謡蹟巡り、木曾路の旅

平成16年7月31日、8月1日と一泊二日で信州木曽路日義村に能『巴』の巴御前の故郷を訪ねる謡蹟巡りをしてきました。
東京よりJR長野新幹線にて長野へ、短い時間ながら善光寺にお参りし、篠ノ井線にて松本、塩尻を経て能『伯母捨』(喜多、金剛二流はこの字、他流は姨捨)の地、冠着山(姨捨山とも)のある姨捨駅で途中下車し長楽寺を訪ねました。姨捨駅は山の中腹にあるため、電車はスイッチバック方式と呼ばれる独特の運転で山を上ります。姨捨駅は電車の行き来も楽しめますが、ホームに降り立ったときの眺望のすばらしさは格別です。駅は無人、警報器もない踏み切りを横切り、先ず小高い姨捨公園で千曲川が流れる善光寺平の景観を堪能しました。公園から急な下り坂を500メートル程おりると長楽寺があります。この下り坂を歩きながら、同行のご高齢の方には帰りの上りがつらいのではと思い、途中で休んで待機されてはと申し上げましたが、皆さま頑張られ「棚田」などの名所を眺めることができました。中秋の名月ならばさぞ美しい景色でしょうが、この猛暑の中、汗を拭き拭き暑い暑いの姨捨で、それもまたよい想い出となりました。
再び乗車した電車は塩尻駅から中央本線へ入り、我々は日義村の宮ノ越駅で下車し、いよいよ今回の謡跡巡りのメインとなる『巴』や『兼平』そして喜多流にはない『木曾』にまつわるところをまわりました。
日義村は朝日将軍木曾義仲公の朝日の日と義仲の義をとり命名されるほど義仲贔屓の地で、義仲なくしては語れないほど、地元の人々に愛されています。宮ノ越駅からすぐ近くに木曾義仲の資料館「義仲館」があります。館のすぐ隣には義仲や巴そして家来達の墓がある「徳音寺」があり、山吹山に戻るように車を走らせると、巴御前が髪を洗ったと言われる「巴ヶ淵」があります。ここで参加者全員が『巴』を謡って供養し、義仲挙兵の地「南宮神社」と「旗挙八幡宮」にお参りし、最後に義仲の養父中原兼遠の墓のある「林昌寺」にもお参りしました。
宿泊地「駒の湯」は義仲が駒王丸と言われた若かりし頃、このあたりまで馬を乗り回していたであろうといわれるところで、静かな温泉地です。
翌日はこちらにも義仲の墓があるといわれる「興禅寺」にお参りし、能には関係ありませんが、江戸期に重要な役割を果たした山村代官屋敷跡を拝観しました。そして『兼平』『土車』に謡われる昔は難所の名所であった「木曽の棧」を見学し、喜多流にはない『寝覚』の舞台となる「寝覚の床」の景観を楽しみました。最後は上松(あげまつ)駅より南木曽(なぎそ)駅に移動し、妻籠宿を散策してこの旅を終えました。
涼しい、清々しい木曾路の旅を想像していましたが、今年の暑さは格別で、かなり疲れる旅となりました。それでも朝夕は気持ち良く、旅の疲れは同行の明生会社中の方々と温泉につかりながら・・・ということで、楽しい旅となりました。

暑い快晴の夏の日の姨捨駅。姨捨駅は全国でも珍しいスイッチバック式停車と列車給水の駅として明治33年(1900年)に開通しました。
姨捨駅ホームの右の線路は松本方面への下り線。
スイッチバック方式とは急勾配の途中に停車場を作るとき、本線から一旦分岐して折り返し停車する折り返し方式のことをいいます。写真で説明いたしましょう。まず松本からの電車は一旦駅をやり過ごします。

電車はバックして戻りホームに停車し、また方向を変えて中津川、名古屋方面に向かうというわけです。
姨捨公園より善光寺平の眺望。鏡合山から上る月がゆるやかに里に続く棚田や千曲川に映る美しさ。古来よりこの地を「田毎の月」と呼んでいます。一度秋に来てみたいものです。
長楽寺は決して大きなお寺ではありませんが、松尾芭蕉が更級紀行で名月の感動を歌に詠んでいます。
謡曲史跡保存会の立札、これを見つけると何故かほっとする。
駅近くにある丘陵地特有の棚田
姨捨駅は無人駅です。警報器のない踏み切りを渡る明生会社中。あるのは大きなミラーのみ。

電車のオレンジのラインと看板のラインが偶然一致しました。下車したのは我々10人だけでした。

宮ノ越駅近くにある義仲館には等身大の義仲の人形や絵画がありました。

義仲は平家物語では美男子と書かれています。この銅像もなかなかいい男。巴も美人で有名ですが、こちらはちょっと現代的な感じがしました。

義仲館の隣にある徳音寺は、義仲が母小枝御前を葬った寺で一族の菩提寺とされています。

境内には中央に義仲の墓、右側に小枝御前、家来の今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓碑があり、落ち着いた静かなお寺です。
義仲の墓
巴御前の墓には龍神院と書かれています。そのわけは?
巴淵は巴ヶ淵(ともえがふち)と呼ばれています。

巴御前の詳細が記されていますので、ご覧下さい。
山吹山の麓を迂回して形づくる深い淵に神秘的な渦がまくといわれています。眼下に見える淵の手前に浅瀬があり、巴御前にちなんで髪を洗えるところがあります。
周りに誰もいなかったので、安心して全員で『巴』の一節を謡い手向けました。

社中の方に、今回能『巴』を勤めると心に決めた方もいらしたようで、先が楽しみです。
義仲の戦勝祈願所。元は義仲の館を構えたところにあったようですが現在の場所に移されました。寂しい感じのする神社でした。
治承4年、源行家は以仁王の令旨を義仲に伝えました。平家追討の旗挙をして、この境内で戦勝祈願をしたことから「旗挙八幡宮」と呼ばれています。
拝殿脇にそびえる大欅は樹齢千年で幹の周囲は10メートルを越し日本古木の一つとして数えられていますが、近年落雷により二つに割れてしまいました。幸い片方の幹から緑の葉を広げ大木を今に残しています。

林昌寺は中原兼遠の菩提寺。墓地より木曾の山々が美しく見えます。
中原兼遠の墓。兼遠は巴の父であり、木曾義仲の育ての親でもあります。義仲の父、源義賢は武蔵大蔵庄にて源義朝の奇襲をうけ、その子悪源太義平に討たれます。義仲の母小枝は二歳の駒王丸を連れて畠山重忠を頼りますが、結局齋藤別当実盛によって木曾の中原家に届けられます。能『実盛』では「木曾と組まんとたくみしを…」と老兵実盛は自ら助けた木曾殿に首を打たれたかったようで、それを暗示しています。
宿泊地「駒の湯温泉」
興禅寺はきれいに整備されたお寺で義仲公の墓もありました。
義仲の墓。義仲は粟津が原で義経の軍に破れ31歳で世を去りました。その時の護衛はわずか5騎とも13騎ともいわれていますが、その中に巴の姿がありました。義仲は「死に臨み女を従えるは後世の恥」といって遺髪を巴御前に托します。ここにこの遺髪が納められているといいます。生憎今回は拝見出来ず残念でした。
木曾の棧は木曾街道の命がけの難所といわれ、木曽川の断崖に平行して掛けられた木の桟道でした。江戸期に消失してから石で補修し、今はその一部だけを見せていますが、謡で謡われた当時の面影を残すものは残念ながらありませんでした。
石が積まれているところが棧です。『兼平』のワキの道行には「信濃路や木曾の棧、名にしおふ」、『土車』では「殊更、当国信濃路や、木曾の棧かけてげに」と皆恐れながらここを通過したようです。
寝覚の床は木曽川の奇岩とエメラルドグリーンの水面が美しい名勝で、喜多流にはありませんが能『寝覚』の舞台です。延喜の御代に寝覚の床の三帰(みかえり)の翁が寿命めでたき薬を服し三度若やぎます。やがて天女や龍神が三帰の翁と共に現れ、薬を勅使に与え木曾の棧を打ち渡り、明け方の空に消えたという話です。また、竜宮城から戻った太郎が諸国を旅してまわり、途中で立ち寄った寝覚の里の美しさにひかれここに住んだといわれます。ある日昔を思い出し、床岩と名付けられた岩の上で玉手箱を開けた途端300歳の老人になったと伝えられています。岩の上の松の間には小さな祠の浦島堂がありました。

妻籠宿は全国ではじめて古い町並みを保存した宿場町です。この旅の最後はここでおみやげ三昧となり、無事旅行は終わりました。