一曲を異なる流派で共演する「異流共演」、能や仕舞、舞囃子など、同種の内容で異なる流派が競演する「立合」、鼓一人、謡い手一人で演ずる「一調」、これらの珍しい内容を盛り込んだ会が実現しました。大槻能楽堂で催された第7回大槻文蔵の会(平成13年11月21日)です。我々演じ手にとっても刺激的な会になりました。
番組は、最初に舞囃子が二番、私の『猩々乱』から始まり、次がシテ観世暁夫氏(平成14年元旦より観世銕之亟を襲名)、ツレ片山清司氏の『三山』。これが喜多流と観世流の「立合」となります。そして一調「笠の段」(能『芦刈』の一部)を小鼓が曽和博朗氏、謡が粟谷菊生の、人間国宝同士の競演。狂言は茂山千作・千之丞氏の『昆布売』で、最後は能『隅田川』。これがシテ大槻文蔵氏、地謡が喜多流(地頭が粟谷菊生)による異流共演ということでした。
この会のしおりのご挨拶で、大槻文蔵氏はこの会が実現に至った思いを次のように書いておられます。
「一昨年七月能楽堂の公演で『通小町』がありその折、シテ粟谷菊生・ツレ観世栄夫・地謡観世銕之にて私も隣で謡わせて頂きました。流儀による主張の違いが、より盛り上がりとなり、常と違う緊迫感を生みいいもんだなあと思いつつ、地頭の銕之亟師のいつもと違うもっていき方になるほどと感じた事でした。そんなこともあって今回粟谷菊生師に是非とも地謡を謡って頂きたいとお願いして、実現の運びとなりました」
このような文蔵氏の思いと、そのご挨拶に続いて書いておられるように、大槻家と粟谷の家との祖父の代からの長きに渡る親しいつき合いがあったからこそ実現したのだと思います。特に、父菊生は二十年近く、大槻自主公演に参加し、何曲も能を舞わせていただいておりますから、仲間意識も強いのです。
私自身は今回、舞囃子の『猩々乱』、一調で思いがけなくも父の助吟をし、『隅田川』で地謡を勤めさせていただきました。めまぐるしい中にも、感じること、学ぶことが多くありました。
舞囃子『猩々乱』
『猩々乱』は『猩々』の中ノ舞を「乱」という特別演出にするもので、曲名そのものに乱と言う字が入るほど特殊なものです。「乱」は、猩々という人面で猿類の獣身、架空の怪物というよりは仙童ようなものですが、このお酒好きな猩々が海中より、酒に酔って現れ波上を乱れ舞うという、写実的でものまね舞踊化された舞です。「乱」の舞い方は流儀によって様々で、観世流はまさに妖精のような動きで、水を軽快に蹴る感じで舞いますが、喜多流は腰を落とし中腰のままゆっくりした動きで、アメンボのように足を大きく回しながら水の上をすべり舞うようにします。演じる方にはこれがきつく、大変な体力を必要とします。この違いを、各流儀で見比べてみるのはとても面白いと思います。
乱のように特別な型というのは、最初は目新しく面白く見ることができますが、六、七段も長く続くと、どうしてもだれて、飽きがきてしまいます。文蔵先生に「観世さんの乱はエレガントで妖精みたいで良いですね」とお話したところ「面白いけれど、あれも長いと飽きる」とおっしゃっておられたので、どの流儀でも特別な型というのは飽きる要素があるのだと発見でき面白く感じました。序ノ舞などシンプルで簡素化されたものとは対照的です。
今回は夜の公演で時間が限られているうえに番組も盛りだくさんだったことから、私の『猩々乱』は短い時間でその真髄を見ていただけるものにしようと考えました。それで乱の独特の型はすべて盛り込み、三段半の短い形にまとめてみました。
私にとって『猩々乱』は披きで一回、その後に囃子の会で一回、今回は久しぶりで三回目となります。披きのとき器械体操のような硬い動きで稽古していると、父に「どうも違う。猩々は酔っぱらっているんだぞ。もっと柔らかさ、ソフトなホワーッとした感じがないと。お前のは硬すぎる」と言われました。二回目の囃子の会のときも、やはり硬い直線的な動きに終始していたと思います。
若いときは体が動くに任せて直線的な硬い動きになりがちで、そこには若さあふれる運動美のようなものがあるのも確かですが、やはりお能の持つ優美さ、猩々の酒を酌んでは酔い、酔っては乱れという姿を表現するには、どこか柔らかな動きが必要だと感じ、今回はそこのところを心がけてみました。柔らかい動きというのは、鋭く速い動きよりはるかに体力がいるもので、面や装束をつけているときはその負担は大変なものです。その点、今回は舞囃子で、紋付袴姿、面もつけていませんから、身が軽く、やりやすかったということもあります。柔らかい動きをしてみて、父の言っていたことがこういうことだったのかと改めて理解できたことは一つの収穫でした。今回このような機会がなければ、私の乱は器械体操に止まっていたでしょうから、よい体験ができたと思っています。
私の舞囃子『猩々乱』の後は観世暁夫氏による舞囃子『三山』で、まさしく「立合」となりました。立合は昔から各流儀が己の芸で競い合うもので、出る以上は勝たなければ自らの食い扶持を減らされたり、失うほどの厳しいものでした。世阿弥も立合のときは、先の流儀の舞台を見て、急に演出方法を変えたり、色や形が重ならないように、装束を変更したりした様子を書き残しています。すぐに対応できるよう数種類の装束を持参するのが常で、それがうまくできないと失敗し、負けるので注意が必要とも書かれていて、非常に厳しい情況だったことがわかります。
立合といえば有名なのは、細川藩主が金春流の桜間家と喜多流の友枝家をかかえ、両家を競わせたことです。当時は、広島の浅野家なら粟谷というように、一藩主が一家をかかえるのが普通でしたが、細川氏は二家をかかえていたわけです。ですから両家は常に「立合」をさせられます。だからこそ両家からは素晴らしい役者が輩出し、今もその伝統が受け継がれているともいえるのです。
現在は「立合」といっても、具体的に勝った負けたの評価を下すものは何もありません。しかし私は、立合には「負けない」と思い舞台を勤めますし、演者自身も心の底では「勝った」とか「負けた、やられた、相手はすごい」と感じるものがあるはずと思っています。今回、文蔵先生が「面白いなあ、あの喜多流の乱もいいな」と盛んに言ってくださったので、先生の会で、それなりの責任が果たせたかなと、胸をなで下ろしているところです。
一調「笠の段」
一調とは小鼓、大鼓や太鼓が一人、謡い手が一人で勤めます。ここに笛が入った場合は一調一管といいますが、いずれにしても、それぞれのパートは一人で担当するものです。ところが大槻文蔵の会の一調は、父菊生の体調が不調のため私が助吟(じょぎん)をする変則的なものになりました。
このような突然の故障のときは、お相手の方に非礼を詫びるのが礼儀です。父も曽和先生に「すみません。体調が悪くなり声が出ませんので、明生に助吟をさせます」と申し上げ、私が助吟することになりました。
一調というのは、特別な手組で囃すのに対して、謡がそれに唱和するというもので、あくまでも囃子が主体となります。相手が常とは違う手組で打つ恐さ、一人ですから、絶句してしまえば成り立たない恐さがあります。それだけに恥をかきたくないと尻込みし、一調をやりたがらない人が多いのは確かです。その点、父はそのスリルが面白いとなにか楽しんで挑んでいるように見えるときがあります。囃子科協議会の調べでは、一調を勤めた回数が一番多いのが粟谷菊生ということですが、おそらくそれは間違いないところでしょう。
そして、父がこれまでの一調の中で助吟を許したのはわずか一回だけ。広島の会で、幸流小鼓の一調の中でも重い扱いの一調一声『玉葛』を勤めたときで、鼓が幸宜佳氏、助吟は粟谷能夫でした。
一調は、曽和先生いわく「慣れたらアカン」。慣れたら面白くない、一調は真剣勝負、ピリピリ神経を研ぎ澄ませてやらなければということなのです。申合をしても本番でその通りに打つとは限らない。父は「曽和さんはいつもそうなんだよ」と笑っていましたが、幸流の若手で、曽和先生のお弟子さんの成田達志さんは「あんな手組、初めて聴きました」とやや興奮気味でした。私はというと、「申合とは違うぞ」と思いながらも、曽和先生が巧みに打ち込まれてくる面白みを味わうことが出来ました。恐いながらも、小鼓との真剣勝負、一調「笠の段」を体験できたことが、一つの勉強になりました。
父は「一調をうまく謡えるようになるのは慣れ。父・益二郎の助吟をよくやらされたから。あれで場に慣れたんだよ」と言います。今回、父との助吟ができ、よい思い出ができました。
異流共演『隅田川』
今回の異流共演はシテが観世流、地謡が喜多流という大変珍しいものになりました。異流共演そのものが珍しいうえに、共演といえば、前シテと後シテとか、シテと重いシテツレということが多いので、今回のような共演は異例中の異例ということになります。
文蔵先生が「菊生さんに是非」と言ってくださり、曲目もこちらに任せるということだったので、父の得意曲である『隅田川』を提案し催す運びとなりました。
『隅田川』は詞章も両派それほど違っていないので、よい選択だったと思います。それでも、喜多流が念仏を五回唱えるところを観世流では三回しか謡わないなど微妙な違いがありますから、申合で調整しなければなりませんでした。シテのクドキの後「さりとては人々。此の土を覆して(かえして)今一度。この世の姿を母に見せさせ給えや」と謡うところは、喜多流では「さりとては人々」とシテが謡い、「この土を」から地謡が謡うことになっていますが、文蔵先生より「さりとてはから地謡で謡ってほしい」と言われ、「えーっ」と驚いた場面もありましたが、あとはさほど問題なく進めることができたと思います。
多少の違いがあっても、地謡が喜多流であれば、我々は喜多流らしく謡うことが肝要だと思うのです。文蔵先生の主張も「喜多流らしさを存分に発揮して謡ってほしい、それに乗せて観世流の主張で舞う」というもので、そこに現れる両派の緊張が演じ手には一番大切だと思います。ですから共演だからといって、相手にべったり合わせるのではなく、そこには両者拮抗した状態を創りあげることが必要になってくるわけです。
とはいえ異なる流儀が共演するには少なからず困難なことがあります。その困難を乗り越えて共演する意義はといえば、それは一つの流儀に閉じこもらず、新しい風を入れることで、新境地を開くことでしょうか。私自身、自分の中に閉じこもって行き詰まってくると他流の舞台を拝見したくなります。異流共演はただ外から見るだけでなく、その懐に入って、同じ舞台を共有することで強烈に感じ取れるものがあります。
今回も、都の女(シテ)が隅田川に着いて、遠くを見やりながら「あれに白き鳥の見えたるは。都にては見慣れぬ鳥なり。あれをば何と申し候ぞ」と謡われたとき、その謡や立ち姿、全体の雰囲気から、ああ、ここは東(あずま)の地なのだ、隅田川が見える、鴎が鳴く声が聞こえると、私には本当にその場の情景が立ち昇ってきたのです。今までそんな風に感じたことはありませんでした。役者の存在そのものがエネルギッシュで私に訴えかけてきて興奮しました。
そして、船に乗る前の動きも両派では異なります。喜多流は持っている笹で地面と思われる舞台をバチーン打ってから願うのですが、観世流は手をさしのべ願いを乞うた後に打つ、さし迫り方の表現も様々です。こういうことが発見できるのも面白いことです。観世流の舞台を観に行くことで、このような発見もできるかもしれませんが、舞台の中で、ほんの二、三メートルの近さで、自分が謡いながらその情景をみることのすごさ、こんな強烈な吸収の仕方は他にはないと思うのです。
また最後、子供の幻が塚の中に消えて、夜がほのぼのと明けてくる場面では、文蔵先生の限りなく強い塚への執着に対して、私は「東雲の空もほのぼのと、明け行けば跡絶えて」と塚から離れ明け行く広大な関東平野の夜明けの空を眺め、その情景の中にこの母親はどうなるのかという風情を感じさせて終わらせたいと思い謡っています。この当たりの事を、観世流の方を初め他の方々の感想もうかがい、お互いの感じ方をつき合わせることができました。よりよいものも多く吸収し、こういう異流共演が出来たことを私は喜んでいます。
今回は父が地頭を仰せつかりながら、本番で声が出なくなり、父を挟んで座った私と能夫で、父の分まで謡おう、観世さんにご迷惑はかけられない、異流共演の責任を全うしようと使命感を持って精一杯謡いました。異流共演は一種の立合、喜多流それも粟谷の地謡を力の限りシテにぶつけ、それでどうなのか答えを出してもらおうと必死でした。父の負を背負ったからこそ、私も能夫も大きな力を持て集中できたといえるかもしれません。
最後にもう一つ。子方の上田顕崇さんが、伸びのあるすばらしいボーイソプラノで立派な子方を演じられ感心しました。観世流では日ごろから子方には高い声で謡う稽古をされているようです。その成果が現れて子方らしくすばらしいと思ったのは私だけではないと思います。このことは、我々喜多流の子方の指導の仕方についてもう一度考え直すべきとの忠告に思えました。これから沢山の子方が育ちはじめますが、今まで通りの地声尊重ではいけないのです。あの舞台に座っていたお父さんたちがそれに早く気付いてくれればと思っています。
父菊生は他流の方々とも友人が多く、流派を越えてよいおつき合いをさせていただいています。私もこのよき伝統を受け継いで、一つの流儀や家に閉じこもることなく、他流の方々からも多くの刺激を受けて精進していきたいと思います。今回の会はその思いを新たにいたしました。
(平成13年12月 記)
写真 舞囃子、猩々乱 粟谷明生
写真 一調、笠の段 粟谷菊生、粟谷明生 曽和博朗
写真 能、隅田川 大槻文蔵 上田顕崇
写真提供 大槻文蔵
写真撮影者 浜口昭幸氏
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