我流に現代風に世阿弥伝書の「花鏡」を読み解くことを試みてみます。
その二、「動十分心、動七分身」
先代喜多実先生の稽古は「気を入れてー! 気を!」がモットーでした。若輩で未熟な私は生意気にも今流行の「気合いだー!気合いだー!」に似た野暮ったい感じがして仰っしゃるこの言葉が好きになれず抵抗感を持っていました。しかし、世阿弥の「動十分心、動七分身」には実先生の仰っしゃりたかったことが記されていて、今にして、実先生の思いが身にしみます。
「動十分心、動七分身」とは身体の動きを心の動きより少し控えて演じるべきであると、身体と心のバランスについて説いています。身体の外側ではなく身体の内部、つまり心とか思う気持ちを充分にこめることで、それを最大限に表現するには身体を動かし過ぎてはいけないという教えです。その割合を10と7と細かい比率で表しているのは世阿弥らしいところです。実際舞台で、動きばかりが目立つ芸は粗さとしてしか映らないから不思議です。
例えば『経政』『敦盛』『通盛』などの修羅物を、平家の公達である意識や修羅の苦患・執心などを意識せずに、やたら威勢のみ激しい身体の動きだけに終始すると忽ち楽屋裏では「鬼・畜生じゃあるまいし!」と厳しい言葉が飛び交います。特に身体が十分に利いて動き廻れる青年期にこの状況に陥りやすいようです。年を経て身体の動きが鈍く利かなくなる年代になると、この粗さは自然と少なくなってきますが、心を充分にする意識をしない限り、粗さがなくなるわけではないようです。特に世阿弥は身体が利かない、動けない年代からは、身体の動きより心の働きを充分にすべきであると注意を呼びかけています。
ではどのようにしたら心を十分に働かせることができるのでしょうか?
私は稽古の時、先生方から必ず「強く!もっと強く!」と注意され教わってきました。このなんとも単純な簡単な言葉に、実は非常に難しいものが隠されているのを知ったのは、恥ずかしながらつい最近なのです。「強く」という真意を把握せずに、一般に「粗野・乱暴」といわれる粗削りな感覚と錯覚すると、とんだ間違いを犯してしまいます。「強く・強さ」とは、能の世界では力がストレートに表現されるだけのものではなく、出して表現する力よりも息や機を身体の内部に引き込む力をさし、それが大事でその力が心の働きと連動すると考えられています。もちろん単に物理的になっては駄目ですが、真の強さとは、心を10、動きを7の割合にして、引く力によって心の働きを活発にさせ表していくものです。難しいですが、このような理屈を理解することで、謡や舞の新境地を開く助けになるのではないでしょうか。