芭蕉の葉

子供の頃、先輩に楽屋の壁に貼られた番組の曲名を指さされ「これなんて読む?」と質問されました。間違えて読むと笑われ、正しい読み方を教えてもらいました。なかなか読めなかったのが、『女郎花(おみなめし)』『杜若(かきつばた)』『六浦(むつら)』など、そして『芭蕉(ばしょう)』でした。次第にちゃんと読めるようになりましたが、話のあらすじは全く知らないという不勉強の有り様でした。『芭蕉』? 松尾芭蕉と関係あるのかな…という程度でしたから、それはひどいの一言に尽きます。
 芭蕉という植物は中国原産のバショウ科の多年草で姿はバナナに似ています。中国南部から渡来し、平安朝から親しまれていたようです。夏には長く大きな葉を広げ、秋にはその葉がバサっと落ちるのが特徴です。喜多流ではクセの「芭蕉葉の脆くも落つる…」のところに習之拍子「もろくも拍子」があります。重量感をもちながら軽やかに踏む一つの足拍子は、芭蕉の葉がどっと落ちる様を表しているようですが、なかなかの至難の型です。芭蕉の茎は大木のように成長しますが辣韮(らっきょう)と同様、剥くと中身がなくなってしまいます。

能『葵上』のシテのサシコエには「人間の不定、芭蕉泡沫の世の習ひ…」とあり「人間の命の定めなく儚いことは芭蕉の木を剥くように、芭蕉の葉や水の泡のように空しい」と謡われています。また、『芭蕉』の終曲近くに「芭蕉の扇の風茫々と…」とあるように、芭蕉の葉は古来扇に見立てられていました。『井筒』の最後は「芭蕉葉の夢も破れて」と破れやすい譬えとして謡われていますが、司馬遼太郎氏の風塵抄に「芭蕉葉は破れやすい。その破れた風情が勇ましくもあり、いさぎよくもある、というので、日本の戦国時代、武者たちの旗指物のデザインとして愛された。」と書かれています。


このバナナの葉にも似ている植物は、私の近所でも見かけます。冬や春は姿が目立ちませんが、夏が近づくにつれ葉を大きく広げ南国の雰囲気を漂わせてきます。二、三年前、演出家の笠井賢一氏に「立派な大きな芭蕉が見たい」と我が侭を言いましたら、直ぐに青山の岡本太郎宅を案内してくれました。お庭には立派な芭蕉が沢山あり本当に南国のように見えてびっくりしましたが、それより、青山の住宅街にあんなに広いお庭のある家があることに驚ろかされてしまいました。

能『芭蕉』は芭蕉の精が「曲見」(しゃくみ)の女姿にて法味を得た報謝の舞(序之舞)を舞うという特異な二時間を越える大曲です。水墨画のような、艶とは懸け隔たれたスケールの大きい金春禅竹の傑作。「阿吽」No.15(平成15年春)の巻頭の「『芭蕉』によせて」は父の意思が温かく書かれた名文と評判でした。
今回、「二人の会」(平成16年6月5日)で、その『芭蕉』(シテ香川靖嗣)を、父菊生の地頭で、能夫と共に、私も父の隣で謡いました。取り組むについて『芭蕉』の謡とは…どのように謡うべきものなのか、喜多流らしさとは…その喜多流らしさで『芭蕉』が手に負えるのだろうか…、一体『芭蕉』の主張は何なのか…と考えさせられました。決して荒く、粗野にならずに、しかし上辺の柔らかさや綺麗さだけにとらわれず、芯の堅い、それでいながら堅さを感じさせないように謡えたら……、単に草木の精という枠に収めないで謡う意識が必要ではないだろうかなどと思いました。人間だけではない、万物の儚い定めをテーマにしていると思われる能『芭蕉』が少しずつ、はっきりとは判らないのですが、確実に私の身体の中に入ってきていると感じています。曲が演者に及ぼす力、それが受け止められるようにならなければ、この曲を手がける意味がないのではと思います。それほど、この曲には不思議なエネルギーがあるのです。難しい皮肉な能ですが、まずは地謡という立場からでも、『芭蕉』のエネルギーを吸収、体得したいと思いました。

芭蕉葉 撮影 粟谷明生 平成16年6月

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