我流に現代風に世阿弥伝書の「花鏡」を読み解くことを試みてみます。
その三、「強身動宥足踏(ごうしんどうゆうそくとう)、強足踏宥身動(ごうそくとうゆうしんどう)」
少年期の能の稽古は先生の謡うように、また舞う通りに真似ることから始まります。その際、細かい説明はなく、謡は謡っている内容、意味など判らなくても音と調子をよく聞き、繰り返すことで覚えます。舞の稽古も先生の動かれる通りに真似して身体で覚えます。
少年期の子どもは驚くほど吸収が早く、すぐに覚えてしまい大人の私には羨ましいかぎりです。青年期になり身体がしっかりと出来あがってくると必ず注意されることは「粗い!粗い!」です。当人は、力強さを示そうと、がむしゃらに勢い良く激しく動き廻って、「どうだ!」とばかり有頂天になっているのですが…そこに「駄目!」がでます。
「どういけないのか?」と質問したこともありましたが、懇切丁寧な答えはなく、「そうかー、この世界は理屈ではないのだー」と自分に言い聞かせていました。ところが世阿弥は「強身動宥足踏(ごうしんどうゆうそくとう)、強足踏宥身動(ごうそくとうゆうしんどう)」と、動きの粗さについて的確な注意を記しているではありませんか。これは貴重です。
以前若者が『賀茂』の仕舞の稽古をしているのを見て、あっ!これか!と閃きました。『賀茂』の仕舞は後シテの別雷神(わけいかづちのかみ)が雷鳴をとどろかせ、護国豊穰と国土守護する動きの激しい仕舞です。拍子は雷鳴を表しドンドンと力強く踏みます。拍子の踏み方は難しく未熟者はリズムを外してしまいます。私自身もそうでしたが、次第に外さないようになるとそこで満足してしまい、稽古を重ねるたびにその足音は段々うるさく騒音となります。
世阿弥は、身体を激しく使う際に足踏みをそっと踏むようにすると動作は強く見えるが粗くならない、また足踏みを強く踏むときは、身体を静かに動かすと足音は高いけれど身体の動きが静かなために荒くはならないと説明しています。
つまり身体と足とが同じような強さで動くと粗く見えてしまうということです。青年の溌剌とした仕舞を見るとき、激しさが増せば増すほど、荒い、粗いと感じるのはここに落とし穴があったのです。
以前、友枝昭世師の『賀茂』を地謡で謡いながら、師の絶妙な力ある拍子のなかに、躍動的で落ち着いた力強いエネルギーを感じたことがありました。どうしたらあのように表現出来るのかと思っていましたが、世阿弥のこの論理を知ることで理解出来ました。
そして、この段の最後に「足踏みは舞の中では習わず劇的所作の際習うこと」と、的確に留めを刺しているのが、私は世阿弥らしくて好きなところです。