父 益二郎のこと

父 益二郎のこと
粟谷菊生

先頃、喜多宗家の装束問題が新聞紙上に載って、この芳しからぬニュースに我々流儀の者はなんで今頃また?と言う思いだが、これは宗家だけの個人的な問題で弟子家には全く関係のないこと。

我々弟子家は演能に不自由しない装束をそれぞれ持っているので何の痛痒(つうよう)も感じない。粟谷家では父益二郎が生前、収入の大半を装束や能面の購入に注ぎ込んでいたおかげで今、不自由なく舞台を勤められる装束を持ち合わせている。
しかしそのため父は実によく働いた。

父の時代は,今と違って一般の家庭では電話を設置してはいなかった。
今の人たちには考えられないことだろうが急を急ぐ場合は電報を打った。今では電報は祝電か弔電と、桜が咲いたとか散ったとか、入試や就職の合否の通知ぐらいになったのではなかろうか。

この電報で面白い話がある。その昔、地方の社中が予定の稽古に人員が集まらず、この度は稽古にお出で頂くのは遠慮したいと電報を下さった。
父の返信がフルッテいる。

「デン、ミヌ、ユク」。

これには先方の御社中
「イヤー、マイッタ、マイッタ。」と。

しかし人数は少なくても費用は皆が分担して益二郎先生には御出で頂こうということになった。強引な押し掛け教授というところだが六人の家族を養い装束や能面を買うためには孤軍奮闘的、働き続けねばならなかったのだろう。

昭和三十二年六月に第二回能楽渡欧団の一員としてパリに発った兄を、母スエ子と共に見送りに行っている羽田空港での父の写真がある。

舞台姿や職分、御社中の方々との集合写真はあっても、こういう家族的な写真は非常に珍しい。カンカン帽をかぶって。生後一年九ヶ月の明生を抱いているが、この約三ヶ月後に染井の能楽堂で『烏頭』の演能中に斃れ父は他界した。

僕は父に似ているとよく言われてきたので、僕も六十六歳であの世に行くことになるだろうと長年、勝手に思い込んできたが、その予測死亡年齢より十八年近くも生き延びてしまった。

ということは、もしも僕が冥土に行っていたら既に十七回忌を迎えていることになり、僕の遺影の前で皆がお線香をあげている図を想像したりすると、おデコに三角の白い紙でもはりつけてみようかなんて気になる。くだらない妄想はいよいよ頭の方がオメデタクなった証拠?

父の舞台については折にふれ話したり、書いたりしてきたが、『谷行』『弱法師』などの、あの切れと味のある舞は、他の追随を許さぬもので、僕はこれをそっくり頂戴して僕のものにしてしまいたいと思ってきた。

『湯谷』『羽衣』などそのふくよかな温かみのある美しい舞い姿は、豊麗な謡とともに今でも特に鮮明に心に残っている。

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