「石橋の間」
粟谷菊生
昨年(平成十五年十二月十五日)芸術院会員の任命を受け、今年六月七日に新会員として、今年度の院賞受賞者の芸術院に於ける授賞式に参列。今年は芸術院創設六十年を迎えるにあたって、両陛下のご来臨を仰ぐこととなり、旧会員も多数参列した。式後、文部科学大臣主催の午餐会に夫婦同伴で招かれ、そのあと受賞者と新会員のみ、午後の宮中に於ける茶会にお招きいただいた。人間国宝、院賞受賞につづいて宮中へのお招きを受けたのは、今回が三度目。「石橋の間」で前田青邨画伯描く先々代家元、十四世喜多六平太先生の『石橋』の絵画を眺めるのも、従ってこれで三度目になる。
故六平太翁は明治七年七月七日生まれの戌年(いぬどし)で、僕は四廻り下の同じ干支なので互いに気心が通じるというか非常に可愛がっていただき、釣りのお供もよくさせられた。その折々に人生訓や芸談、能の心や演技の虎の巻的なことも話していただいたのは、今にして思えばまことに私は果報者であった。迫力ある此の有名な「石橋」の絵画の前に最初に立った時は、「オイオイ、キク坊! 何しに来た?」と言われているような気がしたが、二度三度と伺うようになった今、「先生、また参りましたよ」と心の中で言って、その絵画を見上げ「オー、また来たね」と石橋の六平太先生から言われているような気がする。
この絵画が描かれるに当たって、こんな一幕があった。画伯と相対(あいたい)して話しておられた六平太先生が、先ずデッサンをして頂くには装束の下の腕の張り方、筋肉のあり方を見て頂きたいとその頃既にご老体であったにも拘わらず着物を脱ぎ捨て褌(ふんどし)一つになられて舞台で『石橋』の獅子の型をして御見せになった。「褌が汚れています」と慌ててご注意申し上げたが、そんなことは一向に頓着なく…。画伯はと見ればこちらも素知らぬお顔でデッサンの筆を運ばせていらっしゃる。高齢の裸体は常識的には正視には耐えられるものではなかったと思うが、両雄相対する姿に一種の感動すら覚えた。僕はその場に居合わせたこともあって此の絵画には格別の感慨がある。此の絵画の他に、宮中には青邨画伯描く六平太先生の「出を待つ」という絵画もあるが、『石橋』の絵画だけがある故に「石橋の間」と呼ばれている此処に立つ時、六平太先生に再会出来る懐かしさのようなものを、ひそかに感じてしまう。
白寿を全うした先生にあやかり何とかして一日も長く舞えたらいいなあ…と、若い時には考えられない芸への執着に我ながら驚き、先輩たちの晩年の心境が理解出来るようになった。という事は、今は亡き先輩たちのその晩年と自分が同じ年齢になっているということで愕然とする。惨めな幕引きだけはしたくないと常々心に決めながら、命ある限り舞いたいと思う心もあるにはあるんですなー、困ったことに。
写真 上 「出を待つ」下 「石橋」 前田青邨記念館所蔵品目録より複写
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