『卒都婆小町』について

『卒都婆小町』について

粟谷能夫

粟谷明生

平成14年12月は能の稀曲『卒都婆小町』シテ・友枝昭世の公演が二度催され、地頭・粟谷菊生で私たちは地謡を勤めました。そこで、橋の会勉強会で教わったことや携わって得たことなど経験談を添えて少しまとめておきたいと思い、能夫と対談しました。ここにその内容を記載いたします。

番組資料は下記の通りです。

【橋の会】

12月6日(金) 宝生能楽堂

シテ友枝昭世、地頭・粟谷菊生、ワキ・宝生閑、ワキツレ・宝生欣哉

笛・一噌仙幸、小鼓・鵜沢速雄、大鼓・亀井忠雄

地謡・香川靖嗣、粟谷能夫、塩津哲生、粟谷明生、大村定、長島茂、金子敬一郎

後見・粟谷辰三、友枝雄人

【朱夏の会】

12月21日(土) 大濠公園能楽堂

シテ・友枝昭世、地頭・粟谷菊生、ワキ・宝生閑、ワキツレ・宝生欣哉

笛・一噌仙幸、小鼓・横山貴俊、大鼓・白坂信行

地謡・香川靖嗣、粟谷能夫、狩野秀鵬、粟谷明生、笠井陸、中村邦生、狩野了一

後見・粟谷幸雄、塩津哲生

明生 一ケ月に『卒都婆小町』二回、それもシテが同一人物というのは稀なことで、喜多流の歴史では多分ないと思いますが、シテの取り組む気持ちの持続は大変だと思いますね。私たち地謡としては謡を忘れてしまう前に、またあるほうが気は楽でいいですね。また一度目での反省点などを改善できるということでは、有意義だったと思います。

能夫 友枝さんご自身がおっしゃっていましたよ。昔だったら怒られるって(笑い)

明生 東京のお弟子で『卒都婆小町』を観た感想を聞いていてどうも話がずれるので、おかしいなと良く聞いてみたら、はるばる朱夏の会に行ったというから、えっー、福岡まで行ったのかと驚きましたよ。橋の会の方は切符がすぐ売り切れて、観たくても観られなかったらしい。

能夫 橋の会の切符は早くから売り切れていたからね。

明生 そう、だから二回あってよかったですよ。

能夫 地謡に関しては、僕は二回目の方が良かったと思っているよ。適度な慣れみたいなのがあって、余裕を持って謡えたような気がする。橋の会の方は、すごく緊張していたな、菊生叔父もそうだったと思うよ。二回参加してみて、こうしようと思ったことがすべてできたとは言えないけれど、楽しかったという感じがあるね。

明生 二回目は謡い馴れたということと、お相手のお囃子が幸流(小鼓)横山貴俊氏と高安流(大鼓)白坂信行氏で、何となく安心しましたね。

能夫 それはあるね。でも喜多流は本来、幸流、葛野流の組み合わせが具合がよいことが謡っていて再発見できたね。例えば「浄衣の袴かい取って」と喜多流は拍子に合わずで謡い、イロエとなるでしょう。葛野流はここで打掛けを打ち、幸流はムスブ手を打つ。今は拍子にとらわれないでくずして謡っているけれども、もしかすると昔はある程度拍子に合うようにも謡われていたかもしれないね。一噌仙幸さんがイロエの吹き出しが普通じゃないと言われたことも関連してくるかもしれないし、囃子方の手組みから考えると単純な拍子に合わずではないような気がする。

明生 なるほど、そうですね。あそこ今まで何となくしっくりこなかったんだけれど、それを聞くと解りますね。そのうち能夫さんがやるときは、やはり幸流と葛野流との組み合わせがいいですね。

能夫 それがいいかもしれないね。あそこはすごく気になっていたんだよ。うちの流儀は拍子に合わずで、合わないのを前提にして謡い、お囃子はアシラウ感じがしたな。

それから、昔は、シテの道行後、桂川に着いた後に、さらに言葉があって、阿倍野の松原に着いたと謡っているんだ。今はそこが抜けているんだよ。

明生 下掛宝生流のワキも安倍野についたと謡いますね。だから遭遇するわけですよね。

能夫 ほかに、玉津島明神に幣帛を捧げると明神の使いの烏があらわれるという一段があったと申楽談義に書かれているね。

明生 観世流ではやっているのですか。

能夫 やっていない。そこを復活させても面白いね。それにしても、今回の『卒都婆小町』で、友枝さんはやっぱり素晴らしい役者だなと思ったよ。

明生 どういうところが?

能夫 あの狂いの物乞いから霊が憑く場面ね。あんなにできる人はいないなと確かに感じたよ。そりゃ、自分のやり様とはまた別の世界ということはあるだろうけれど。

明生 小町の身体に取り憑いたって思いましたね。

能夫 本当に、戯曲というか台本を読み込んでやっていられるなとすごく共感を持てたね。あの卒都婆問答でも確固としたものがあるし。友枝さんが、精一杯顎あげて面遣いをしている姿、つまり能を超越したような方法論もあったけれど、それがうまく表現されて、いいなと思った。そういうものだろうと思わされた。あの卒都婆問答ね、途中から宗教が変わってくるんだよ。ワキは高野山の僧だから、前半は真言密教だけれど、「菩提もと植ゑ樹にあらず、明鏡また臺になし。げに本来一物なき時は仏も衆生も隔てなし」は禅宗の言葉だからね。

明生 「げに本来一物なき時は仏も衆生も隔てなし」は、梅若六郎さんの舞台を拝見したときに、地謡が6人だったからか、かなり強くエネルギッシュに謡われていると思いましたが、あれはやはり、そこで世界が少し変わるからなんですね。

能夫 あそこはやはり強くなければいけないようだね。何かに書いてあったのを読んだ記憶がある。『朝長』でも、「悲しきかなや・・・」から宗教観がガラッと違うって、よく銕之亟さんがおっしゃっていたけれど、まさにそういうことで、世界観みたいなものがガラッと変るから謡い方も当然違ってくるということはあるわけだよ。

明生 そうか、面白いね。ところでシテの歩み、運びに気になることがあるんですよ。最初に出てくるときは杖をつき、姥の老いの足運びですが、物着で立烏帽子をかぶり長絹を着たあとや「花を仏に手向けつつ悟りの道に入ろうよ」という一番最後のところも一貫した老足の歩みであった方がいいのか、それとも時間の流れの中で何か違った工夫がされるのがいいのか。その辺が観ていてわからなかった、工夫があった方がいいのか、また何も変わらずがいいのか・・・。

能夫 それはわからないな。実際僕はやっていないしね。十四世六平太先生は、片方は幽玄の足で、片方は切る足、つまり詰める足で老女は出ると書いているけれどね。両方、抜き足でなくて、まあ、いけない言葉ですが、びっこを引くようなイメージかな。

明生 『卒都婆小町』のときですか。

能夫 老女物はおしなべて。ずーっと出たらもう一方の足をひょこっと浮かすというね。それが正しい伝承なのか、六平太先生の巧みの工夫なのかはわからないけれどね。

明生 『卒都婆小町』のような現在物ならいいかもしれませんが、『伯母捨』『檜垣』のように舞うことになると問題がありますね。舞を舞わないときは何とかなるだろうけれど。

能夫 普通の幽玄の足とか、摺り足で舞いたいよね。だけど流儀のプレッシャーというか、なかなか動けなくなるらしいよ、友枝さんも言われていたからね。

明生 だいぶ抵抗なさっているようでしたが。

能夫 わかるよ、それは。

明生 『定家』の場合は老いの足ではないですよね。執心を引きずるような足の動きだと思うけれど。痩女をかけるから運びも変わってくるという喜多流の考えに首を縦にはふれませんが、執心を引きずる感触で老女物も手がけられないでしょうか。

能夫 それはそれなりの表現方法としてもいいのではないかな・・・。

明生 それには、面や装束、お囃子と、いろいろなものを配慮していかないといけないでしょうね。取り合わせが悪ければ意味がなくなるわけで。

能夫 問題点だね。それはそうと、宝生閑さんがどんなに重く扱うのかと思ったら、そうでもなかった。以前とは違う。変わられたね。すごくいいですよ。曲としての位、ワキとしての位はありながら、重そうで重くない、おもくれない、いいよね。

明生 やはりいいですね。福岡の朱夏の会の申合後、信ちゃん(白坂信行)に「申合せではやらなかったけれど、ワキの次第と、シテの習之次第とどう打ちわけるの」と聞いたら、あまり意識していないような答えでした。橋の会の勉強会で、幸正能の伝書に、次第について、「ワキの次第は陰ノ中ノ陽ノかげ、シテの次第を陰のかげトイフ」というようなことが書かれていると聞いて、これは面白いと思って、実際打たれる方の意識、心持ちが知りたくて聞いたのですが・・・。父が横山貴俊さんはワキとシテの次第で音色を変えて打ち分けているところがさすがだと絶賛していましたね。確かに老女物らしいいい音色でしたね。そして宝生閑さん、欣也さんの謡の雰囲気は、『卒都婆小町』の世界を作って下さいますね。

能夫 そうだね。

明生 橋の会でならば、観世流にある「一度之次第=いちどのしだい」(シテが初めに登場して床几に座り、後からワキが登場して名乗り、卒都婆に腰掛けている小町をみつける)を経験したいと思いましたけれど。なるほどワキの次第とシテの習之次第の違いが体験でき、また大小鼓の役者の個性をそれぞれ観ることができて貴重な経験になりました。

能夫 「一度之次第」も合理的でいい演出だけれど、流儀には本来ないからね。今回の経験でよかったんじゃないかな。

明生 喜多流で習之次第があるのは、『道成寺』と『三輪』の小書「神遊」、老女物では『檜垣』と『卒都婆小町』の四曲ですね。シテの出で揚げ幕を上げ、右に請け一足出ると記されている型付の真意は、『道成寺』では、鐘に対する蛇体の執心、追いかける心など強い気持ちの表れであり、『三輪』も同様、蛇と神という二面性を持ちながら、玄賓僧都のもとへ向かう気持ちの強さの表れだと思うのです。で、『檜垣』と『卒都婆』などはどうなのかなと思って観ていたら、橋の会のときは見えなかったけれど、朱夏の会のときは、友枝さん、確かに一足出られていた。やはり出なければならない状況、老女の肉体的運動能力として前につっかかる感じがあるのですね。これは老いの運び、老足(ろうそく)に共通しますが、一足出るというのは前に向かう気持ちの強さがあるときの当然の成り行きであり、体の運動であると思うのです。それが確かに型付にも記されていると感じました。常のように「右二請ケ右足引キ揃エル」では一端心が冷静になり平常心となって、舞台遠く正面先にある影向の松、そこに降りられる神に敬意を表すということに落ち着いてしまうのだと思いました。

能夫 大事なことだよね。『道成寺』でも「出ろ」という教えがあるんだから。引くのではなくて出るという感じだよ。そこの辺をしっかり伝承してほしいね。型付を見て動いているだけじゃ役者としては情けないからね。でも本当は型付を読み込めばいろいろいいことが書いてあるんだから、そこを読まなくてはいけないんだよ。人の書いた型付を写して安易に演じているからそういう大事なところを、落としてくるんだね。友枝さんが『卒都婆小町』を二回やってくれたけれど、やっぱり、それを観て何かを得ようとする人がいたときには、二回やってよかったと思いますよ。

明生 友枝さんは初演があって、今回の二回と合計三回ですよね。流儀に三回の記録ってあるかな。私たちも初演、今回と謡い、観てきているわけですが、初演と今回の二回目、三回目とでは違いがありますね。初演ではすごい重厚感、老女物らしくという感じがしましたが、今回は『卒都婆小町』という戯曲を演じているとひしひしと感じました。

能夫 友枝さん自身が同じ思いを持ったかどうかはわからないけれど、二回目、三回目があって成長したという感じがしますよ。何度もやるというとマイナス的な考え方をする人もいるけれど、でも良かったんじゃないですか、後進にとっては。

明生 観たい人にとっては、より多く観ることができて良かったですよ。これ六ケ月も一年も経ったらまた感覚も違ってくるだろうし、演じ方も考え方も変わってきますね。

能夫 だから短期間に二回は面白かった。うちの弟子、橋の会を観て「いい『卒都婆小町』でしたね」と言っていたからね。やっぱり橋の会では忠雄さんだね、決してだてに年を取っていないね。白坂君も37歳で『卒都婆小町』を披き、それも自分の会を立ち上げてきての成果だから褒めてあげるけれど、やはり61歳の『卒都婆小町』とは違うね。比較してはかわいそうだけれどね。

明生 掛け声の質と高さとか。大鼓の音の響き音色とか。透明感と独特の個性がうまく融合され発揮されていましたね。

能夫 とにかく何回もやってという反発はあるかもしれないけれど、適材適所、いい役者が思いを込めてやってくれれば、それを観た人間が次を考えればいいわけですよ。そういう意味ではすごく良かったんじゃないかと思うよ。それで自分が演じるときの、何かよすがにすればいいわけでしょう。

明生 今回の二回、友枝さんとしてはどっちが良かったのだろう。私はどっちというのは判断つかないですが、地謡としては、横山さんを得て、強さ、広さみたいなものが出たような気がしましたけれど。

能夫 『卒都婆小町』は雲の上の手の届かない曲と思っていたけれど、今回の二回の舞台ですごく身近になってきた。それって大事だよね。だから諸先輩がやってくれないと。

明生 神棚に上げておいてはダメということですよね。白坂君が、一番最初に『卒都婆小町』を観たのはうちの父の『卒都婆小町』なんですって。それであの「関守はありとも止まるまじや出で立たん」、あそこがいいなと思って、自分がやるときはコレだと思ったと話してくれましたよ。

能夫 そういうことなんだよな。先輩がよい舞台を観せてくれるということは。

明生 あそこ、「関守はありとも止まるまじや出で立たん」はいいところですよね。私は大好きです。特に喜多流は、物着したあともう一度シテが常座にさしかかるところで「関守はありとも止まるまじや出で立たん」と張って謡いかけるでしょ。血の気が引くというか、感極まるすばらしい場面ですよ。父は「益二郎の関守」っていわれるぐらい益二郎の関守は評判で、張って謡うんだよ、それを僕が次に伝えたい、が口癖ですね。

能夫 あそこがいいんだよ。観世流の『卒都婆小町』を観たけれど、物着のあと、「関守はありとも」はなしで、いきなり「浄衣の袴かい取って・・・」とシテが謡うから拍子抜けしちゃう、面白くないよ。あそこは、たとえ関守がいて行く手を妨げようとも、思いのままに行くぞという意識を強く出しているわけですよ。

明生 あそこに蓄えたエネルギーの爆発がないと喜多流の『卒都婆小町』にはならないですよね。あそこがつまずいたらおしまいです。謡い方に気を使わないといけない。怒鳴ってうるさくてはいけないし、調子があって、テンションが上がっていなければいけないし。

能夫 最初の「月こそ友よ通い路の関守はありとも・・・」とは違うよね。物着後の返しの謡は「せーきもりは、あーりともーお」と張って謡う、当然音は高くつってくるんだけれど、そこを謡いきる。ああいうところの謡が大事なんだよ。流儀の人たちでも息を引いて謡うことが出来る人がすくないような気がするね。僕は銕仙会にふれたりして、謡という意識を学んだけれど、喜多流にしっかりした謡い方のマニュアルが無く、また指導もしないのが原因だろうね。

明生 最近、そういうことがわかってきました。『望月』をやるとき、能夫さんにもう少し引いて謡えよと言われて・・・。

能夫 ガーッと出す息だけではない表現があるわけですよ。

明生 物着後の「関守・・・」のところは、まさにそうしないと、引いて謡わないと成立しませんね。出す息だけだと声として次第に消えてしまう。それが引いて謡うと声が音として広がりをもって残る、何かそのあたりの意識をもっていないと。

能夫 そう。その意識がないとね。

明生 出したいものを80%ぐらいに引いて、それでいて100%をこえる効果を出す、そういう声の広がりみたいなものですね・・・。

能夫 本当はそういうことを理解していないと能にはならないんだよ。右向いて、左向いて前に出てシカケ、ヒラキというだけのマニュアルじゃ。もっと切瑳琢磨しないとね。

明生 『卒都婆小町』も神棚に上げておく曲目じゃないということがわかった。今回はいい機会でしたね。

能夫 やっぱりやらなくちゃダメだよ。能楽師として生を受けたからには。

明生 近づくように努力しますよ。可能性があるように思えてきたんですよ。父の勤めた『伯母捨』は可能性ないけれど、『卒都婆小町』は可能性が見えてきた。嬉しいな。

能夫 その意味では『卒都婆小町』というのは、老女物という妙な重々しいムードにもっていかないで、みんなが手がけるというものにしなければいけないと思うね。一つの戯曲でしょ。鋳型に入れ過ぎてる感じがする。

明生 『卒都婆小町』というのは、幽玄物ではなく、現在物だから、それなりの演者の工夫が必要とされる感じがしますし、第一、作風が面白いですよね。卒都婆問答といわれる宗教問答なども面白い。

能夫 面白い、すごく面白い。

明生 橋の会の時、皆1時間30分ぐらいで終わるんじゃないのと言っていましたが、宝生能楽堂ということもあってか実際は1時間55分かかりましたね。でも単に老女物という、終始しっとり静かに時間が流れていく2時間近くではなく、ごつごつしたものを私は感じました。そういうものが『卒都婆小町』ではないかと。

能夫 それはもう生きとし生けるものの携わる人間の躍動感みたいなもので・・・。

明生 『伯母捨』のように、もう時間を超越して、ある種の時間が過ぎていってしまうものもあるかと思うと、『卒都婆小町』のように芝居的要素を感じるものもある・・・。

能夫 老女物だからといって、ただ坦々とやればいいというものではないようだね。

明生 老女物、演じる年齢制限、老い、なんか消極的で、シルバーシートに堂々と座れるまではやってはいけないみたいな、いやなイメージが頭にはまだ残ってますが、神棚に上げて腐らせては観阿弥、世阿弥に申し訳ないでしょう。能夫さん早くやって下さいよ。

能夫 ああ楽しいなと思うよ。だから二回目も三回目もやらなければならないと思うね。

明生 腰曲げて、顎出して、よたよた歩いて老女物を勤めたと思うことが間違いだと確信できたからいい勉強になりました。かなりハートのエネルギッシュなところがないと、この小町さんは歯がたたない。強いですから。

能夫 強いね、小町は。強いというか、狂気になるし、乗り移るし、すごい世界ですよ。

明生 卒都婆問答後「むつかしの僧の教化や」のやり方もいろいろあるなって気がします。うちの父のように、ワキの高野山の僧を完全に馬鹿にして、あーあとつぶやくようにくたびれて立ち去るやり方もあるし、友枝さんのようにトンと杖をついて鼻っつら強そうにつんつんとした小町もありと。観る側の想像力も広くなくては。

能夫 ブツブツいろいろ言うけれど、何を言うか! あーうるさいねー! 大した僧でもないのに説教なんかたれて、っていう言い方もあるでしょう。どちらでも選択できる、そこがまたお能の面白いところでもあり役者のやり甲斐だと思うよ。

明生 そう、ちょっと苛立つか、それとも捨てるというか、もう相手にしない、関係ないととぼけてしまうか、いろいろ世界がありますね。

能夫 菊生叔父の演じ方も然り、昭世さんのも然りだよね。

明生 演ずるとき、例えばシテ小町が怒って腹をたてているという動きを、型として見せないで、謡の言葉での訴えだけで成立させるという考え方と、型の中に怒りを、鋭角に出す方法と考えられるのですが、どちらがいいですか。

能夫 それはその人の生き様もあるし、主義主張もあるしね。昔、後藤得三先生は問答でワキとワキツレがそれぞれ何か言うたびに、いちいちワキ、ワキツレと見ていたけれど、あれを観ていて何か小町が翻弄されているように見えたんだ。可笑しいでしょう、小町がやり込めなくてはいけないのに、反対にやり込められているようにみえるもの。相手に向かうときは必ずアシラウという決めごとに忠実な、そういうふうにやる時代があったんだね。でも昭世さんという人はいろいろ考えて、もうワキツレには体を向けないでしょ。そういうことでも、僕は近年、老女物は進化したなと感じているんだ。

明生 うちの父も、ワキにはアシライ、ワキツレには面遣いだけがいいと言ってますね。

能夫 昔は律義というかいちいちワキ、ツレと向いていたんだ。全部そうなんだよ。昭世さんもそういうのを見て、きっと嫌だなと思っていただろうし、僕も若造ながら、嫌だなと思っていたから。だから、今回の昭世さんのを見てそうだそうでしょうと思ったよ。昭世さんのあたりから、喜多流の近代能というか、進化していると感じるんだ。そういうことを僕はいいたい。

明生 進化している・・・。

能夫 以前の老女物は本当、マニュアル通りというか、ちっとも考えていないという感じだったよ。だからここらあたりで、ギアを変えないとね、それをしないといけないんじゃないかな。『卒都婆小町』とか大曲、稀な曲、秘曲をやるということは、それで足跡が残るし、みんなには衝撃波というか印象を与えるし、それは流儀にとって悪いことではないんだよ。自分でもやってみたいと思っている人はよく観るし、何かを感じるだろうしね。やらないとカビがはえてしまうものね。あまり手慣れ過ぎてもいけないけれど、獲得できる範囲で秘曲もやっていかないと、流儀の損失だと、僕は思うね。

明生 今回の『卒都婆小町』、そういう意味でもよいタイミングでしたね。

(平成15年1月 記)

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