能楽師を志し、それを生業とするならば、一年に一番は心体ともに駆使するような大曲に挑み、つい緩む己自身にねじを巻くように鍛え上げる機会を自ら求めなければと思うようになりました。秋の粟谷能の会(平成十四年十月十三日)の『野宮』はまさにそういう試練の曲で、私にとっては大きな一番となったのです。
『野宮』は源氏物語を題材にし、もの寂しい晩秋の嵯峨野を舞台に、光源氏を愛した六条御息所の狂おしいまでの恋心と諦念を描いています。源氏物語「賢木の巻」や「葵の巻」を中心に、源氏と御息所の関係や背景をある程度理解したうえでないと、能『野宮』を観るのは苦しいはずです。これは観る方だけでなく、我々演ずる方にも言えることで『野宮』という曲の位の高さであるとも思われます。
そこで、『野宮』という曲に触れる前に源氏物語に目を通し、源氏と御息所の関係や人間像、二人の間で起こったできごとなどを自分なりに整理し稽古にかかりたいと思いました。この作業が、能『野宮』を演じるのに必要か不要か、演者はあまり考えすぎるとろくなものにはならないという声も聞きますが、自分自身舞台上での何かの助けになるのではと試みてみました。
御息所は十六歳で東宮妃(皇太子妃)になられますが、二十歳で東宮が突然亡くなられ未亡人となってしまいます。東宮妃としてのプライドが高く、一途な性格の持ち主だったようです。東宮妃として将来を約束されていた方が、いきなり東宮の死にみまわれ、いくら高貴の出とはいえ、経済的、社会的地位を失い没落していく寂しさを感じていたことは間違いありません。そこへ現れたのが光源氏です。七歳年下のプレイボーイ。年下とはいえ、経済力があり、恋の遊びにはたけています。年上の女性、藤壺との禁断の恋も経験ずみ、高貴で教養があり美貌の夫人に興味を持ったのも自然の成り行き。御息所の寂しい心にすっと入って虜にするのはそう難しいことではなかったのでしょう。御息所は簡単に源氏の誘惑に負け、恋に落ちていきます。源氏十七歳、御息所二十四歳のことでした。
これが御息所の間違いの始まり、不幸の始まりだったのです。手に入れた女性には興味がなくなるのがプレイボーイの常、次第に源氏の訪れは間遠になっていきます。御息所の幸せな期間は短く、悲しみの時間が長い、薄幸不運な生涯を生きた人というのが、御息所の大前提になっています。
御息所はプライド高く、教養があって美貌の持ち主、申し分ない女性ではありますが、このプライドの高さが一つの落とし穴になって、車争いをめぐる正妻への激しい嫉妬に結びついていきます。
夕顔や葵上に嫉妬を感じ始めたとき、御息所はこんな恋をしてはいけない、この恋は成就するものではないと察し、御代替わりで、娘が伊勢斎宮として選ばれた段階で自分も伊勢に行ってしまおうと、一度は決意しています。
そんな折、葵上との車争い事件が勃発します。ある日賀茂の斎院の御禊があり、その行列に源氏が出ると聞き、御息所も見物に出かけます。そこで後からきた葵上の車と出くわし、車置きの場所で争いになり、権力の衰えつつある御息所は無惨にも車を押しのけられてしまいます。御息所の車と承知の上での雑仕等の乱暴、この屈辱を受けたことが、御息所の敗北感と葵上に対する恨みへ増幅していきます。そして、葵上が妊娠していると知ると、生き霊となって葵上に取り憑きます。自分の意識ではもうどうにも制御できない、恐ろしいまでの恨みであり嫉妬です。そしてついに葵上を呪い殺してしまうのですが、そのとき源氏に自分の生き霊の姿を見られてしまい、これで源氏に自分の本性を知られてしまった、本当に嫌われてしまったと絶望します。手を洗っても髪を洗っても、葵上の物の怪を払う祈祷時に使われていた芥子の実の匂いがとれず、その絶望感は一層深いものとなっていきます。
ここで御息所は完全に伊勢に行くことを決心します。葵上亡き後、次の源氏の再婚相手は御息所ではないかと世間では噂されますが、そんなことはない、源氏の心が冷えきっていることを知っているのは御息所自身です。伊勢に行くことをもっと早く決断していればこんなに嫌な思いをしないですんだかもしれないと思いつつ、源氏を思う気持ちを断ち切れず、最後に大きな傷を負ってしまう御息所。『野宮』の謡「物見車の力もなき、身の程ぞ思ひ知られたる。よしや思えば・・・」に、その万感の思いが込められている気がします。
伊勢に行く前に皇女は精進潔斎のために、一時宮にこもります。その宮が嵯峨野にある野宮。御息所も娘につき添い、野宮に引きこもっています。そこに源氏の訪れです。源氏物語では、源氏は伊勢に行く御息所にご挨拶もしないのは礼儀知らずで無粋な男だと思われてはまずい、世間体を気にして出かけたように書かれています。愛情というよりは世間体。もう二度と逢うことはないだろうから、御息所の鎮魂のためにも一度は行かねばという気持ちだったのでしょう。それでも嵯峨野に入ってみると寂しい秋の風情です。もののあわれが加わると、一度心を動かした女性への愛しさが蘇ってきます。源氏は榊を神垣にはさんで御息所に歌を送ります。歌のやりとりの後、禁忌の野宮にずうずうしくも入っていく源氏、それを拒むことができない御息所。そして一夜の契りを結ぶことに。それが謡の詞章に繰り返し出てくる長月七日、あの日なのです。
御息所にとって、長月七日はどういう日だったのでしょうか。源氏との恋は終しまいにする、あれほど心に固く決めていたのに、なぜ受け入れてしまったのかという後悔の念であったか、それともあの日を自分にとって永遠の日にして大切にしまっておこうとしたのか。ここをどう解釈するかによって、前シテのイメージのふくらませ方が違ってきます。私は、長月七日を永遠のものにし、これにより救われないことになってもいいという強い情念ではなかったかという気がします。仏の世界から見て身の程知らない、これでは成仏できないと言われても仕方ない程の愛執、これが最後の「火宅留め」にもつながっていくと思うのです。
御息所はその後、娘が斎宮としての伊勢神宮奉仕が終わると、ともに都に戻りますが、間もなく重い病の身となってしまいます。源氏は今をときめく内大臣。死を悟って尼になった御息所を見舞うと、御息所は娘の将来を源氏に託します。幸薄い、短い生涯であったと思われます。
ざっと源氏物語を整理してみました。これが私が『野宮』を演じるために、原文や解説を読み込んでベースにしたものです。そして次は、演者が謡本という台本を通して何を読み込むか、能作者はこの能に何を言わせたいのか、能『野宮』をどのように表現し世界を創り上げるか。源氏物語原文の読み込みは、台本を読み解くための一つの手段と言えるでしょう。ちなみに『野宮』の作者は世阿弥と昔の喜多流の謡本に書かれていましたが、今は金春禅竹作が定説になっています。
『野宮』の構成は、前場で賢木の巻を基に晩秋の野宮に源氏への想いを語る御息所、後場は車争いの場面を再現して舞台には登場しない対葵上との世界を創り出し、源氏の来訪を回想しての序之舞、破之舞を舞い、再び車に乗って火宅を出たであろうかと終わります。
ここからは、私自身の能『野宮』を通して順を追って振り返っていきたいと思います。
まず、後見が小柴垣のついた鳥居の作り物を舞台正面の先の方に持って出ます。喜多流の作り物は正方形の台輪に鳥居を立て、台輪の左右の辺上に小柴垣を取りつけて、台輪の内を神域とし、外と区別していますが、観世流では台輪を使用しませんので小柴垣はその左右に張り出す形となります。喜多流の小柴垣のつけ方ですと、作り物に榊を置く型や足を踏み入れる型が、正面の限られた人にしか見えないので支障があることは承知しているのですが、今回は披きであるため、敢えてそれには触れず、従来の手法に従い勤めました。
面は本来「小面」となっていますが、これまで説明してきたような御息所像を思うと、小面では少々難があり、多少大人っぽい小面を選ぶとしても、やはりそこには限界があります。理知的で少しヒステリックなものが良いのではと、今回はお許しを得てやや柔らかい表情の「増」を使用いたしました。
前シテは次第の囃子で登場します。里女と謡本に書かれていますが、ここは確実に御息所の霊の意識です。ゆったりと囃す次第にゆっくりゆっくり執心を引きずりながらの登場ですが、ワキの「女性一人忽然と来り給ふ」の言葉通り、この女性は霊界から一瞬のうちに嵯峨野に舞い降りてくるという、この世のものでない不思議さと存在感を漂わせ、運びにもゆっくりとした想いと、忽然として現れるスピード感が同居しています。単に鈍重な物理的歩行にとどまらないが心得で、この次第のノリと運びの難しさではないでしょうか。
そして作品の主題となる次第の謡、ここの謡に緊張と不安がふくらみます。何度と稽古を重ねても、本番当日での状態でどのように声が出るかは本人も判らない未知なもの、曲の主題を謡う大事な瞬間であるから尚更そうなるのです。「花に慣れ来し野宮の・・・秋より後はいかならん」は、この野宮のあたりで、咲き乱れた花を眺めて楽しく過ごして来たが、秋が過ぎ花の散ってしまった後はどんなに淋しいことだろうというほどの意味で、秋を飽きに掛けて源氏に飽きられ捨てられたれ淋しい御息所の心情を謡います。ここをどのように表現出来るか。次第はシテが作品をいかに把握出来ているかを試されるところで、集中度の高さが要求され、演者には一番怖いところです。
忽然と現れた御息所の気位の高さはワキとの問答の中に隠されています。能の多くの場合、執心に悩む霊は、僧に成仏を願うため現れますが、御息所の場合は、長月七日は源氏との最後の契りを結んだ大切な日、宮を清め御神事をするのだから関係のない人は僧でもさしさわりがある、「とくとく帰り給へとよ」と強く訴えます。他にはみられない手法で御息所のプライドの高さが表されます。
私は前場で次の三ヶ所が好きで、いつも謡ながら興奮してしまうところがあります。それらは謡と型の融合するすばらしい見せ場と思っています。一つは初同の「うら枯れの、草葉に荒るる野の宮の・・・」と入り、「今も火焼屋のかすかなる、光はわが思い内にある、色や外に見えつらん、あらさびし宮所、あらさびしこの宮所」です。火焼屋から漏れる光が源氏にも見え、また自分の魂にも見えるのでしょうか。その光は遠くに消えていくかと思うと、不意に自らの胸にすーっと入りこみ、体をめぐり、女性そのものをほてらせます。目付柱先をじっくりと見、次第に正面に直し、とくと一足引いて左に廻るという簡素な型付けのなかにも、謡い込まれるものはエロチシズムにあふれています。「あらさびしこの宮所」とは、ほてる肉体を持つ己の悲しさ。寂しいのは嵯峨野のうら悲しい景色だけではない、己の心が、肉体が寂しいのだという心の叫びが非常に美しい詞章に織り込まれているとは父からの教えです。
二つ目は、クセの上羽後です。『野宮』のクセは観世流では下居(したにいる)ですが、喜多流では床几にかけます。クセで「つらきものには・・・」と秋の景色を謡い始め、源氏との禁断の逢瀬があり、そして御息所と娘は桂川でのお祓いを受け伊勢へと旅立って行くことになったと語ります。作り物の鳥居は伊勢の鳥居にも、また鈴鹿川にも見え、「身は浮き草の寄る辺なき心の水に誘われて・・・」と、シテはおもむろに床几から立ち、自然に動き始める心持ちの型どころとなります。床几にかける意は、御息所の位の高さを表しているとも言われますが、私はこのふと立ち上がる風情が、なにかに取り憑かれたようにも、またどこかへ引き込まれてくようにもみえ、また見せるためではと思え、たまらなく好きなのです。「伊勢まで誰か思わんの・・・」とじっと遠くを見、距離感を出しながら歩みだす姿、両手を広げ娘の手を引こうとする御息所とも、また手を引かれる娘のようでもあるといわれ、「ためし無きものを親と子の、多気の都路に赴きし心こそ恨みなりけれ」とシオリ下居る型どころは、伊勢に下る御息所を描く絶頂だと感じています。
最後は中入り前の地謡の「黒木の鳥居の二柱に・・・」の謡です。シテは鳥居を見込み佇んでいるかと思うや、その姿は光のように消え魂だけが残る風情。この最後のところで、囃子方も地謡も気をかけ少しかかり気味に囃し謡う心得で良いところですが、また、もっとも難しいところだと思います。三番目物で中入り前がこのように強くかかるのも御息所の性格がなせる珍しい手法ではないでしょうか。
中入後のアイ語りは和泉流の野村与十郎さんが勤めてくださいました。本来の語りは車争いのことにはふれないのですが、近年野村家では、前場でふれない賀茂の車争いの話と、御息所が生き霊になった話を入れ、野宮に源氏が訪れた後、鈴鹿川の歌を詠み交わしたという話に続けています。車争いの段が入った事が、後の場面に続く橋渡しになり、わかりやすく良い語りであると思います。
後シテは車に乗った様子で登場し一声を静かに謡います。車争いの場面を語り、序之舞、破之舞と続きます。ここは情景描写であり、舞でありと、動いて表現できるので、前シテのように動きの少ない中に感情表現をしなければならない難しさと違って、取り組みやすさは感じます。
車争いの後、「身の程ぞ思い知られたる・・・」と舞台を二まわりしますが、これは妄執の闇から逃れられない輪廻の世界を表しているのでしょうか。「身はなお牛の小車の」で左手を高くつき上げ肩に乗せる場面は、牛の角がせり上がる真似であり、牛車を引く型と言われていますが、昔、後藤得三先生が「あの左手は光源氏、男性そのもので、あれが御息所の肩に重くのし掛かる。そこがわからなければ・・・」とおっしゃったことが甦ります。
序之舞は「昔に帰る花の袖」「月にと返す気色かな」と謡い始まります。美貌も地位もあった東宮妃のころ、あるいは初めて源氏との逢瀬があったころ、そして野宮での最後のあの時を回想し、月夜に舞を舞おうという情趣でしょう。森田流の伝書には「序之舞とは謡では表現出来ない所作を舞に感情移入して一曲を盛り上げる」と、舞が楽劇の原点であると書かれています。このことは『野宮』など三番目物の序之舞のほとんどに通じ、役者がその役になるのではなく、つまり六条御息所としてではない別な世界、演者自身の思いを持ち舞うということなのです。あのゆったりとした時の流れと四つに組み、速く動きたくてたまらない自分を、じっと我慢させ苛める苦痛そのものが舞としての表現の真髄だということが、今回少しわかったような気がしました。
では破之舞とはどのようなものか。流儀には、太鼓ものでは『羽衣』、大小物ではこの『野宮』『松風』『二人祇王』の三曲しかありません。破之舞とは「本音の舞、二の舞ともいって、主人公の具象的な表現の本音である」と伝書にあります。「野の宮の夜すがら、なつかしや」という御息所の本音の心、その最後の夜がなつかしいという心の興奮や高ぶりを舞います。通常の舞は、歌舞音曲の形式にのっとって、ひたすら舞う抽象的な動きや型ですが、破之舞には心がある、本音の舞であるということです。この二つの舞の表現法を区別し意識することが大事な心得です。
喜多の九代古能(健忘斎)は「舞の後の破之舞は難しい。が、もっと難しいのがある。それは舞後のイロエや働き、余韻をあらわす、これが一番難しい」と。イロエや働きは、囃子方があまりにすばらしく囃したご褒美に、シテがもう少し舞い続けたいという気持ちから拍子を踏みだすと、自然とイロエや働き入りになるという約束事ですが、一つの舞を舞った後に本音の心を表す所作だといえます。いずれにせよ、舞後の舞が重要で、本音でここを掌握出来なくては駄目だということは確かなようです。
最後はこの曲に限っての火宅留めです。「火宅の門をや、出でぬらん、火宅の門」と謡う観世流、「火宅」で留める喜多流。御息所は火宅というこの世の苦しみの世界を出られるでしょうか、いやいやとてもでられない……。成仏できなくともよい、源氏とのあの日の思い出を大事に抱いていたいという強い意志があるように私には思えるのです。「火宅……」と留めた後の静まり返った舞台の緊張感の持続、これがこの曲の終演です。
今回の演能にあたり雑誌観世での野村四郎氏の対談『野宮』が私の演能に大きな力を与えて下さいました。「『野宮』は作品が役者を選んでくるように思います。下手すると作品の方が拒否反応を起こす。貴方にはまだ無理だよというような。」「人物像だけをぎゅっと絞り込んでいったからといって『野宮』にはならない、御息所になるわけではない」と語っておられます。これは心に残るメッセージで、私の心に衝撃が走り心引き締まる思いとなりました。たとえば『羽衣』なら天女になって舞おうという作業がある程度できるのですが、『野宮』ではそれができないと思い知らされるのです。また「ベースに季節感、秋深く木枯らしが吹きすさぶような世界、そして深い森をイメージし、御息所という高貴で複雑な女性の情念の世界や諸々の性格を、演者が身体の中に思い宿らせて演技という形にしていく」と、つまり心の中での作業が行われないと全く歯が立たない作品だとおっしゃっています。外面上の御息所を真似ても能『野宮』には成りえない、また最小限の動きで、最大限の描写をするところに能の最も大事な要素があり、『野宮』はまさにそうであるという野村四郎氏のお話は原文を読み込む作業など吹き飛ばすほどのものでした。
私にとって『野宮』という大曲は心と体を切り刻むような思い出の曲になりました。粟谷能の会の三番立ての真ん中を、父や能夫がゆずり押し出してくれる形で挑むことができた、そのうれしさと重圧をひしひしと感じています。 (平成十四年十月 記)
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