように、『田村』は修羅物の地獄の責め苦を見せるのではなく、田村麻呂の威風を見せる祝言性に溢れた曲ですので、演者としては他の修羅物とは別格の品位と豪快さを見せなくてはいけません。『白田村』では後場に工夫がなされていますので、装束や型などについてお話します。




後シテ(坂上田村麻呂の霊)の装束は常と異なり、厚板・半切・狩衣(衣紋)などすべてを白色として太刀を付けます。面は平太から天神に代わります。頭部には梨打烏帽子・白鉢巻に鍬形を付ける珍しい組み合わせとなり、鍬形は兜の象徴となります。『船弁慶』の後シテ・平知盛の霊や、『羅生門』のワキ・渡辺綱などが黒頭と組み合わせて使いますが、黒垂との組み合わせは『白田村』だけです。常は太刀を腰に付けますが、宝剣にする場合もあり、肩に背負う方もいらっしゃいました。今回は厳島神社に似合う剣が無かったので太刀でしましたが、坂上田村麻呂が中国からの渡来系の人物であること、時代が平安初期というイメージを膨らませると、次回は古風な感じの宝剣を背負いたいと思います。




『白田村』の後場は謡に緩急がつきます。全体的には位高く、重くどっしりと謡い、カケリもややしっかりと囃されます。そしてカケリの後がもっともシマリ、「ふりさけ見れば」からの地謡は特に重厚感を持って謡います。そしてシテ謡の「あれを見よ、不思議やな」から気持ちがかかり、速度も早くなって、型は橋掛りでの動きとなります。三の松までクツロギ「大悲の弓には知恵の矢をはめて一度放せば…」から一の松まで勢いよく素早く動き、千手観音が千本の矢を放つ様を靡き扇で見せて、一の松前にて飛び跳ね、鬼神を退治する型をして、最後は下に居て千手観音に礼をして位は急にシマリます。このあたりの型が何通りもあり、今回は父の型と友枝昭世師からの型とを混合して勤めてみました。




ここで梨打烏帽子の着用で気になることがありました。
梨打烏帽子には右折、つまり役者自身から見て右側に折り曲げて倒すのと、左折、左側に倒すものの二通りがあります。上皇が着用する際に右折を用いるので、諸臣は左折を用いるという説、また『源平盛衰記』に、源八幡太郎義家が左折の烏帽子を用いた為、源氏の大将は左折を用い、他の物は右折を用いた記述もあります。
現在、喜多流では普通の『田村』は勝修羅の枠組みで梨打烏帽子を左折にしています。
他流も同じようですが、但し宝生流では梨打烏帽子は常に右折とのことです。

さて、『田村』は本来どうしたらよいのでしょうか?
先代実先生は一時、梨打烏帽子を折らずに真っ直ぐに立てて着けられたことがありました。確かに烏帽子の正装は立烏帽子ですのでそれも一考か、ならばいっそのこと立烏帽子を付けてみては…とも思いましたが、どうも力強さに欠けるようで不似合いです。




最近は実先生の立てるやりかたを真似る傾向がありますが、梨打烏帽子自体の本来の用途から考えると、私はやはり折らなければ理屈に合わないと思います。
これは推測ですが、能が発祥した室町時代から江戸時代の申楽の役者たちは、固定化していく能装束以外に、小物などは身の回りのもの、持ち運びしやすいものを新たにどんどん取り入れていたのではないか、と思います。ですから現在の梨打烏帽子も室町時代の申楽の役者にとって身近な持ち運びしやすいもの、という発想から生まれたかもしれません。
私も以前は、梨打烏帽子が武人の象徴、兜であると思っていました。確かにそう教えられ、そのようにも解釈出来ますが、鍬形こそが兜の象徴と言われれば納得せざるを得ません。梨打烏帽子は俗称・兜下といわれるように、兜の下に折り曲げて着用する柔らかな烏帽子のことですから、梨打烏帽子を兜と解釈するにはやはり無理がありますが、それでも見る側の想像でいかようにもなり得るのではないでしょうか。烏帽子一つとっても、いろいろな見方があり、面白いです。それが能なのでしょう。このように能の世界には、曖昧さを重宝に受け容れる面もあります。能には少々馬鹿げている演出もありますが、しかし逆に言えば、それだからこそ能であり、それが能の持つよさなのかもしれません。




能は現代にも生きています。現代になっても、能楽師の工夫と新たな発想で変化するのを待っているようにも思えます。従来通りでも吉、色々と発想するのもまた吉、そのように許容範囲の広い太っ腹なのが能のようです。今回は新たな発想が出ずに無難に左折れで勤めましたが、いつかよい工夫がないものかと思っています。

さて、もう一つ稽古していて気になることがありました。
坂上田村麻呂というと、征夷大将軍、征夷と言えば、蝦夷退治、現在の東北地方への侵攻と平定ですが、能『田村』に蝦夷の文字は、「東夷を平らげ悪魔を鎮め」の一言だけ、伊勢の鈴鹿山の鬼神退治の話にすり変わっています。鈴鹿山に朝廷に対して抵抗勢力があったことは史実でしょうが、坂上田村麻呂が鈴鹿山の鬼神を退治した史実はありません。

ではなぜこうなってしまったのでしょうか?
それも答えは、能だから、と言えるでしょう。
能は過分に曖昧さを武器として戯曲化されています。それは戯曲化した者達の時代のニーズに合わせること、申楽の役者の立場も関係していたかもしれません。
『田村』を成立させるときに、敢えて蝦夷退治の話題に触れなかったのは、作者やまたその後の申楽の役者たちの、自分や周りへの配慮だったと考えられます。
なんでも答えをはっきりさせたくなる、出ないと気持ちが悪い性格の私ですが、能『田村』の鈴鹿山鬼神退治については、このような能の曖昧さを大事にし、あまり言及すべきでないと判断しました。

物語を重視することは能を演じるときには大事なことです。
しかし、能の持つ曖昧さを考えると、能は舞台に上がっている能役者から発散される存在感が大事、その一言に尽きると思います。特に祝言性の高い曲は理屈ではない、最もシンプルな技を駆使して観客にアピールする、そこから焦点を外しては能らしくない能になってしまうのかも…と今回演じて感じました。

能は虚構と真実が拮抗しあうところから成り立つと故観世銕之亟先生はいわれました。
それぞれの役がそれぞれの役になりおおせて、且つその裏に役者の真実や美学が乱反射して豊かな表現となる・・・・いい言葉です。
乱反射の中にも、いろいろな光のさしかたがあることを武人田村麻呂が教えてくれました。
(平成21年4月 記)

追加 
平成21年3月1日より5月31日まで清水寺の田村堂が特別開扉されます。
是非、この貴重な機会に田村堂の内部をご覧下さい。



清水寺田村堂 
音羽山清水寺田村堂特別開扉パンフレットより

写真
『白田村』シテ 粟谷明生    撮影 吉村真樹子
面 「天神」  厳島神社蔵   撮影 粟谷明生
囃子方 大鼓 亀井広忠 小鼓 横山晴明

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