11月1日(土)に能楽座つくば公演で『景清』演じる。最近は数年前の脳梗塞による微かな障害や、八十歳を越えた僕の体力を気遣い、甥の能夫や息子の明生の配慮で出演の依頼がくるともっぱらこればかり演じることになってしまった。ある方が「あの人はあの曲しかやらないねー。なんていう役者がいてもいいの、それが本物なら」などとおっしゃって下さるから、「よしまたお見せしよう、勤めよう」と僕の舞台へのすけべ心が動き出す。
お能の世界というのは何か遠いところのものに一生懸命噛りついて守っているように思われるかもしれないが、そんなことはないと僕は思う。演っていると、能は僕の人生そのものだ。どんな曲でも僕は僕なりの解釈をしてしまう。もちろん見識者、学者が称えるような立派な解釈ではないが、例えば『山姥』。山姥とは何かと問われれば、「編み笠をかぶり街道筋に出る夜鷹」と答える。街頭で身を売るんだ。それが僕の山姥、「山また山、いづれの工(たくみ)か青巖の形を削りなせる・・・」と謡う山また山というのは男の数なんだ。男が巖となっているのだとか、僕なりの解釈が働いている。
今回の『景清』は僕の大好きな曲だ。ここには親子の情というものがあって、とても身近、遠い話なんかではない。昔、悪七兵衛と恐れられた景清も、日向の国宮崎に流されて年月をかこち、今や落ちぶれて盲目の身となっている。そこへ娘の人丸が訪ねてくる。しかしなかなか自分を景清とは明かさない。「今訪ねて来た子は自分の子なんだ。そうだ、思い起こせば昔、熱田の遊女と相馴れて、一人の子供をもったのだ」とひとり愚痴る。
昔、ここのところをちょっと色っぽく謡おうと苦労したが、最近は淡々と謡えるようになってきた。僕が景清で景清が僕なのだという気持ちで謡っている。
あるお弟子さんが、大きな声で「遊女と相馴れ!」とお謡いになるので、僕は「二人は抱き合っているんだぜ。女の子ができるんだ。そんな謡い方ではダメだ」と言って、何度も何度もやり直しをさせたことがある。そうしたらやがてよい感じで「相馴れ」が謡えるようになった。その方が亡くなられたときに、弔問に伺うと、奥様が「あのころ主人は朝から晩まで“相馴れ、相馴れ”でした。そのうちとてもよいように謡えるようになったんです。本当にどこかで相馴れたのではないかと心配しましたよ」などとおっしゃった。能は理屈ではない。人生そのもの。何度も謡っていくうちにその人になるのだと思う。そして最後、景清と娘は名乗り合い、別れていく。従者と立ち去る娘・人丸の肩に手をそっとかける場面は「匂いを嗅げ」と教えられてきた。愛しい娘だけれども別れていかなければならない。その万感の思いを込めるところだ。僕はこのとき、結婚式のバージンロードを思い浮かべる。教会のバージンロードに父親が娘の腕をとり歩いていく場面があるではないか。あれは残酷なシーンであると思う。娘を連れて歩き、いよいよ最後、娘を奪っていく憎っくき男に渡さなければならないのだから。
しかしあの場面で、世の父親というのは相手の男をにらみつける度胸はないようだ。必ず視線をはずしている。僕の弟子でバージンロードをすり足で運んで、娘に「いやだなあ……。先生、父に何とか言ってやってください」などと言われた男もいる。そこまでくると僕も致し方ないが、父親の心境というのも複雑なものなのだ。
それで僕は『景清』の最後、「さらばよ」という言葉を形見に別れ行くところは、バージンロードの父親のように、右に視線を落とす型をやっている。身近なことを何でもお能の参考にしてしまう、これが僕のやりかただ。
写真 景清 シテ 粟谷菊生 撮影 あびこ写真
白竜社、絵はがきより
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