うれし恥ずかし『弱法師』

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息子の明生が、8月31日秋田県協和町の「まほろば唐松能舞台」で『弱法師.舞入』を舞うという。
『弱法師』は、十四世喜多六平太先生の当たり芸であり、父・益二郎の仕舞が絶品であった。僕はその両方をうまく取り入れ、座頭市(主演、勝新太郎)の味も少し加えて勤めている。特に最近はこの曲を舞うことが多くなった。
 『弱法師』の舞台となる天王寺には、悲田院があって、乞食や病人が集まるところがあった。今でも、天王寺の付近には悲田院町という地名がある。簡単な病院があって、捨てられた人たちの面倒をみていたのだろう。そこは施しを与える人や受ける人が多く集まり、ずいぶん賑っていたようである。「踵(くびす)を継いで群集する」とあるから、前の人の踵を踏むくらい大勢の人が集まっていたわけである。この能ではシテ、ワキ、アイのほかには登場人物が出ないため、踵を踏むほどの賑いは舞台をみるだけでは感じにくいかもしれないが、謡の言葉の中から情景を想像していただきたいのである。中世は、寺社仏閣にはそのような乞食、身体の不自由な人が集まっていた、実際によくある光景だったと思われる。
 盲目の俊徳丸も毎日天王寺にやってきて施しを受けていたと思われる。だから六平太先生は「とぼとぼと歩かないで、もっと運んでいいんだ」とおっしゃった。俊徳丸は盲目とはいえ、毎日この場所に来ているのだから通い慣れている。どこに何があり、道が悪く大きな石ころが転がっているなど全部わかっているのだ。どう歩けばよいかちゃんとわかっているから、あまりヨロヨロとする必要はないのだと。そういえばあの盲目の勝新の座頭市も動きは素早く、目が見える人間より感覚が鋭いではないかと納得する。
 さて話は変わって、舞台の進行を見ていくと、父の通俊と子の俊徳丸の邂逅はどうなるのか。天王寺の同じ場にいながら親子はなかなか会えず、観る人はジリジリするだろう。最期に「夜も更け人も静まりぬ」というころになって、ようやく二人は名乗り合い、親子であることを確認する。それでも二人は終始、うれし恥ずかしの気持ちなのだ。「親ながら恥ずかしくて、あらぬかたに逃げければ」と地が謡うのに合わせ、シテは逃げ惑い、それを止めるようにしてワキの父・通俊が走り寄る。そして「明けぬ先にと誘い」と、俊徳丸を高安の里に連れて帰ることを促し、父も続いて行くと暗示させながら留めとなる。この最後のクライマックス、父子の逃げる、止める動きがきれいな絵になるようにしなければ『弱法師』ならない。「明けぬ先に」とは夜が明けてしまっては恥ずかしいとうれし恥ずかしの気持ちが満ちているのだ。
 僕は謡が好きだから、よい謡があるとうれしくなる。『弱法師』にも名文句があるのがよい。「それ鴛鴦の衾の下には、立ち去る 思ひを悲しみ、比目の枕の上には、波を隔つる愁ひあり」。ところがこの名調子、うっかりすると『砧』になってしまうから気をつけなければ・・・。『弱法師』はこのあと「いはんや心あり顔なる」と 続くが、『砧』は「ましてや疎き妹背の中」となる。お能の名調子はときに複数の曲に使われることがあるから面白い。

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