お能の新しさ
ダンサー&振付師(作家)の余越保子さんと語る
余越保子さんは1981年にアメリカに渡り、パンプシャー大学、NY大学で振付と演劇を学び、ニューヨーク、アムステルダムをベースにダンサーとして活躍。95年からは作品を発表し始め、ダンスマガジン誌上で注目する25人の作家に選ばれています。最近は、日本でワークショップを教えるなど、作る、踊る、振付と、幅広い活動を展開されています。ダンスの分野はコンテンポラリーダンスということで、モダンダンスに属するようですが、日本の伝統芸能にも興味があるということです。こ
の度、歌舞伎舞踊を研究するため、アメリカからの留学ということで、東京に1年間滞在されています。滞在中、お能にも興味があるということで日舞と謡と仕舞を私(粟谷明生)のもとで稽古されました。今回は、ダンスの専門家から見た能について興味深いお話をうかがうことができました。
粟谷明生(以下粟谷) 稽古してみてどうでしたか。
余越 体に入ると踊れるんですけれどね。まだまだ・・・。
粟谷 能は踊るでなくて舞うといいます。
余越 舞えるんだけど・・・。うろ覚えのときには、お稽古を録画したビデオを見ても、何でこんなにおどおどしているのと思ってしまう。仕舞の歩幅とか形とかペースがつかめないから。いろいろな舞の構造がわかってくるといいんですけれど。
粟谷 1つ1つ段階を踏んでお教えしていければ、構造がお判りいただけるのですが。例えば「上羽」(あげは)「左右」「打込」と連続している動きとして覚えられるといいのですが。
余越 何かクラシックバレエと似ているところがある。型があるっていうか。
粟谷 型は決まっていますよ。基本動作は50型ぐらい。湯谷なら13の型を覚えれば出来ます。
余越 バレエの方が多いですね。バレエは、オン ザ ビートというか、動きのリズムがはっきりしているし、一度バーレッスンをマスターすれば、手が増えて踊れるようになるんだけど、お能や日本舞踊は、間で踊るでしょ。でもなかなか面白いのは、ヘタでも見ていて面白いところがある・・・。
粟谷 下手でも、見て面白い?
余越 うまく言えないけれど、バレエだとヘタだと見ていられない。
粟谷 ハハハ(笑い)。
余越 もう絶対見ていられない! お能の場合は、私なんかお稽古したの4回目、ど素人じゃないですか。それでも一応形の善し悪しは別として何となく舞える。でも、バレエのど素人は踊れないと思う。お能の場合は、動きがオーガニックというか自然だからだと思う。人間の体に一番即した動き。歩行なんかの位置関係もオーガニックに作られている。だから変にずれて見えない。ヘタなんだけれどもちゃんと見れる。バレエは装飾が多いから、その装飾をうまく形づけられないと見られないんだと思う。お能はそういうところ構成がしっかりしていると思う。すごい!
粟谷 あなたがある程度、短期間でスムーズに仕舞を習得出来たのは、やはりダンスをやっていらっしゃるからだと思いますよ。基本的な身体を動かす運動のセンスをお持ちだから。仕舞の構えは普通はあの姿勢を形作るまでになかなか時間がかかるものです、なかなかできない人もいるのですよ。
余越 もちろん、それはそうだと思いますけど。でも、へたはへたなりに、何か味が出るんじゃないですか。初めてお能を観たのは研究会というものだった・・・。
粟谷 どなたの研究会?
余越 忘れてしまった。
粟谷 三島由紀夫は、最初に何を観たかが問題と言っていますね。
余越 本当の初めは、ニューヨークで。ジャパンソサイエティに来ていた人だから、結構有名な人だったと思う。
粟谷 梅若六郎さん?
余越 六郎さんではない。ずいぶん前ですよ。梅若さんはアムステルダムで観ました。それで、日本に来てから能楽堂でお能を観るのがいいと言われたから。お金がないので一番安いのをというので、それが研修能だったみたい。でもすごく面白かった。やっぱり物がしっかり作ってあるから、こう・・・。
粟谷 そう。能は構造の骨格がしっかりしているから、あとは能楽師自身の体や精神性みたいなものが問題なのですよ。能がユネスコの世界遺産になったと自慢できる一方、その中で何をしているかということが大事なのでしょうね。私も含めて、なかなかどうしてそこまでいくには難しいですよ。
余越 でも面白いですね、構成がやっぱり。600年前に出来た伝統芸能というけれど、私の目からすると、すごい、ポップなんです。話の作り方とかバンバン飛ぶし、展開や振付なんか、すごく面白い。踊りというのは一番何でもできちゃう世界だと思うんですよ。何でもありというか、順序をバンバン飛ばしてもいいし、さかさまにしてもいい。それが演劇になると起承転結とか、時間の流れもコーズアンド エフェクト(cause and effect<原因と結果>)と言って、こうなったからこうという、理由と結果、ロジックがあって、そのために時間が流れて究極の方向にもっていくわけですが、踊りって、もっとこう時間の観念が広いんですよ。最近のコンテンポラリィダンスなんか、歌もあるし話もあるし、踊らなくてもいいし、枠がバンバン広がっているから、そういうところから見ると、お能の自由さというか作り方が見ていて面白い。そこが一番面白いところかもしれない。
粟谷 今、能の中におけるスピードというような文章を書いているんだけれど(このホームページの切戸口のコーナー参照)。能で場面転換する場合、たとえば『是界』という能で、初めにシテが「これは大唐の天狗の首領是界坊にて候」と名乗って、これから日本に行き仏法を妨げると謡います。「名にし負う豊葦原の国津神・・」の道行を謡い終わると「急ぎ候ほどに、日本に着きて候」と忽ち日本に着いてしまう。観る人は、この言葉を聞いて、日本に着いたと日本を想像しないと始まらない訳です。場面転換の動きとしては、右に向いて2、3足出て、右足をかけ2,3足で元の座に戻るだけで「急ぎ候ほどに・・・」ですから、「さっき居たところと何ら変わらないじゃない」と言われると、返す言葉がなく、困るのですが。言葉の展開で、さっきは中国で今は日本の愛宕山としてしまうあたり、かなり大胆ですよね。そういうことは他ではないのでは…。芝居ではガラガラと舞台を回わして場面を換える手段が生まれる。そういう意味では能というのはすごく斬新。私は、能というものを考え出した戯曲家たちのセンスに感心してしまいます。能のように観客が頭を働かして場面転換をイメージするのと、映画や普通のお芝居のように、場面をすべて与えてくれるものとの違いですよね。どちらがいいという話ではなくて、そういう違いの面白さが、私もだんだん分かってきたんです。伝統芸能には文楽もあるね。文楽はどう?
余越 文楽は観ていて勉強になりますね。人形には感情がないじゃないですか。それなのに文楽で観ていると何であんなに感情が出るかというと、人形使いの思いを込めているというのはあるだろうけれど、どこか動きの正確さだと思うんですよ。泣くときの手や顔の角度がとても正確で、間の取り方もよくて、観ている私たちもウォーオー(泣く感じ)となる。運動学的な正確さで、ドラマを創り出しているという意味で、文楽は面白いと思う。だから役者だって、感情を込めれば悲しみが表現されると思うかもしれないけれど、動きの正確さの方がすごく大切、気持ちを込めると同じくらい、あるいは、それよりもっと大切。体の動かし方とか傾き方なんかがね。文楽を観ていて思うんです。
粟谷 文楽、人形浄瑠璃の方には、この角度でなければ絶対駄目というものがあると思うね。それは生身じゃないから。能にはシオリという泣く型がありますが、基本ラインはありますが、演者で手の角度や位置など少しづつ違うのですよ。私は形の整い方も大事ですが、それよりあの型をしたら泣いているのだなと自然に感じさせるエネルギーみたいなものが、役者の中にふつふつと沸いてこないと本当はいけないのではないかな。これは泣く型だから、と精神性がなくて型をなぞっただけではいけないと思いはじめたのです。
余越 型は記号になっている。
粟谷 戯曲の基本、土台がしっかりしているということはすごくいいことなのですが、そこに胡座をかいていてはねー。シカケ、ヒラキが立派にできれば充分でしょう、と演ずる気持ちが空虚ではね。型を越えた演劇性が重要じゃないかな。それは師から習うものとはまた別なところで習得しなくてはいけないと思いますよ。いろいろな他の物、他流の舞台を見る、聞くことも大事だと思いますがね。
余越 他のものをですか?
粟谷 そう。シテ方は五流あるけれど、父から聞いた話ですが、昔はよそ様のものを見たり聞いたりすることはあまりない、なんていう時代だったようですよ。
余越 えーっ、信じられない。
粟谷 そういうものだからこそ、それぞれの流儀は影響を受けずに今日まで伝承されてきたのかもしれませんね。金春流を拝見するとそう思いますよ。
余越 聞いてはいけないというのは、影響を受けると汚れるからということなんですか。自分が持っているものを侵されるということなんですか。
粟谷 そうでしょうね、多分。今は変わってきたと思いますよ。
余越 じゃ、最近の能全体を見て、革新的な能楽師とか戯曲家が出てきた時期とか、そういう人はいるのですか。
粟谷 何人かはいらっしゃると思いますが、少ないでしょうね。やはり一番は観世寿夫という人じゃないですか。世阿弥と同じぐらいの価値観だといわれますね、私もそう思います。
余越 何を変えたのですか。
粟谷 世阿弥が書いた『花伝書』を見直され、能を演劇的に演技者の立場で研鑽された方です。
余越 『花伝書』、読んでいるかもしれないな・・・。
粟谷 昔の能楽師は読んでいなかったようです。
余越 彼がそれをイントロデュース(紹介)したというか。
粟谷 『花伝書』が世に出たのは近年なのですよ。
余越 ああ、そうか。バレエの世界で、今世紀に一番影響を与えた人というのは、ジョージ バランチンという人なんですけれど・・・。
粟谷 その人はどこの国の人?
余越 ロシア人です。もう死んじゃったけれど。男の人です。アメリカに渡ってニューヨークシティバレエ団を作った人です。新しい美意識とか美感覚をバレエの世界に紹介した人です。すごく革新的だったのです。何でかって言うと、彼はそれまであった、ロシアバレエというか、フランスバレエの物語性を取ってしまった。バレエの世界では、王子様と王女様が出てきて愛し合ってとか、白鳥の湖とか眠れる森の美女とかジゼルとかあるじゃないですか、そういうお話を語るための踊りだったものを、そのお話を取って、動きというものと音楽にフォーカスしたのですね。物語性をはぎ取って、バレエを全く違う表現にした・・・。
粟谷 それはトウシューズをはいてやるわけ?
余越 もちろんそうなんだけれど、ゴテゴテしたコスチュームを取っちゃって、ただのお稽古着みたいな、タイツとレオタード(肌着みたいなもの)を着て、体のラインを全部見せる。だからジョージ・バランチンというのはガリガリに痩せた、お乳もぺちゃんこの、ストーンとした人の方がラインが出せるからと、そういう人を採用したんです。それで音楽に乗せて振付をするんだけれど、これは聞いた話だけれど、楽曲のドラマ的なピークを捜して、そこから遡って作っていくから、音楽の構造をそのままビジュアルに見えるようなバレエを作るというもので、アメリカの新しい人たちに熱狂的に受け入れられたんです。おそらく他のいろいろな芸術方面にもすごい影響を与えた・・・。
粟谷 いつ亡くなったの?
余越 もう、15?20年くらい前・・・。
粟谷 その方、いくつぐらいまでやっておられてのだろう。バレエと老いが結びつかないのだけれど。
余越 老いても目が利きますから。この人は役者じゃない、振付一本みたいな。
粟谷 でも昔はやっていたのでしょ。
余越 昔はね。でも早めにやめて。作る人というのは、本当に作りたい人というのは、自分がやらない方がつくりやすいのではないでしょうか。お能は全然違うでしょうけど。
粟谷 能は能役者が演出家でもなければならないからね。そこが面白いのさ。でも、あなたのコンテンポラリーダンスというのは、自分で作って自分で動かなければならないのでしょ。それは能に近いのではないかな。
余越 私のやっているのはそうですよ。もちろんダンサーを見て、こうやってああやってと作っていく作品もあるんですけれど、私は作り始めて、まだベイビーというか、4作か5作目だから、新人だから、まだですけど。それから私は動きのコンビネーションとかは余り興味がないんですよ。だからす
ごく派手に動いて、いろいろな構想のステップで見せてというのは余り好きじゃなくて、そういうタイプの振付師ではないんです。
粟谷 能は役に立ちましたかね。
余越 お能ですか、・・・歌舞伎と全く違うから面白い。
粟谷 日舞もやっているよね。
余越 日舞とも全く違う。日舞もなかなか面白い、お能も面白い。
粟谷 能の方が、原始的じゃないかと思うのですが。
余越 ウーン、そんなことない。
粟谷 作られた時代が古いからね。
余越 お能の方が、抽象的だから新しい!
粟谷 日本人の感覚として、抽象的なものの方が先ですからね。
余越 そうか!
粟谷 神楽とか民族芸能とか、クルクル回るだけみたいなものが舞の原点と言われている。
余越 ウーン、それは西洋的な考え方とは違っている! 西洋で教育を受けているとアブストラクトなものが前衛という感じがある。ロバート・ウイルソンという人知っていますか。オペラの演出を書いている世界的にも有名な人。超有名な人ですね。その人がおそらく禅とかお能に興味を持っていて、西洋人として、そういうものを概念的に舞台芸術に表現できた人なんです。その作品がいいか悪いかは別にしてね。その人がやったことというのは、その人の出世作は、アインシュタイン オン ザ ビーチというもので、大きな10メートルぐらいの蛍光灯のようなものをゆっくり倒していき、15分ぐらい、延々とお客はそれをじっと見ているんですよ。そのバックにフィリップ・グラスという現代音楽をかけて、ラリラリラリ・・・というすごくシンプルな音楽。無を見るのね。無のあり方というか。西洋がお能とか禅を見たときに、アブストラクトに、新しいという風に感じるんです。そこに抽象的な、斬新さを見たというか。私のやっているコンテンポラリィダンスはモダンダンスから派生したもんだけれど、最初は感情を出すのに内面の形象化を掲げたんです。ここにこうたまっている感情をこういう動きで出すのだという・・・50年代からやっている。ところが、マース カニングハムという人がそんなものはいらない、動きに意味づけをするのは全然つまらんと。動きは単なる動きではないかということで。その次にもっと若手の振付家たちが、ポストモダンを提唱した。モダンダンスのポストだから、その先っちょね。60年代から70年代ぐらいです。その人たちはスニーカーを履いたりして歩くとか走るとかして、ジェスチャーで意味もなく動く、それで動きを作り出すんです。だから抽象的になればなるほど新しくなっていった・・・という感覚が私にはあるんですよ。だから、私はお能を観たとき、ここまで斬新で新しいものは!と思ったもの。影響を受けていますよ。
粟谷 能は最初からその舞台装置を必要としなかった。抽象化の極致だよね。
余越 それはなぜ?
粟谷 日本人の感覚には抽象的なものが入っているのではないかな。色即是空、空即是色という言葉があるように、あることが無いことで無いことがあることというような東洋的な考え方がある。狂言の野村万之丞さんが、狂言は生きていこうとする、生きることに焦点があるのに対して、能は死というものを見つめて、死をテーマにしているとお話していたが、言い当てていますね。翁と脇能を除けば、死というテーマ、我々が絶対避けられない、重くのしかかってくるものをテーマにしています。だから、20歳そこそこで完成した演技を求めるのは難しいでしょう。
余越 死というよりもどちらかというと老いなんじゃないですか。
粟谷 老いだね。老いるということだね。
余越 私、年をとった人の舞台を見るの好きです。マースカニングハムという振付家の踊り手としての舞台は素晴らしいです。年とっていて、ほとんど動けないのだけど。舞踏の大野一雄さん、彼なんかもすごい、切符取れないもの。彼を見るために世界中の人が切符を取ろうとするんです。こういった舞台は特殊ですけどね。私、思うんですけれど、スペインで闘牛を見たときに、牛を殺すわけですが、これが美しいんですよね、すごい。死の儀式をパーフォーマンスにしてしまう、それでマタドー(闘牛士)とかも超格好いい、すごいセクシー。動きが決まっていますよね、とどめを刺すときとか。コスチュームも動きも全部踊りみたいになっているから、それはショーなんですよね。死をパフォーマンスにしてエンターテーメントにして見せるのね。私は見ていてすごいなと思ったんだけれど、死というのはすごくエキサイティングなのね。
粟谷 能の場合は死じゃないね。あなたが言ったように老いだね。滅びの美学というか・・・。
余越 滅びの美しさだと思う。
粟谷 死を見つめるとか、老いとか、そういうものを能はテーマにしているんだね。
余越 私、白洲正子さんの本、どんな本だったか忘れたけれど、お能というのは5つか6つの動詞があって、それをやると序破急になるんだという文章があって、そのところだけ利用して踊りの動きを作ったことがあるんですよ。その言葉、動詞というのは、落ちるとか寄るとか、滅びる、整えるだったかな。とにかく彼女が言うところの能に必須のいくつかの動詞があるんですよ。それらを組み合わせて序破急ができると。その考え方を創作に利用してみた。ダンサーは言葉を与えられて、動きを作る、フレーズを作ったりしますからね。これは面白いプロセスだなと思って作ってみたのです。とてもおもしろい動きがでてくる。あんまりおもしろいので、じゃあ、自分で勝手に好きな動詞を持ってきて、たとえば、開けるとか閉じるとかというのを足していったら面白いかなと思ってやってみたら、全く面白くないんです。彼女が言った動詞だけ、その言葉だけの動きで一番面白いものができる、すごい力だなと思った。おそらくお能の中に、ある世界、クオリティなのか質的なもなのか知らないですけど、何か確固とした弦のようなものがあるんですね。いろいろな言葉で時間をかけて実験的にやってみたけれど、白洲さんの言う言葉のすごさが手に取るように分かった。あ、すごいなっと思って、忘れられない言葉になった。コンテンポラリィの人は、たとえばインドネシアだと、伝統芸能を小さい子に教えるんですよね。そして、その後に伝統芸能をやる人とコンテンポラリィをやる人とに分かれていくんです。日本はそういうのはないじゃないですか。コンテンポラリィはコンテンポラリィ、伝統は伝統で動かないというか、西洋から来るものと伝統はバシッバシッと分かれている。
粟谷 最近それが見直されて、小中学生に邦楽を教える、義務教育に入れていく動きになっているけれど。それで私も、能を小中学生に触れてもらおうといろいろ活動をやっているのです。西洋から来るものと日本のもの、伝統芸能など、両方知ったうえで、分かれていくのがいいのだろうね、あなたの言うインドネシアみたいに。今日はいろいろ面白い話をありがとうございました。
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