『小塩』を勤めて
夢か現か、業平の恋と懐旧
粟谷 明生
平安時代の和歌の名手、しかも美男子(イケメン)で色男といえば、まず思い浮かぶのが在原業平です。業平自身が登場する能は『小塩』と『雲林院』の二曲だけで、『小塩』は喜多流では、しばらく演能が途絶えていましたが、十五世宗家・喜多実先生が復曲され謡本も販売されるようになりました。その後、何回か演じられ、今はかなりポピュラーな演目となりました。
その『小塩』を喜多流自主公演(令和三年五月二十三日、於・喜多能楽堂)で初めて勤めました。自主公演は新型コロナ感染症の影響で、昨年度の公演予定がすべて一年繰り延べになり、今回の『小塩』も本来なら昨年の五月に勤めるはずだったものです。
まずは、『小塩』のあらすじを簡単にご紹介します。
桜が満開の大原野(京都)で花見をしている都人(ワキ)の前に、桜の枝をかざした老人(前シテ)が現れます。都人は老人に声をかけ、桜花を共に愛でますが、老人(地謡)が、
「大原や小塩の山も今日こそは 神代の事も思ひ出づらめ」
と、古歌を詠むと都人はその歌の作者を尋ねます。
老人は二条の后がこの大原野に行幸された時、在原業平が后との昔の契りを想い詠んだ歌だと答え、そのまま名乗らず夕霞の中に消えてゆきます。(中入)
都人は先程の老人が業平の霊であると判ると再会を待ちます。
すると花見車に乗った業平が現れ、自らの和歌を詠じて舞を舞います。そして二条の后に供奉してこの大原野に来た昔が忘れられないと語ると、春の夜の夢の如く消え失せてしまうのでした。
『小塩』の舞台となっている大原野小塩山は京都市西京区西部にあり、それほど高くないこんもりとした山です。大原野には業平ゆかりの「十輪寺」があり、境内には業平の墓と伝えられる小さな塔が建っています。毎月5月28日には業平忌の法要が行われているそうです。
大原野には『西行桜』ゆかりの「勝持寺」もあり、両方のお寺を巡ったことを思い出します。
以前は、演能前に謡跡めぐりをして演能資料集めをし、謡曲保存会の駒札を見つけると喜んでカメラに収めたりしていました。最近はなかなかそういう事も出来なくなっていましたが、コロナが収束したら、またカメラを持って出かけたいと思います。
ちょっと脱線しますが、京都在住の喜多流能楽師の高林呻二氏からの面白い情報がありましたのでここに記しておきます。
「寂光院の大原は“おはら”、小塩の大原は“おおはら”と読み分けていたのですが、デュークエイセスの“女ひとり”の辺から“おはら”も“おおはら”と呼ぶのが主流になったようです」
なるほど、京都人が“おおはら”と呼ぶのはもともと大原野の方だったということ、地元の人でないと分らない感覚です。
大原野には藤原氏を祀る大原野神社があります。
能『小塩』は、その藤原氏出身の二条の后(藤原高子)が行幸された時に、昔恋仲だった在原業平も同行していて、あらすじにも挙げた
「大原や小塩の山も今日こそは 神代の事も思ひ出づらめ」
と詠いかけるのですが、この、業平が后との恋を懐かしんで詠んだ和歌をテーマに、金春禅竹が作ったと言われています。
ここでの「神代の事」というのは、藤原氏の祖神(大原小塩山の祭神)である天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が皇祖・瓊瓊杵尊(ニニギノノミコト)に従って降臨されたことを表しています。つまり、その神の子孫である御息所(二条の后)が参拝することで、降臨した昔のことが思い出されるでしょうという、懐の大きな歌です。業平が家来として、藤原氏や御息所を賛美するような歌でもありますが、二条の后との懐かしい恋の思い出を晴れやかに詠ったとも見て取れます。
これは業平52歳、后(高子)35歳のこと、17歳違いの二人が駆け落ちして17年経っての出来事です。
在原業平が歌人でイケメン、色好みの貴族だったことは知られていますが、勇猛な武官であったことはあまり知られていないようです。弓も上手で力強かったようです。
業平の父は平城天皇の皇子・阿保親王ですが、嵯峨天皇との対立に敗れ、大宰府に左遷されます。その後、都に戻りますが皇位継承の争いを避け臣籍降下を願い出て、在原朝臣を名乗ります。阿保親王には男の子が何人かいて、次男が能『松風』にも描かれる行平、業平は五男で最後は中将の官位につきます。いずれも、皇族の出ですが、政治のひのき舞台からは退き、その憂き思いが和歌の世界で開花し、伊勢物語などに多くの名歌を残したといわれています。
伊勢物語で描かれる業平の最も熱き恋は二条の后・高子との恋。伊勢物語の六段には、昔男(業平らしい)が女(高子らしい)を連れ出して芥川のあたりに籠っていると、雷が鳴り雨も激しくなってくる、男が女を奥に押し入れ、戸口で見張りをしているすきの、夜も明け方に鬼が女を一口に食ってしまった、男が気づいたときには女の姿はなし、男は足摺りして泣いたけれども甲斐なしであった、とあります。この鬼は実は高子の兄たち(藤原国経、基経)で、妹を取り戻しにやって来たのでした。
このようなエピソードが語られるように、業平と高子の恋は、駆け落ちまでしたけれども、はかなく、実ることはなかったのです。
能『雲林院』の現行曲は世阿弥が改題したもので、『小塩』と同じように、女物の本三番目物に準じる、三番目物として、しっとりとした曲趣になっていますが、もともとの曲は、今述べた、芥川の鬼にとられた事件に焦点をあて、後場には業平は登場せず、シテが兄の基経、ツレが高子で、古作の能らしい素朴な作りになっています。
世阿弥改題の現行曲は鬼の能をやめ、後は業平をシテにして優雅に作り変えていて、二人の駆け落ちなどの事件性はないのですが、その頃の恋の話に主眼が置かれます。
それに対して、『小塩』は満開の桜を愛でながら、駆け落ちから17年後、大原野で再会した時の話を据えて、事件からある時間がたった人間の思いに光を当てています。このところが、『小塩』という曲の主旨なのでしょう。穏やかで、昔を懐かしむ風情があります。
能を私流に陰陽で分類すると、『小塩』は陽で、『雲林院』は陰になるように思われます。
前シテの老人も花を愛でて陽気な感じですし、後シテも自らの和歌を聞きながら、気持ちよく序の舞を舞います。
後場の一声の和歌にもその違いが現れます。
「月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして」
歌の意味は、月も春も昔のままというわけではないのか、私だけは元のままなのだけれどといったところで、これも、伊勢物語の第四段や古今和歌集にも登場する業平の歌です。『小塩』では下の句が「我が身ぞもとの身も知らじ」となって、私の当時の姿を見知るはずもあるまいとワキに語り掛ける格好になっています。
この和歌の謡い方に違いがあります。『小塩』が声の調子を張って高音で謡うのに対して、『雲林院』では調子を抑え、低音で謡います。これも、『小塩』が陽で、『雲林院』が陰とする根拠のひとつです。
これまで喜多流の『小塩』は三番目物として大事に扱い、シテ謡も地謡も、比較的大事にゆっくり丁寧に「陰」を基本にしていたように思われますが、どうも不似合いに感じました。業平の二条の后への懐旧と遊舞の舞に多少翳りはありますが、それよりは逆に衰えぬ色好みの輝きを舞台上に押し出す「陽」の気で演じた方が良いのではないかと思います。これまで、初同は重い感じで謡っていましたが、地謡に「もう少し陽気な感じでさらさらと謡ってほしい」と、お願いし、囃子方の皆様にもそのように位を合わせていただきました。
後場の一声、シテの「月やあらぬ・・・」の和歌の謡は聞かせどころですが、節づかいが難しい謡で、きれいに華やかに、しかもうるさくなく張って謡わなければいけないので難所です。また、序の舞の位も普段より軽めにサラリと囃していただきました。
この曲は全体にあまりベタつかず、陽の気持ちで、軽くサラリと演じることが心得だと思います。
さて、前場に戻ってみましょう。時は春、桜が満開の大原野です。桜の枝をかざした老人(前シテ)が登場して、長々と謡います。ここがご覧になる方には退屈なところかもしれませんが、よくよく謡の中身を聞いてみると、なかなか身に沁みることが多いのです。
まずは次の詞章。
「年経れば齢は老いぬ然はあれど 花をし見れば物思ひも無し、と詠みしも身の上に、今白雪を戴くまで、光に当たる春の日の、長閑けき御代の時なれや」
(年月が経って老人になっても、花を見ていると何の物思いもないと、詠んだ人の心がよくわかる。今白髪の老人になったが、光り輝く春を楽しむことができるのは長閑な聖代のおかげでありがたいことだなあ)
歳をとっても、花を見れば物思いも無しなどと、いいではありませんか。
そして次は、満開の花盛り、それに誘われてやって来た老人が、
「老な厭ひそ 花心」を繰り返し、花たちよ、花見に集うみなさんよ、どうぞ老い人を厭わないで、と謡います。老人でありながらおちゃめで華やかな風情。これもいいです。
これらの老人の謡は少し熱っぽく開放的に、軽快、陽気に謡いたいものです。
このあたり、今まではあまり気にせず謡っていましたが、近ごろ・・・私も髪の毛が白くなり四季の花を見ては感傷に浸るようになって、この老人の心境が痛いほど分かります。
謡の「老いの世界」がようやく分るようになってきて、加齢するのも悪くないかと思ったり、しかし加齢は体力低下のマイナス面もあり、嬉しいやら悲しいやら複雑な心境です。先人たちが、年を取って体力が衰える分、謡の力をつけていくのだ、と話されていたことを思い出し、これもしみじみと分かるようになりました。
後場は作者禅竹が、業平の名歌をこれでもかと、まるでパッチワークのように貼り付けています。十五歳のとき、奈良の春日野に鷹狩りに行って、気になる姉妹を目にして詠んだ歌。
「春日野の若紫の摺衣 忍ぶの乱れ限り知られず」(伊勢物語初段)
(春日野には紫草のみならず、あなたの匂い立つ若さが充ち満ちて、私の心も、お二人の美しさつややかさに染まってしまい、この布の忍摺模様のように、私の心は限りなく乱れ、野の草々ならば、やがて静まるものの、この布模様は消えてはくれないのです。)
なんとオマセ。なんと女たらし、なんと和歌の天才。着ていた忍摺模様の狩衣の裾を切って歌を書いてやったといいます。若い時にこんな歌を詠み、それに磨きがかかって、五十代には「大原や小塩の山・・・」のような、あの大きな詠いぶりとなるのでしょう。
そして、まだまだ伊勢物語の和歌は続きます。
「みちのくの忍ぶもぢずり誰故に 乱れ初めにし我ならなくに」(初段)
「唐衣きつつ馴れにし妻しあれば 遥々来ぬる旅をしぞ思ふ」(第九段)
「武蔵野は今日はな焼きそ 若草の妻もこもれり我もこもれり」(第十二段)
和歌をこんなに貼り付けていいの? と現代人の私たちは思ってしまいますが、昔は伊勢物語がよく知られていて、耳に快かったのかもしれません。皆様はどう思われたでしょうか。
後シテの面について、復曲された喜多実先生は「源氏」を使われましたが、私は伝書通り「中将」にしました。「中将」という面はこの曲と『雲林院』の在中将・在原業平を想像して打たれた作品です。眉間にしわを寄せ、もて過ぎて苦悩している業平の面影を浮かべる面です。
「源氏」や「十六中将」よりやや年齢が高いお顔で、今回は「中将」が似合う、と思い選びましたが、また機会があれば、もう少し若い面をかけて、装束も今回は白色の狩衣にしましたが青色系も似合うと思います。また業平は武官なので、太刀を佩く(はく)のが理にかなっています。但し、「花見車の出入りに支障をきたす」との教えがあり今回はやめましたが、これも工夫をして太刀を佩いてみたい、などと思案しています。
さていよいよ終盤です。最後は、「まどろめば・・・夢か現か世人定めよ・・・」と舞い納め、業平の霊は姿を消します。ここにも伊勢物語にある、業平と斎宮との恋の歌を織り込み、能『小塩』は業平のお話をすべて夢、幻、として終曲します。世の中には良いにしても悪いにしても結論が出せない現象がある、それを夢のように現のように、人は夢幻のうちに溶け込ませて生きていくのかもしれません。
今回の『小塩』は最初に述べたように一年繰り延べになっての演能でした。この一年、コロナウィルス感染症で、ほとんどの能の催しは中止や延期を強いられました。どんなに日頃体を鍛錬していても、舞台に立たないでいると、お能の体が鈍ります。アスリートと同じです。能楽師も苦しい一年で、まるで夢、幻のようでもありますが、これからは、能の公演を中止・延期するのではなく、十分な対策を立てながら、演能活動を行なわなければいけない、と老いと闘いながら、気持ちを引き締めています。
(令和3年5月 記)
写真提供
前島写真店 2,7,8,13
石田 裕 1,3,5,6、9,10,11,
あびこ喜久三 12
謡蹟めぐり 4