研究公演つれづれ(その六)
研究公演第6回(平成7年11月25日)
明生の能『松風』 能夫の仕舞『熊坂』
粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一
明生 この前(第5回)の研究公演は、能夫さんが『白是界』、私が『天鼓』でした。第3回には地謡の充実ということで、友枝昭世さんに『求塚』のシテをお願いして、我々が謡に取り組むということもやってみたんですが。この辺で自らに大曲の負荷をということになって、第6回に私が『松風』、第7回に能夫さんが『小原御幸』を企画しようということになったのです。
能夫 そうだったね。
明生 それで、第6回の『松風』のときは、父(菊生)が仕舞『芭蕉』を舞って、能夫さんが仕舞『熊坂』を長裃の小書きで舞ったんです。まず『松風』というとーーー、『阿吽』に文章を書き始めたのがこの曲からなのです。
笠井 そうでしたね。演能した後に書く。『松風』からだったんだね。
明生 『阿吽』を作ったときに、笠井さんに何か書かなきゃねって言われて、「じゃ、お弟子さんから原稿をいただいてみましょう」と言ったら、それじゃダメ、自分で書かなくてはと。
笠井 それで書き始めたんだ。
能夫 でも、書くクセがついてよかったね。
笠井 それは稀有なことですよ。なかなか能楽師の中でこういう人はいない。ちゃんと書ける人は癖がつかないとダメなんだよ。特に寿夫さんを信奉しているならね。あの方は書く癖がついていたから、書くことによってお能も変わり、書くことも変わっていったんだから。
能夫 そうか。
笠井 やっぱり怠惰ではいけないんだよ。もちろん能にすべてのエネルギーをかけるんだけれど、その余滴というか、その余波はやっぱり形にしなければいけないよ。
明生 みんな、思っていることはあって、腹の中には入れているんですよ。
能夫 腹から出さなきゃいけないな。
明生 でも、あいつは書くだけで・・・、芸がダメだね・・・といわれるのはいやですから。最初は書くことに抵抗がなかったわけじゃないんですよ。やはりしっかり芸あって、その後にという具合でないとね・・・。
笠井 それはやり方もあるし・・・。書くことで芸のためにもなると思うよ。奇しくも『松風』で明生君が書き始めて、それが習慣になっているということはいいことだよ。他の流儀にもあまりいないからね。能夫さんも書いてくださいよ。曲は日々、後に残しておかないといけないような曲をやっているわけですから。今後は心がけていただいて・・・。
能夫 わかりました。思いはあるんだけれど。
明生 それで・・・、『松風』を選びやりたいというのは、『道成寺』との関連があってです、能夫さんから『道成寺』が終わったら気が抜けるかもしれないけれど、次は『松風』だよ、そこに向かうんだと言われたことが大きかったですね。『道成寺』と『松風』の違いは、やっぱり、『道成寺』は親がかりで、新太郎叔父と父と、上の人たちが作ってくれた、そういうものだと思うけれども、『松風』はそうはいかないということですよ。『松風』は自分でモーションを起こさないとやれない、「お父ちゃんお願いします」とか「そのうち出来るよ」というわけにはいかないんです。そこで、能夫さんと私とで考えたのは、次にやりたい曲は自分たちで創ろうよ、それができる場を作ろうよということでした。言われるままのメニューをこなしているだけの恵まれた環境に甘んじていては駄目ということが、わかり始めたから・・・、それが研究公演の意義でもあったのです。いろいろの試みをやってきて、6回目が私の『松風』で、7回目に能夫さんがあえて『小原御幸』をもってきた、これが、私たちの生き様じゃないかなってね。
能夫 『松風』を選んだというのはね・・・。『道成寺』はものすごく稽古してやるでしょ。『松風』もやはりすごく稽古しないとできない、普通の曲のような稽古ではできないんですよ。そういう曲が生きていく中に、ポツンポツンとないと怠惰になるんです。真剣に、ものすごいエネルギー使って、大汗かきながらやるということが徐々になくなるからね。その意味では、一年に一度ぐらいは、『松風』のような、チャレンジする大曲がないといけないという気がするわけね。
明生 自分自身のからだに、ねじを巻くようなものをしっかりと勤めていかないとと思っていましたから・・・。演じて『松風』はツレをやっているという経験がとても貴重だと思いましたね。大きな力にもなるし・・・。『松風』とか『山姥』はツレをやらずにシテをやるべきではないですね、仲間内で密かに「ツレしてシテ同盟」ができるぐらいでね。本当にツレで座っているのが苦しいという経験をした人間が『山姥』の「あーら、物凄の」と謡える。私はどうしても「申し訳ないね」という気持ちが出てきてしまって・・・、飲んだ席でよく話がでるんですよ。、やはりツレをやり、次のステップにシテができる。いきなりシテではないでしょうとね・・・。『松風』のツレで何人かのお相手をしましたが、そういうことをやってはじめて、シテができるということじゃないですかね・・・。私は、一番最初は父のツレをしまして。あのときは、謡を間違えてしまって、そうしたら父がすごく怒ってたんでしょうが・・・。「明生さん、しっかりしてくれなくては困りますよ」と冷ややかに、他人行儀に楽屋で言われてね。しっかり覚えてますよ。 物着の後、シテが作り物の松のところに出るの止める大事なところで、台なしですよ。駄目でしたね。
笠井 それはいくつぐらいのとき?
明生 二十七歳のとき。昭和五十七年の粟谷能の会のときです。その次は昭和六十三年に能夫さんのツレをやりました。
笠井 それは能夫さんの『松風』の披きだったんでしょ。
能夫 そうですね。
明生 そのときからは間違わなくなりました。なぜか・・・というと。一番最初の『松風』は申合せが一回しかなくて、要するにあまり稽古をしていなかったんですよ。謡だけ覚えて、先輩から写させて頂いた型付を見て出来ると思っているわけですから、うまくいくわけがないですよね。あの時は途中まではうまくいっていたのですが、最後に興奮してきたときに謡を忘れてしまったのです。能夫さんとやったときは何回も稽古をしました。ここは型付にはこう書いてあるけれど、気持ちがのらないからこの様に替えてなんて注意も受けたりしてね。
笠井 能夫さんとやったときは、昭和六十三年ということは、『道成寺』から三年ぐらいたっているわけだね。明生君が三十二、三歳のころですね。
明生 そうです。それから、クセの少し前の謡に、「幾程なくて世も早う」という、難しい謡所があるのですが、これがなかなか上手く謡えなくて。ここを上手に謡える人は多くないですよ。あのときも何回もダメが出て・・・。
能夫 そういうところは何回もやるといいんですよ。
明生 能夫さんとは何回も稽古して、練っていくわけですよ。能夫さんのお披きでしたからね。それまでのように、ハイ型付写しました、ハイ見ました、やりました、二日後に本番です、ということではないわけですよ。そこでよく考える時間をもてたのが、自分で『松風』をやるときにとても役立っています。
笠井 そのときの『松風』は能夫さんが三十九歳、『道成寺』から八、九年後。明生君がやったのは平成七年だから四十歳。ほぼ同じぐらいにやっているんだね。
能夫 そんなもんでしょう。
明生 その後はあたりまえのことなのですが、『松風』のツレで失敗はしていません。父と大槻自主公演、囃子科協議会や、妙花の会で大村定氏ともやりましたが、それらの会で、ツレがある程度うまくできたのは、能夫さんとやるときに、徹底的に教え込まれた、おざなりにしなかった、その成果がでたと感謝してますよ。
能夫 あのとき明生君にはいろいろ言ったと思うんだ。たとえば、アシラウときでも、シテが向いてから、ツレが向くというのはいやだからねと。ぼやーとしているツレだと、シテが向いているのに、まだ向かない、動かないでそのままなんだよ。あれは絶対にいやですよ。
笠井 気がきかない。気がきかないなんてものじゃないね。能が成り立たない。気持ちツレが早いぐらいの方がまだいいでしょ。
明生 そうです。真の一声で舞台に入るタイミングは、「袂かな」という回し節になったら動くというルールもあるけれど、もっと引き寄せてからでもいいのではとかね。
能夫 今までは回し節のときに出るのが定型パターンだったのだけれど、謡がなくなってから出ようとか、下音になってからにしようよとかね。そういうことをいろいろ研究しました。
明生 ツレの謡に関しても、ただ調子高くでなく、張りと共にテンションの高さ、こういう調子でと本当に謡ってみせてくれてね。
笠井 だから、ツレというのは能楽師が育つ場なのね。子方というのは別にして。子方になれるかどうかは生まれる条件が関係するけれど、ツレというのは、後から出発した人でも、ある水準になったら必ずやらなければならない役でしょ。そこをすっ飛ばしてシテはありえない。ツレをちゃんとやることで、シテとの距離感もわかるし、能そのものが見えてくる。ツレの位置というのはすごく大事だと思うんですよ。こういうと、ツレはシテより一歩下がった存在のように感じやすいけれど、中には『清経』のツレや『松風』のツレもそうだけれど、決してシテの添え物ではない、添え物ではダメだというものがあるよね。
明生 それは私も言われました。
笠井 『松風』なんかは、シテとツレが愛を争い合った姉妹でないと、あのお能は成り立たないわけだよね。そういうことを教わりわかっているツレでないと成り立たない。『山姥』のツレの百万山姥もそう。百万山姥というツレの存在は決して添え物ではないでしょ。あれがいるから山姥が呼び出されてくるわけですよ。その対比が非常に大事なの。だからツレがとても大事。ツレをどういう風に教育するか、これは流儀なりのポリシーによるよ。
能夫 それは大事なことだと思うよ。
笠井 ツレだから添え物でいいではダメで、かといってツレが出過ぎて下品なのもいやだし、曲に応じたツレの位置があり、シテというものがちゃんと見えていないといけない。ツレがあってシテにつながる、地謡があってシテの謡につながる、ある意味では役者を育てるのに非常によいシステムができているわけですよ。それがどこかで一つ一つが単なるパートになっていて、それらの役が密着してからみあっているということに気づいていない人も多い。そういう人は、よいシテができないよね。ましてやツレをやらないでいきなりシテにいくのは論外ですよ。
明生 シテとツレが連吟をするときでも、シテにべったり寄りかかるツレがいるでしょ。あれシテからすると、重くくたびれますね。連吟のツレはどんどん積極的に謡ってくれなければ、シテに負担をかけさせない気持がないと。シテは連吟ということで謡いながら少し楽ができるぐらいのものでなくてはと思うのです。ツレに任せながら最後はシテがコントロールする、大事なポイントはシテが握っているというような、長丁場の一曲を作っていくときにはとても大事なのです。だから最初に父が私と一緒にやったときは大変だったと思いますよ。こっちはできないし、それを全部カバーしながらのシテの疲労度。能夫さんに教わったのは積極的に声を出すということ。好きな調子で出してくれ、あとでコントロールするからと言われた。真の一声の「塩汲み車、僅かなる」の連吟のところ、妙に萎縮せず、堂々と謡わなけてはと言われました。ですから自分がシテを勤めたときも、ツレの長島茂君が、稽古で私の謡を聞いて調子を探ってから謡出すので、それはやめよう、君が声を出して構わないんだと、自分が言われたことと同じこと言ったんですよ。シテにまかせるのではなく、ツレも前面にでて手伝ってくれとね。
笠井 それがツレという役の位置だと思うんだ。
能夫 『松風』もそうだけれど、連吟というのが大変難しいものなんですよ。やっぱり一緒に稽古しないとね。できる限り稽古していれば、お互いの呼吸がわかってくるでしょ。
明生 この間は、絶句の間か、心持ちの間かというのも、そこで自然とわかってきますよ。
能夫 何度もやっていればね。
明生 父との時はあまりに「任せるよ、任せるから」といわれて、シテが謡わないから、てっきり、止まったかなと思って、私が少しフライング気味に謡うと、「駄目だね。この間が大事なところなんだ」といわれてね。そうかと思うと、心持ちと待っているとそうでなかったりして(笑い)。
笠井 親子でもわからないかねえ(笑い)。
明生 一緒に稽古が少ないからね、わかりにくいですよ。新太郎伯父と能夫さんもそうだったかもしれませんよ。かえって従兄弟ぐらいの関係、近いけれど一緒じゃないという距離というか間柄の方がいいのではないでしょうか。
あの時は装束については、私が着たいというものがつけられて・・・嬉しかった。印象的だった新太郎伯父の松模様の紫長絹、裏に大きく松が描いてあるもので、そういうものを着れた喜びみたいなものがありました。『松風』のころは、能をやろうという意識が充実し始めというか、やっと芽生えたんですね・・・真剣にやっていますから・・・(笑い)。舞い終えて鏡の間に戻ってきたときに、直ぐ自分の姿を見みたい!と思いましたから。ああ、こういう格好していたのかと思って、それからようやく面をとるという。それまでの経験ではそういうことはなかったですからね。いつもああ、終わったやれやれ、「早く面、装束とってよ」という感じでしたからね。(笑い)
笠井 明生さんも、やっとそれで成熟したね。
能夫 そうだね。それはいいことだ。
明生 それから、お能は一人では何もできないんだということを強く知らされたのが『道成寺』という大曲だとすれば、自分が能動的に動き、何かを仕掛けなければ何も出てこないんだということを学んだのが『松風』だと思うのです。二時間という長時間を一人で引っ張っていくために・・・。
能夫 そうだなあ。『松風』は中入りもないしね。
明生 途中で野村萬先生や万作先生がいい語りをやってくださるというわけにいかない、物語を説明してくれるということがないわけですからね。
能夫 『富士太鼓』なんかもそうだけれど、物着で世界を変えるというのは難しいな。『井筒』も昔はそうだったらしいけれど。
笠井 そうだね。今はそれに一曲の時間も長くなっているしね。昔は物着を入れて40分ぐらいでやっていますから。そのぐらいの時間なら、物着で世界がぐっと変わるのは、ある意味では観客にも説得力あったかもしれないし、役者にとっても体力とのバランスがちょうどよかったかもしれない。
能夫 今は二時間ですからね。
笠井 その二時間を気迫をもってやろうとしている感じ、あの時、その意識は伝わってきたよ。明生さんが『熊坂』をやるというので申合せを見せてもらって、喜多流の若い人たちはすごくからだが動くんだということで驚いた。からだのきれに、ある種瞠目したもの。その『熊坂』があって、『弱法師』、そして『松風』でしょ。本格的な三番目物をしたのは初めてでしょ。
明生 そうですね。『東北』や『半蔀』は勤めていますがね。
笠井 『松風』は大曲だもの。
能夫 『松風』やればいろいろなものが見えてくるし、『松風』を見れば、その人間がどれだけのことをやってきたか、何をもっているかがわかるから、思いきってやるのもいいのではないかと・・・。
明生 能夫さんに、『松風』が次の勝負曲だよと言われたので、その通りにしました。
笠井 お能に本気になれなかった明生さんへの早めの注射がきいたということかな。あの舞台にはその期待に応えようとするものが充分あったと思います。舞台の完成度を高めるべく向かっていく姿勢がはっきり見えたと思うよ。
能夫 課題を与えるというか、課題曲に挑戦するというよさはあったと思うね。
明生 あのときの地謡はすごいメンバーでしたよ。地頭は父・菊生で、後列は友枝昭世さん、粟谷幸雄叔父、能夫さんでしょ。でも銕仙会という小さな舞台では8人は多すぎたようです、6人編成でよかったぐらいでした、また、真の一声も寸法が余るものだから、佃良勝さん(大鼓)や宮増新一郎さん(小鼓)に相談して手を替えていただいたり、破の舞も森田流の寸法を替えて、松田弘之さんにお願いしたりして・・・。 ツレは長島茂君で、ワキは私と同じ年の森常好さんがお相手してくださり、みなさんに助けてもらったという事です。
笠井 ほんと、よい出発になったと思うよ。それからやっぱり、僕はあなたがこの曲から演能レポートを書くようになったことが、すごい財産だと思うね。それが始まったのがよかった。ちょうどよい機会になったと思うよ。
明生 それは、笠井さんが書かなくてはねと言われたから・・・。
笠井 仕掛けは僕だったかもしれないけれど、仕掛けても大丈夫かなという、そういう年でもあったんだよ。自分を成長させるきっかけになる年って、人それぞれにあるじゃない。あなたのように少し外れていた人間が戻ってきて、本当に自分のトータルな世界が見え始めたとき、そしてそれが自分のものになって、次に漕ぎ出せたとき、それが『松風』に挑戦したときだったんじゃないかな。
明生 外れていた人間を、みなさまが暖かく迎えてくれたのだという感じはしますね。 今日はありがとうございました。
写真撮影 松風 前 カラー 三上文規
松風 後 モノクロ 宮地啓二
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