芸道一筋だった兄

芸道一筋だった兄

粟谷辰三

兄、新太郎の死は、私にとってやはりショックでした。長年にわたって闘病生活を続けていたので、いつかはこの日が来るのではと覚悟はしていましたが、ついに舞台への復帰を果たせずさぞ無念だったことであろうと、察して余りあります。芸道一筋に精進してきた兄の死を悼んで断片的ですが、いくらか想い出を連ね、兄を偲ぶよすがにしたいと思います。父・益二郎亡き後、粟谷家を支えた長兄。新太郎と次兄・菊生の二人は、私とは年齢が離れていたので、兄というよりは兄親というべき存在でした。ある喜多流ファンから「新太郎は芸一筋、辰三は呑気一筋」とひやかされたと聞いておりますが恥ずかしながら思い当たるところがあります。私は兄の後見を数多く勤めましたが、色々な失敗をしました。『巴』では数珠を反対の手に持たせてしまったり、『竹生島』では床几を出し忘れたりしてその都度叱られました。しかしそこは兄弟ですから叱責も一過性で、帰途には二人食事をしながらもう笑い合っていたものでした。兄は能面蒐集に執心しており、面をつけたまま寝ていて、義姉をギョッとさせたこともありました。その大事な能面を二面、私にくれました。その一つである「邯鄲男」の面を喜多舞台で稽古に使っていたら、六平太先生(先代)に見とがめられて、「こんな立派な面を稽古に使ってはもったいない…」と叱られました。兄の能面にかけた執念と、それを一目で見抜かれた六平太先生の眼力に、改めて敬服したものでした。古い話になりますが、独身時代の私と四男・幸雄は中野の兄の家に住んでいました。あるとき次兄に「お前たちも家に生活費を入れなけれぱいけない」と注意され、以来、兄嫁さんになにがしかのお金を入れていました。長兄夫婦はそのお金を使わずに、いずれ私たちがお披きをするときのためにと貯金しているということを亡母から聞かされた時には思わず頭が下がりました。陰に日向に私を支支えてくれた兄が、もうこの世に居ないことは寂しい限りですが、私も能楽師の端くれですから、残る舞台人生に全力を注がなければいけないと、遅まきながら反省している今日この頃です。合掌

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