『東岸居士』を勤めて

『東岸居士』を勤めて
謡い舞い尽くし、そして・・・




                             粟谷 明生

先々代十五世宗家・喜多実先生は10代から20代までの若い能楽師に習得曲を何曲か設定されていました。宗家預かりの友枝昭世師から私の後輩の長島茂氏までの世代がその経験者です。
脇能は『高砂』や『養老』はなかなか許されず、最初は『賀茂』、修羅能(二番目物)は動きが激しい『箙』と、不思議と床几の型が難しいマイナーな曲の『知章』を選曲され、三番目物は『東北』、『半蔀』よりは、まずは『六浦』、『羽衣』を、時には脇能としての分類にもなる『龍田』、そして四番目物に『東岸居士』が入っていました。五番目物は『紅葉狩』が多かった、と記憶しています。
私の『東岸居士』の初演は昭和51年の青年喜多会で、21歳でした。
今回は、喜多流自主公演(平成30年10月28日)で42年ぶりの再演となりました。



東岸居士(シテ)は自然居士(じねんこじ)の弟子で、名は玄寿といい東山雲居寺の放下僧(ほうかそう)です。
舞台は、東国から来た旅人(ワキ)が京都の清水寺へ参る途中、白川の橋で、門前の者(アイ)に東岸居士に引き合わせてくれと頼み、東岸居士が登場します。ワキとの問答になり、ワキの所望により、シテは中の舞、曲舞そして鞨鼓を舞いながら、仏の教化をするというシンプルなお話です。演能時間は50分ほどの単式現在能で、シテが終始、謡い舞い尽くす作品構成で、とりたてて高位の内容が濃い作品ではありません。何も飾らない演者の芸を淡々と見ていただくもの、と解釈されて実先生は若者に理屈抜きの謡や舞の基本を学ばせたかった、と思います。

では若者が研修過程で行う基本通りを吉(よし)としても、大人になった、しかも還暦を超えた自分が若い時と同じような再演はいかがなものか、それでは恥ずかしいです。
曲目の内容を把握し、テーマはなにか? 居士とはいかなる者か? など作品に隠されているメッセージを解きあかしたくなりました。
再演は、一度勤めたからと安心するのではなく、初演の経験を活かし演者の成長が舞台に現れるようにならなくては、と思います。演者の曲に対する意識が膨らまないと、父の言う「大人の芸」の域には至らないでしょう。特にシンプルな現在物ほど大人の味わいが必要とされます。



では具体的にどのように考え演出したかというと、まず中之舞については、舞は本来五段寸法ですが、長くだれるのは良くないと思い、近年流行の三段寸法に短縮し、替の型にして『東岸居士』特有の数珠を担ぐ型は取り入れました。


鞨鼓はややリズムをずらし遊興的な打ち方にするのも一興かと思いましたが、父の「一クサリ十六粒を舞いながら打つ難しさを披露する、そこは外さない方が吉」との教えが頭をよぎり、子方時代に覚えさせられた通りに打ちました。



ここでの中之舞や鞨鼓は、居士が、聴衆に向けて説教し仏道へ勧誘しようという意図で舞うものですから、人をその気にさせる、楽しく興味をもたせるもの、軽やかに乗りよくが大事だと思います。

さて、烏帽子について、寿山が書き残した喜多健忘斎の伝書に
「此の能、橋元にて舞い、謡いて供養を勧めたる能なれば、初めより烏帽子着ける理有り。さりながら曲舞(くせまい)に烏帽子の取合せ、宜しからず、後者損也」とあるのが気になりました。
伝書は先人の習得した技芸を後世に伝承する文書です。我が家の伝書には、最後に「こうしたら徳する、これは損」と書かれていて、そこが面白く演能に興味が湧きます。ここにも「後者損也」とあります。東岸居士は半俗半僧で、特に位があるわけではない自由な仏教徒です。現に『自然居士』は、人買い人の嫌がらせにより、いやいや烏帽子を附けさせられますが、最初は被っていません。今回は再演でもあるので、敢えて、健忘斎の教えの通り、烏帽子なしで演じてみました。



さて、謡い舞い尽くしの『東岸居士』ではありますが、稽古して初同の詞章が気になりはじめました。
「東岸西岸の柳の髪は長く乱るるとも
 南枝北枝の梅の花、開くる法(のり)の一條(ひとすじ)に
 渡らん為の橋なれば、勧めに入りつつ、彼の岸に到り給へや」 

この前半の二行は和漢朗詠集の慶滋保胤(よししげのやすたね)の次の句(元は漢文)を引いています。
「東岸西岸の柳 遅速同じからず
南枝北枝の梅 開落すでに異なり」

春は地形によって訪れ方が違う。東岸の柳は西岸の柳より芽吹くのが早く、同じ梅でも南側の梅が散るころ北側の梅が開くというように、花の開く時期が異なっている、との朗詠です。東岸居士の説教も、この朗詠を下敷きにし、自然の営みも人間の行いも、いろいろ違うところがある、法の道に入るにしても東岸からと西岸からとでは違うのだ、ということを含んで始まっていますが、「どんな梅の花も時がくれば自然と花開くように、自然と悟ることができます。そのための橋なのだから、どうぞ私の勧進に従って、涅槃の彼岸に到りましょう」と、甘言で誘います。

そして、序やサシ、クセで、末法の世に生を受け、出離の道(生死の道の迷界を離れて涅槃に入る道)に入るのも難しい云々と、さんざんに、罪深い人間の苦しみや無力を謡い上げます。(この辺りは、難しそうなことが書かれているので、最後に現代語訳を記載しました。)

やがて、鞨鼓を打ち出すと、「いずれも極楽の歌舞の菩薩の御法だ、音楽だ、お聞きなさい旅人よ。本当に面白い」、「南無三宝(おおそうだ!)、太鼓も鞨鼓も笛、篳篥、絃管共に極楽の菩薩の遊びと聞く」
と謡い上げ、そして最後は「どうして人は雪と氷とを区別するのだ。溶けてしまえば同じ水だ。多くの仏の教えも、すべての真理も一つ、萬法皆一如。万物の真相は一つだから、法門に入ろうよ!」と、たたみ掛けるようにメッセージを送って終曲します。



難しいことも甘い言葉で人々を気持ちよくし勧進する。この居士の思想と生き様が、稽古を重ねて行くうちに、なにか疑念を持つようになってしまったのです。

「萬法皆一如」

初同に隠された、東岸と西岸では違う、花も南と北では違う、という現実。ところが真実を裏返すように「所詮、同じ柳、同じ梅、皆同じだよ」と、ざっくばらんな言い方に「矛盾していない?」と疑問を感じ、眉唾者のノリの良さを感じてしまうのですが、もしかしたら作者の観阿弥と世阿弥はそれを逆手にとって戯曲したのかもしれない、などと自由勝手に想像して演じました。

東岸居士の「居士」は、もともとは在俗の仏教徒の称号ですが、今は男性の戒名の最後に「○○居士」などと使ったり、また謹厳居士のように、性格や素性などを表す意味にも使っています。東岸居士とは、東岸に出没する居士の意で端的に言うと束縛を嫌う自由な芸能仏教徒、と私は思っています。その自由な活動には僧籍が有功で、それを上手く活用していたのではないでしょうか。



東岸居士自身、もともと家も無いのだから出家とは言わない、髪も剃らず、墨染の衣も着ないと答えています。が、しかし袈裟は掛け数珠を離さず持っているのが居士の根拠です。飄々とした生き方には自由人の趣がありますが、その自由が大雑把で、いいかげん、怪しさを感じさせます。橋のほとりで、橋のための勧進といって説教し、舞を舞い鞨鼓を打って見せ、人々から勧進料いただきますが、果たしてそのお金はどう使われるのか・・・いささか怪しいところです。

この様な怪しい勧誘は現代にもありそうです。おいしい投資話につい契約してひどい目に合うとか、あやしい宗教の勧誘にはまって財産を貢いでしまうとか・・・、現在にも十分通じる内容です。



仏法を庶民に分かりやすく広めるための、巧妙な話術と余興の舞、今風に言えば、ラッパーのラップ感覚です。最近、あるお寺でのライブで、若く可愛いアイドル系の女の子が歌や踊りで仏の教えを紹介する映像を見て、私は思わずのけぞり、「おお、南無三宝」と『東岸居士』の謡を謡ってしまいました。

現代に残っている能は、今にも十分通じる内容を含んでいるのです。そうでなければ、能は現在まで生き残っていないともいえるでしょう。



今回の『東岸居士』も萬法皆一如と言うけれど、本当にそうなの。東岸と西岸の柳はやはり違うんじゃないの? 南枝と北枝では開き方が違うでしょう・・・、善と悪はやっぱり同じにはならないよ、現実はそうではない、ということも秘かに提示しているように私には見えました。

『卒都婆小町』のレポートでも書きましたが、「悟りの道に入ろうよ」と言いながら、小町さんは本当に悟りの境地になったのかな、どう思います? というような戯曲です。

『東岸居士』の最後は「萬法皆一如」と謡い、型の動きは両手で大きな円を描き、撥と撥を重ねて合わせ、「わかりましたね」と念を押すように、よかった、目出度し目出度し、と締めますが、私は本当に「萬法皆一如?」と曖昧な気持を込めて舞おさめました。



深読みし過ぎかもしれませんが、能は深く読めば読むほど、いろいろな表情を見せてくれます。懐が深いのです。再演することで、今回もまた裏側を覗けたように思えて、やっぱり能は面白い、と再認識しました。
そして能は、観るより以上に演る方が面白い芸能!と改めて感じました。

添付資料 現代語訳 訳・長谷川 郁
東岸居士現代語訳はこちら(PDF)

写真 『東岸居士』シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕
写真 二枚目 撮影 あびこ喜久三

                     (2018年11月 記)