我流『年来稽古条々』(7)


粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』(7)

── 青年期・その三 ──
『猩々乱』披きをめぐって

粟谷能夫  
粟谷明生  

明生─ 青年期も第三回になります。先回は、青年期でも他流の能との出会い、また三役の人達との交流などで青年時代、自分たちだけの世界から外に開かれていったことを中心に話しましたが、今回はそうした時期でも一つの大きな節目となった『乱』の披きを中心に話をしたいと思います。
能夫─ 喜多流の場合、古い人だと、『乱』か『翁』を披いてはじめて一人前という考え方があったから。まあいまは、『乱』という技術的集大成を経て内弟子時代を卒業で、いよいよ青年期の本当の能の修行の始まりになる、といったところだと思うけどね。近頃は、『翁』はなかなか機会がなくてやらない場合も多いので、喜多流自主公演能ではこれから毎年『翁』を出して、披く機会のなかった人にやってもらおうということを考えている。ともかくうちの『乱』 は異常なくらいに腰を落とした、きつい姿勢で曲の殆どを過ごすから、途中何度となく切れそうになるよ。妖精というよりは猩々という名の獣を見せるという感じでね。
明生─ 前に亀井兄弟会で他流の方がうちの『猩々乱』を見て「大変だねー」と言いながら、「これ何なんだよ」とも言っていましたからね。
能夫─ 僕にとっての『乱』はやっぱり憧れの曲だった。僕が披いたのは二十三才だったけど、その頃一生懸命修行をしていて、それがそれなりに認められて、そろそろ『乱』を披いたらとお声がかかったと記憶している。
明生─ 能夫さんが『乱』を披いたのは、まだ粟谷能の会が粟谷兄弟能といっていた時で、すごい番組でしたね。
 初番『巻絹』がシテ辰三、ツレ明生、次が『小原御幸』でシテ新太郎、その次が『通小町』でシテ菊生、ツレ幸雄、最後に『猩々乱』の能夫ですから。父は『小原御幸』の地頭を勤め、続いてシテをやったんだから大変なものでした。
能夫─ いま思うとよくこんな番組が出来たよな。おじいちゃんの益二郎がいなくなって苦労したけれども、一門揃ってこうした催しが出来る喜びがあったんだろうな。
 僕たちの世代のトップバッターだったということもあって、僕はしっかりやらなければという意識が強くあった。実際よく稽古したと思う。その頃は会も少なかったしね。曲のイメージがどうということでなく、ともかく技術の確立というか、型を忠実にやるということを考えていた。
 足の筋肉が張って張ってしょうがないのでエアーサロンパスをかけて稽古したんだけど、それが汗でしみてね、えらく痛かったことが忘れられないな。
 それからもう一つ忘れ難いのは、うちにある赤頭が大きくて重くて、そうでなくてもきついのに、より負荷がかかるのが嫌という思いもあって、よその家にある小さめの赤頭でやりたいと思っていた。そしたらある人に『猩々』というものは、ひきずるぐらいの大きな頭のほうが獣の感じが出るのではないかと言われた。そのとき自分の考えだけでなく、ほかにこういう考え方もあるなということを教えられた。それで結局うちの重い頭でやった。またその時、着付けについても注意を受けた。赤い着付けと青海波の着付けとがあるんだけど、僕は青海波のほうが上等だし、それでやりたいと思っていた。そうしたら普通の『猩々』と違って『乱』の時はすでに酔って出て来るのだから、着付けは赤でなけりゃならないと言われた。まあこの時は着付けは青海波のほうを使ったけど、そういうことを理解したうえで選ぶということの大切さを知った。
 思い返して見ると、披きの時は技術の確立ということばかり考えていたけど、今なら喜多流としての規範を大切にしながら作品のイメージを表現する方法があるなと思うね。親父や友枝喜久夫先生は五十代でやっていましたからね。足腰が強いというか、強靭な体だったんだな。
明生─ 我々の世代はそうした先輩や親の世代と比べると確実に身体、特に足腰が弱ってきて来ていると思います。昔に比べ生活環境も変わった。直ぐに車に乗り、重い荷物は宅急便、階段は避けてエスカレーターですからね。ですからこれからの人は先人たちが六十代でやられた能を、もう五十代くらいで勤めないと、間に合わない。これからの能楽師の寿命は短くなると思いますよ。情けない話ですが・・・。
能夫─ そうだね。五十代から六十才位までだよね、心身共に一番充実した良い状態は。
明生─ その代わり昔の人が六十代でなければ知ることが出来なかったであろう情報を、五十代、四十代で手に入れる事も可能になったし、色々な手付けや資料、見ようと思えば、他流の能も沢山見ることが出来る。研究公演の第一回で、『弱法師』をやりたいと父に言いましたら「もっと後でいいよ」と言われました。「生意気だよ」とか「もう少し大人になって」、と言われるのは充分覚悟していたんですが、でもどうしても今これを習っておかないと、という危機感みたいなものがあって、二回目には父を説得してやらせてもらいましたけれども、大変勉強になりましたね。最近思うのですが、あまり大曲、難曲を大事にとっておきすぎるのではないかと。さあそろそろ許される歳だからと挑んでも、うまくいかない場合がある。許される時期というのがあるとするなら、その前にトライする。それは今の時代、おかしいことではなく必要な事だと思うんです。いやなのは上から降りてくる順番をただ待っていたり、人がやったから自分もやるという考え方に慣れすぎてくること。
能夫─ 明生君はこの研究公演の頃から能に自覚的になったね。毎回文章も書いたり、いわば明生君の能のストーリーが始まったような感じだった。
明生─ 私の『乱』は二十七才でしたが、その頃はあまり考えていませんでしたからね。
能夫─ 流れに身をまかせて、自分で漕いでなかった(笑い)。
明生─ 空舟(笑い)。当時一種の技術主義への反発がありまして、それでも私なりに『乱』に対して取り組んではいましたが、舞の前の「蘆の葉の笛を吹き」のところで長く足を上げなければならないところで、バランスを崩して足をおろしてしまいました。それが尾を引いて消極的になってしまって、失敗でしたね。夜の宴会は当時珍しかった海鮮料理で、活海老が老酒づけになるとき、跳ね上がる断末魔を皆で大騒ぎして、気を紛らわしていたのですが、最後に能夫さんに「もう一回やったほうがいいな」と言われ、心の痛手を負った一番ではありました。ただその苦い経験は、『道成寺』を披くステップになりました。
 技術主義への反発ということを言いましたが、『乱』は技術の集大成といったところがあり、ハードな演技ですから、これを終えると一種の達成感がある。ただそれで終わってしまうことが問題です。そのままで『井筒』『野宮』が出来る訳ではない。能には身体を虐めるだけではない、いわば心を虐める曲目があるということを知る必要があるのです。
能夫─ そうだね。僕は『乱』をやったことによって、いただいたと思うことは、技術に邁進してやりきったということ。それを土台としてこの道に生かして行くには、その後に五年なり十年なり上乗せしていかなければ、心に叶う能はやれないということだ。ただやりましたとか、通過点という意識では駄目なんで、それからの自分の能を創っていくうえでの起爆剤になって欲しいんだよね。技術的に難しい曲があると同時に、それだけではすまない曲があるといったことを知ることでね。

(つづく)


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