シンプルな祝言・脇能
『岩船』を勤めて
粟谷 明生
令和元年の6月・喜多流自主公演(6月23日)で『岩船』を勤めました。『岩船』は御代を祝賀する脇能でシンプルな物語です。前シテは童子(天探女・あまのさくめ)ですが、後場には登場せず、後シテは岩船を守護する龍神として現れます。見どころは、後シテの龍神が櫂棹を持ち、海上を軽快に動きまわる舞となります。
写真 前シテ 撮影 新宮夕海
まずは簡単な『岩船』のあらすじからご紹介いたします。時の帝より、摂津国住吉津守の浦(今の大阪市住吉区)に新しく浜の市を作り、高麗(こま・朝鮮)や唐土(もろこし・中国)の宝を買い取るようにとの勅命が下り、命を受けた勅使(ワキ)が津守の浦に着くと、宝珠を持つ童子(前シテ)に出会います。
写真 前シテ 撮影 新宮夕海
童子は唐人風ながらも大和詞(ことば)を話し、勅使に御代を賞賛し、帝への捧げ物として宝珠を託します。そして住吉の浜の市の繁栄を寿ぎ、周囲の景色を楽しむと、やがて宝を積んだ岩船がやってくると語り、実は自分は岩船の漕ぎ手の天探女だと名乗り嵐のように消え失せます。
写真 後シテ 撮影 石田 裕
後場は、海中から龍神(後シテ)が現れ、天探女と協力して住吉の岸に岩船を寄せて、船中から宝を運び出します。金銀珠玉が津守の浦に山のように積まれ、そして、神の加護により御代は千代に繁栄すると寿ぎ終曲します。神の住む住吉の市の繁栄、そして岩船がもたらす天から帝への宝のプレゼント、それが作品のテーマとなっています。
前シテの「天探女」とは何者でしょうか。
文字通り、天を探る、天の動向や人の心を探る力がある女神で、古事記や日本書紀にも登場しますが、「天邪鬼」の語源・由来になったとも言われ、あまりよいイメージの女神ではないようです。しかし能『岩船』の「天探女」にはそのようなイメージはなく、あくまでも日本の帝に捧げ物をするためにやってきた女神、という設定です。
写真 前シテ 撮影 石田 裕
能『岩船』の前シテ・天探女は、舞台では能面「童子・どうじ」をつけ可愛い少年のイメージで登場しますが、天探女は女性です。男子の童子として登場することに違和感を持っていましたが、「神は何にでも取り憑ける」と考えると、すんなり腑に落ち演じることが出来ました。
中入前に、自分は「天探女」で岩船の漕ぎ手と正体を明かしますが、後場には登場せず、後シテは一転して、龍神となり登場します。
このように前シテと後シテが全く違う設定は、例えば『鵜飼』『朝長』や『船弁慶』などにもあり、珍しくはありませんが、これが能の大胆な面白い演出方法です。
『岩船』も後場に前シテとは違う龍王を登場させ、そこに焦点を当てたのは、やはりとても奇抜な演出で、演じると、とても面白いと感心してしまいました。
写真 前シテ 石田 裕
さて、曲名『岩船』の岩船とは何でしょうか。正式には「天の岩船(あまのいわふね)」と呼ばれ、諸神が高天の原から天降りになさった時に乗られた船と言われています。この船に、神々が宝をたくさん積んでやって来て、帝に捧げ物をするのですから、七福神が乗っている船をイメージしてもいいかもしれません。
しかし、「天降る」ならば、海の上を「えいさら、えいさ」とやって来るのでなく、虚空を翔け巡り舞い下りて来ればいいのではないかと気になります。
そこで私なりの解釈を紹介します。
岩船は豪華大型船です。入り組んだ湾の中にある住吉の浜には直接着岸できません。
そのため、住吉の浜の遠く沖合にまずは停泊して、今でいうタグボートのような小さな、それでいて馬力がある曳舟が、天の岩船号を岸に寄せる、そう考えると自然です。
このタグボート役を担ったのが後シテの秋津島根(日本土着)の龍神です。早笛で登場して名乗ると、「宝を寄する波の鼓。拍子を揃えて、えいやえい、えいさらえいさ」の謡に合わせて威勢よく曳く様子が描かれます。しかも、龍神には八大龍王が加勢してついには御船を住吉の岸に着けるのですから、豪華です。その様を龍神の俊敏な動きを豪快にお見せするところが演者にとっての最大の技芸の見せ場となります。
八大龍王は難陀、跋難陀、娑伽羅・・・と難しい名前の付いた、中国の八龍王のことですが、後シテはその八大龍王を従えて大活躍する日本の龍王です。中国の龍王は素晴らしいけれど、日本の、純国産の龍王もすごいぞ、とのPRにも思えます。
喜多流の謡本には、ワキ「此の君、賢王にましますにより」と、この国が賢い帝によりよく治められている、だから、神が隣国(高麗、唐土)の宝を集めて帝に捧げるのだというように書かれています。
この国の誇り、偉大さを表現するこの曲は、かなりの日本贔屓の自信過剰と思われます。
今の時代、ちょっとやり過ぎのようにも感じますが、ウラがないストレートな表現が脇能・祝言能のよさかもしれません。同じように神々の話でも切能になると、そこはまたウラがあり、能の戯曲には表と裏があることを知っておくことは大事かもしれません。
日本の龍神が八大龍王に加勢してもらうという設定、実際に龍が八匹も出てくると壮観なのでしょうが、そうはせず、後シテの龍神を代表にして、その様子を描くところが能らしい演出です。しかし例外として、宝生流の小書で『春日龍神』の龍神揃、『鞍馬天狗』の天狗揃など、故意に演者がたくさん舞台に上がる演出もあり、それはそれで豪華ですが、能『岩船』には、そのような小書はありません。
宝生、金春、金剛、喜多の四流は前場と後場のある複式能の構成を今に残していますが、観世流は敢えて前場の無い半能として祝言能に徹しています。
写真 後シテ 撮影 新宮夕海
能『岩船』は一時、喜多流で謡本が発売されていない時期がありました。今は一冊本が販売されて謡のお稽古も可能となりましたが、内容がシンプルで、必ずしも謡って面白い内容とは言えないからか、お稽古される方は少ないようです。
実は演能もそう多くなく、今回は、平成27年に友枝真也氏が自主公演で勤められて以来、4年ぶりでした。それまでも演能は4、5年に1回ぐらいです。
シンプルな内容ですが、こういう祝言能・脇能が存在することを知っていただくうえで、今回の自主公演の番組は意義があると思い、勤めました。いつものことですが、取組んでみるといろいろな発見があり、また工夫してみたいことも出てきて、演能とは実に能楽師にとって楽しい場、といえるのです。
写真 前シテ 石田 裕
今回、装束を唐風にと、心がけました。ワキが童子を見たときに「姿は唐人なるが、声は大和詞なり」と語ります。ご覧になった方が日本人ではない異国の人だと想像出来るように、と扮装を考え装束を選びました。
まず前シテの童子は通常は黒頭ですが、喝食鬘の御垂髪(おすべらかす)に替えました。
また水衣の上に側次(そばつぎ・陣羽織のような唐風袖なし)を羽織り、より唐人の童子のイメージが強くなるように演出しました。唐風の装束は唐帽子などいろいろありますが、粟谷家に唐風を演出するにもってこいの側次があるのは恵まれています。この格好、玄人筋から好評で、まずは安堵しています。
写真 前シテ 撮影 新宮夕海
後シテの龍神の装束は、全体に赤色系統、赤頭に大きな龍を戴き、櫂棹を持って登場します。櫂棹は普通、ただの白木の棒ですが、唐艪(からろ)と謡われていますので、少し唐風にしたいと思い、紅段(赤い布)で巻き異国的な感じを出しました。
写真 後シテ 撮影 新宮夕海
それにしても頭に載せる龍(木製)、昔は重さをなんとも思いませんでしたが、とても重く感じてしまいました。加齢が原因でしょうか・・・。キビキビした動きがだんだん身体から離れていくのが悲しく内心忸怩たる思いはしています。もっと身体を鍛えないといけないようです。
写真 後シテ 石田 裕
喜多流の謡本の前シテの出囃子に「真之一声」と記載されていますが、これは間違いです。「真之一声」は脇能の前シテの出を囃す荘厳な囃子事で、シテツレを伴って出るのが常です。金春流は今でもシテツレを伴って演じられているようですが、喜多流はシテ一人の設定ですので、ここは普通の「一声」で勤めました。
写真 喜多流『岩船』謡本より
また、中入り後のアイについて、番組の解説に、浦人(アイ)が住吉明神の由来や岩船のことを語ると書かれていましたが、野村万作先生から「和泉流は浦人ではなく、鱗(うろくず)の精です」とご注意を受けました。アイは「賢徳」の面をつけ末社の神の格好で登場し、立ちしゃべりをした後に三段の舞を舞います。
大蔵流のアイは浦人で、舞はなくしゃべりだけです。このように流儀によってアイの演出が違うことがあるようです。今後はより深く事前に調べ、間違えないようにしないといけないと思いました。
写真 後シテ 撮影 新宮夕海
『岩船』は「櫂棹の扱いに注意」がシテの心得で知ってはいましたが、それでも演じてわかったことがあります。申合せの時は袴ですので棹が自分の体そばに寄せる心得を簡単に出来るのですが、本番では幅広の半切袴を履きますから、棹が身体から遠くなり勝手が違います。長い棹の先が舞台上の人間に当たらないようにしなければいけない事を改めて知りました。
『岩船』はあまりにシンプルで、敬遠されるむきもありますが、演者として一度は演ってみてもいいか、と思いました。唐風の装束の工夫や、狂言(アイ)もいろいろあることを知り、櫂棹のことも勉強になりました。いつも演じて思いますが、どんな能も、それぞれに面白みがあるから今に残っているのだと、今回も再認識しました。
(令和元年6月 記)