対談 禅宗などから
能には命の高揚があるのですね
粟谷 明生
松下 宗柏
臨済宗の機関紙『法光』で「能の楽しみについて」記事にしたいということで、私(粟谷明生)のお弟子さんでもあり、臨済宗の僧侶でいらっしゃる松下宗柏氏と対談を致しました。能は宗教がベースになっていることもあり、宗教的、哲学的な話は興味深く、松下氏の軽妙な語り口に乗せられ、話は縦横無尽、とどまるところを知らぬこととなりました。
第4回目
自分が演じる曲はみんな好きになる
松下 自分が好きな曲とか、出会いの曲というのはあるのですか。
粟谷、好きとか嫌いとかはあまり考えていませんね。自分がやるものが段々好きになってくるのですよ。役者というのはそうじゃないかな。というか、私はそうですね。
松下 演じてみて、入っていくわけだ。
粟谷 そうそう。気持ちが入っていくのですが、終わってしまうとケロッとして、もうお終いと言って次のものにかかっていくという…。私、四、五年前の研究公演に 『采女』(うねめ)という曲で「佐々浪之伝」という小書を創作というか掘り起こしたことがあるのですね。そのときは、もうこれ一番あれば今年一年はいいな、あとは何もしなくてもいいと思っていた…。
松下 充実していた?
粟谷 すごく充実していた。ところが終わって三日ぐらいしたら、もういいや、次はあれがある、あれをやらなきゃなんて思って、『采女』のことなどすっかり忘れてしまう。
松下 ウワー、それはすごいですね。
粟谷 あの『采女』勤めたときに、自分の取り組んだ作業を整理しておかなければいけないな、ただやりっぱなしではと思って、「演能レポート」というものを自分のために書くようになったのです。「佐々浪の伝」は自分なりの掘り起こし作業だったものだから、何らかの形で残しておきたい。文字にすれば残りますから。能、演劇は花火みたいなもので、一瞬でしょ。演じ終わったらもう何も残らないのですよ。それがよいところなのですが…。
松下 まさに一期一会ですね。
粟谷 ええ。でも、そうでない資料的なものはどうしても残したいし、自分がどういう気持ちでやったかを書きとめておきたいと思って書いているのですけれど。書くということは、すべての整理をしなければいけないし、そのとき自分がどんな状態にいたかがよくわかります。でもたいへんで、途中でやめようとも思ったのですけれど。
松下 自分をえぐるようなものですからね。
粟谷 そうなのです。でも最近は、何でも自分のためにやっているのです。
「活句」で謡う
松下 私たち臨済宗の場合は修業で公案というものを使うのですが…。
粟谷 公案というのは禅問答のことですか。
松下 そう禅問答。伝統の問題があって、それをお師匠さんが出してやるわけです。
粟谷 悟りとは何かとか。
松下 「如何なるかこれ仏」・・・という問いが多いのですが。 「如何なるか父母未生前の本来の面目」とか、決まったパターンがあるのです。いろいろなシチュエーションで。
粟谷 同じようなことを言っていてはダメなのでしょ。この間、梅原猛さんの『仏教の授業』という仏教について中学生に授業したものを再現している本を読んだのですが、面白かったですよ。出題者が「仏とは何ぞや」と聞くと、いろいろ答えていくのですが、ある僧が、「かんしけつ=くそかきべら」と言ったら、「お前、悟った」と言われて、その次のやつが、同じに答えたら「このやろう、落第だ」となったという。
松下 シチュエーションの中で、その物語の中で問題をどうとらえるか。あるときは鳥の声、自然の音だったり、あるときは働く姿だったり、答え方は問題によって違います。やるときは一生懸命集中しないと解けないようになっているのですよね。頭で考えていてもできなくて、あるときポカッと心が開けるというか解るときがあるのです。でも、その答えにいつまでも捉えられているとダメなのです。
粟谷 なるほど。
松下 同じ問題を一年後に出される。あれだなと思って、同じ答えをだしてもダメなのですね。それはもう死んでいる、鋳型にはまっている、生きた答えを持って来いと。私たちはそれを「活句」と言っているのです。それに対して反対は「死句」です。いつも「活句」、生命感があるものを答えとして持って来い。だから、伝統の模範解答みたいなものは一応あるのですが、それは一つの目安であって、それ自体を持って行ってもダメなのです。
粟谷 それは能にも使えますね。死句で謡っちゃつまんないわけ。活句で謡わなければダメだという感じですね。
松下 それは年々の花というか、その年、そのときの味で答えなければならないし、自分の生活体験とか、私たちは見解(けんげ)というのですが、それを活句で持って来いと、示せよということなのです。仕舞と同じで、思っているだけでなくて、それを示せとくるのです。
粟谷 表現しないといけないのですね。
松下 そうそう。たとえば「宇宙を動かしてみろ」と言ったときに、それを示せというの
ですね。そのときどうするかというと、歩いてみせたりしてね。
粟谷 ウーン。
松下 極端にいえばあくびをしてもいいのですよ。私は宇宙の命ですと言って、示せよと言ったときに、頭だけ、言葉だけではダメで、体で表現するのです。そういう風に活句を持ってくること、それにとらわれないことが大事なのです。だから、前のことを引きずって、その類推でやると、お師匠さんはそれは死んだものだみるわけですね。そうなるとなかなか通さない、「よし」と言わない。もっと練って持って来いとなるのです。
粟谷 我々の中でも死句で謡っている人がいるかもしれない。これからは、謡の中に活句みたいなものを…。
松下 そして変わっていくという。型とか基本はできていながらも。
粟谷 そう、強く訴えかけることが必要なのです。私はたれそれと言うとき、「そーもそも」と大きく謡うのと、ただボソボソと謡うのとでは違いますからね。
松下 そうですね。ただきれいに謡えばいい、きれいに舞えばいいというものではないようですね。
粟谷 そうなのです。謡も舞も中の方、内面、内側は非常に燃えていないとね。動き自体が非常に静かであってもですね…。逆に外の動きは大きいのに、中は何をやっているかわからない、中の方は死んでいるのではないか、と言われるのは未熟な芸ですね。
松下 お能の命という感じですかね。
粟谷 演者が何を思って、幕の内から何を運んでくるかですよ、その役を演じる心がないと…いけませんよね。我々、歩くことを運ぶと言うのですけれど、死者の思いを運んで来る、そういうものがあるのではと観世銕之亟先生はおっしゃっていましたね。公案といったことは、永平寺の方ではやらないのですか。
松下 永平寺さんは「只管打坐」で妄念を払い、ひたすら坐禅をするのです。しかしこれは非常に難しいことですよね。
粟谷 難しいですね。
松下 厳しい。本当に。曹洞宗から臨済宗の批判というのは、座禅そのものではなくて、何かのためにやっている、何かを解くためにやっているというものなのです。でも一回身心脱落し自我が抜けないと公案は解けないことになっているのですけれどね。分別心が抜けるという体験が大切で。
粟谷 禅的な考え方は面白いと思いますね。
松下 集中して表現するというところまでいくわけだから。禅と同じで、お能は感応道交というか見えないものとの交流というものがある世界だと思ってね。行者的なものを感じますよ。
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