能夫の『芭蕉』について語る

能夫の『芭蕉』について語る

粟谷能夫
粟谷明生
笠井 賢一

明生 今年の春の粟谷能の会(平成15年3月2日)では、能夫さんが『芭蕉』、私が『鉄輪』を勤めました。今回は能夫さんの『芭蕉』について話し合ってみたいと思います。笠井さんが「能夫さんの『芭蕉』がよかった」といろいろなところで言いふらして下さっているという情報が入っているんですけれど・・・。(笑い)

笠井 ハハハ。言い散らしていますよ!
実際いいと思ったもの。よさは何だったのだろうか、能夫さんご自身がどう考えているか聞いてみたいと思ってきました。

能夫 いやーあ、もう・・・。

明生 この間、「橋の会」の後に、土屋恵一郎さんもおっしゃってました。

笠井 彼もいいと言い、僕もいいと言った。彼のいいと言うのと僕がいいと言うのとでは多少ズレがあるかもしれないけれど、僕はとてもいいと思った。お囃子や地謡は抜群だったとは言い難いけれど、そういうことを越えて能夫さんのシテ一人主義で成り立つんだなということを感じました。能夫さんが五十何年間かの生涯の中で、『芭蕉』という能に思いをかけて、こういう風に向かっているなということが伝わってきて、僕は本当に感動した。能を観るというのは、こういう体験なんだとつくづく思ったよ。能夫さんがどういう生き方をしてきたか、もちろん細かいことは知らないけれど、僕は少なくともここ二十年ぐらい割合見てきたからね。『定家』も観たし、『西行桜』も、いろいろなものを観たけれども、中でも『芭蕉』という曲が、あなたの資質に合い、かつうまい具合に作品として成り立ったなと思った。これは僕にとってすごく幸せな経験だった。能を観る喜びというのはこういうものだという気がするんだよ。ずっと観てきた役者が、一皮むけたとか、技術力がどうなったとかいうことではなく、作品に対する思いが、すごく豊かな形で表現されているということが実感できて、能を観る喜びを感じられた。

能夫 そうですか。

笠井 僕がこんなことを感じたのは久しぶりです。感動の度合いからいうと、あなたのあの『井筒』に匹敵するものだった。いやもっと・・・だった。『井筒』もいろいろアクシデントがありながら、あなたが思いをためてきて、その思いがすごく伝わってくるものだった。あれから十数年たって、今回の『芭蕉』はそれよりはもう一回りも、二回りも豊かになった気がする。いままでいろいろな人の『芭蕉』、銕之亟さんのとかを観てきたけれど、誰にも遜色のない『芭蕉』だったと思った。能夫という人が、こういう風な思いでやる『芭蕉』なんだということがよく伝わってきた。あの曲そのものが無理なく伝わってくる。中入り前の月を見るところなんかすごく豊かに感じられたし、中入りそのものもいいと思った。

能夫 それは仙幸さん(笛方・一噌仙幸氏)に助けて頂いて・・・。仙幸さんが寿夫さんと一緒に勤められたときの譜を吹くからと言ってくださった。少し早めに低い呂から吹き出すなんともいえない味わいのあるアシライ笛を吹いてくださったのです。

笠井 いろいろなことが総合的にうまくいったんでしょうね。それはあなたの思いみたいなものが、若い過剰な思いとはちょっと違って・・・。巧んでこうしようと思ってもできるものじゃない。そういう曲ではないからね、『芭蕉』は。

能夫 そう、巧んでできない。人生そのものをかけないとできない曲ですから。大変だったですよ・・・。

笠井 本当にそういう気がしたね。同輩として、能夫さんがそういうところで仕事をしていることに対して、嬉しいと同時に、刺激され、触発させられた。

能夫 僕の人生の中で、父の『芭蕉』もあったし、静夫さん(故観世銕乃亟さん)の披きで寿夫さんが地を謡っているのも観ているし、そういう、自分の中に『芭蕉』の系譜というか足跡というか、何かあるんだね。わからないなりにも『芭蕉』を観て、何かいいなみたいな、憧れといおうか、自分の中で何か性に合っているといおうか・・・。

笠井 性に合うというのはあるよね。その間『定家』とか『西行桜』とか、それぞれの思いでやってきたと思う。『朝長』なんかも別の意味で思いのある曲だったよね。それぞれに感動があったけれど、『芭蕉』はそれらともちょっと違うんだな。つまりあなたの資質みたいなものが、寿夫さんとの出会いもあり、喜多流のDNAを発見しつつ、そういう流れの中で曲にうまく出会ったという・・・ね。

能夫 まさにそうです。普通に歩んできたら何もなかった。その人の歴史がないと、『芭蕉』にも行き着かないのかな。『芭蕉』をやるには、シテの思いはもちろんだけれど、囃子方も、観る方のこともあるし、全てのものが揃わないといけないし。たまたま年を経たから『芭蕉』をやりますというやり方では『芭蕉』は成立しないようですね。

笠井 成立しないね。

明生 そういう人はだいたい『芭蕉』を選ばないでしょう。

能夫 選ばないよね。あんな面白くもないような、客受けもよくないような曲ね。でもそういう曲を選択できた自分というものを誉めてあげたいと思うんだ。

笠井 そうだね。

能夫 僕のように『芭蕉』に憧れるというのはそうないかもしれないけど。自分がやりたい!と思うこと、でもそれだけではなくて、いろいろな状況といおうか、自分の成長もあるし、いろいろな出会いというか、いろいろなことがないと、『芭蕉』という曲はできない。

笠井 菊生先生がこの間「阿吽」の巻頭に能夫さんの『芭蕉』を地謡として支えるということを書いておられたけれど、いい文章だった。とてもいいと思った。そういう能夫さんを支える人たちがいる、そういうものがなければできないね。

能夫 本当にありがたいよ。自分だけではできない!笛の仙幸さんはいろいろなことを考えながら『芭蕉』を吹いてくださっているよね。余り艶が出てはいけないので、自分なりにこうやってみるとおっしゃって、ある決まったパターンではやっていないね。曲を吹くということで、真摯に、身を削るような思いでやっている。それで、申し合わせのときに、この吹き方がいやだったら言ってね、なんて言うんだよ、嬉しいよね。僕なんかからすれば仙幸さんは大先輩ですよ。もう『芭蕉』だって段違いに多くやっているわけだから、僕はただ「お願いします」と身を委ねる立場なのに。それも仙幸さんとのおつき合いの歴史があるからなんだなとつくづく感じさせられました。やっぱり歴史がないとできない。

笠井 それにお客さんの集中もよかったしね。

能夫 そうね。あんなに長かったのに、「長く感じませんでした」と言ってくれる人が多かったのでホッとしているんです。

笠井 お客さん、観る方にも歴史が必要ということなんだよ。歴史を要求する芸能だね、能というのは。それほどでもないわかりやすい曲もあるけれど、ことに『芭蕉』はそう。

能夫 能というものを知らないと、『芭蕉』のよさも感じられない。そういうことはすごく感じましたね。やる人も観る人も、その人の歴史というか、そういうもので勝負するしかないということを感じましたよ。

明生 能夫さんは、『芭蕉』は自叙伝を書くようなつもりでやると言っていましたね。

笠井 そういうことだろうと思う。能というのは単純に開かれた芸能ではないということを思い知るね。あの『芭蕉』に立ち会える人というのは、能を、そして能夫さんの芸をある程度観てきてくれた人でないと・・・ということがある。僕の観劇体験からいって、他の演劇も含めていろいろ観てきたけれど、今回の『芭蕉』はやっぱり記憶に残る舞台だった。ああいう舞台を観て、能フリークになり追っかけるんだね。追いかけたくなる何かを、ある瞬間に役者は出してくれるときというのがある。能夫さんの『芭蕉』はまさにそういう舞台。

明生 土屋さんは、寿夫さんを感じたと言ってられた。

笠井 ある意味そういうものでしたよ。でも寿夫さんとも違った。寿夫さんほど硬質なものではなかった。もう少し柔らかい月の感じでしたよ。

能夫 土屋さんが、すごく女性を感じたと言って下さったんですが。

笠井 女性的なんだよ。かといって、先代の銕之亟さんのような色気ではない。寿夫さんのような硬質な美学でもない。能夫さんのは澄んでいて、且つ丸みのようなものも感じた。

能夫 僕、静夫さんのお披きのとき、寿夫さんが地頭だったけれど、それを観ているんです。静夫さんの『芭蕉』は非常に情緒的なんだよね。僕は当時、『芭蕉』といえば、もっと寒々とした、冷え冷えとした無機的なものだと思っていたから、あの情緒的な『芭蕉』は理解できなかった・・・。

笠井 寿夫イズムでいけば理解できないよ。

能夫 僕、当時は寿夫イズムにどっぷり漬かっていたから。情緒的な『芭蕉』はいやだなと思った。でも、あれは静夫さんという人の体質で、能というのは演じる人によって、すごく幅があるということを感じた。それも地頭は寿夫さんで、寿夫さんが謡っているんだよ。だけどそれで行けちゃうんだ。人間性というか、体質というか、思いとか、それらが対峙できる曲なんだね。

笠井 人間性が出るんだよ。寿夫さんはおそらく、抽象度の高い謡を謡っていたと思う。あの時代だから。

能夫 そう、そういう謡だった。地は冷ややか、シテは情緒的、こんな彩りが豊かでいいのかという舞台だったよ。お互いがそれぞれの人間性や体臭というものを出して、それがぶつかり合いながらいい味を出していた、そういう感じなんだ。

笠井 なるほどね、その人の体質というか人間性が出るわけだね。

明生 ところで、今回、能夫さんの一つの工夫として、小書「蕉鹿之語」(しょうろくのかたり)を入れましたね。「列子」周穆王篇(しゅうぼくおうへん)にある「芭蕉葉の夢(蕉鹿の夢)」の故事、つまり、狩人が鹿を射て、ひとに見つけられないようにと芭蕉の葉で隠したけれど、その場所を忘れてしまい、夢と諦めたという話ですが、それをアイ語りで入れるという・・・。

能夫 ある人の説では、もともと、ああいうアイの語りがあって『芭蕉』という曲ができたのではないかというんだ。あれがあることで後シテと響き合ってくるのであって、あれがないと「芭蕉葉の夢のうちに、男鹿の鳴く音は聞きながら・・・」と来たってわからないわけでしょ。「蕉鹿之 語」があるからこそ、よりわかりやすいはずなんだ。そういうことを発見し、自分がやるときに、替えアイを入れる小書に挑戦する、そういうことが喜びというかね。こういう喜びを次の世代の人たちにわかってもらいたいよね。

明生 ただ型通りやるのではなく、曲のありようを考えて、自分のものを創り出す喜びですね。
ところで笠井さんは、能夫さんの能は素晴らしかったけれど、あの時の地謡は必ずしもよいとはいえないと最初におっしゃっいましたが、そこのあたりをもう少しくわしく聞かせてくださいませんか。『芭蕉』のときの地謡は父が地頭で、友枝さんがいらして・・・と、今の喜多流では、ある程度最強メンバーを揃えたと思いますが。三月に「橋の会」で友枝さんが『隅田川』を連続して(中一日あけて二日)勤められたときも父が地頭でしたが。それらに駄目が出てしまうと、私としては今後どうしたらいいのか。一体どこをどうしたらいいのか、それがわからなく私としては次に進めない気がして・・・。『芭蕉』という曲が難しいからということなのか、それとも・・・。

笠井 僕は『隅田川』の二日間も観たし、『芭蕉』も観せてもらった。菊生先生の地謡、特に『隅田川』は頂点だろうと思う。いいと思いました。非常に力強いものを感じたし、菊生先生が考えている『隅田川』の感情の起伏はこうなんだというのをすごく感じた。だから課題は菊生先生のじゃない。菊生先生のは文句なしにいい地謡だった。ただそれがシテの友枝さんの方法論に添っているかといったら、ちょっと違うかもしれない。能夫さんのシテともちょっと違うというところはある。そこがすごく難しい問題で、一番の課題だろうね。その後の世代が引き受けていかないといけない課題だと思う。
でも明生さん、貴方の親父さんの『隅田川』の地謡は文句なしに感動させるものだったし、ああいう地謡があっていいと思う。

能夫 ああいう謡い方は、他の流儀にはちょっとないよね。

明生 「橋の会」が終わった後の宴席で、「あんなに大きい声でガンガン謡ったら、また評論家に何か言われるでしょうね」と言ったら、宝生閑さんが「今日の菊ちゃんの謡は、昔の宝生みたいだった」って・・・。

笠井 昔の宝生みたいというのは知らないけれど、ある表現をしようと思ったら、ああなるんだろうね。

能夫 誠心誠意、謡うとそうなりますよ。

明生 ある程度、音はエネルギッシュに出ていないと駄目でしょ。

笠井 それはそう。だけど曲によっては、引き方というか、体の中を通してのエネルギーと、外に出るエネルギーとがあると思う。

能夫 そこが難しいんだよ。

笠井 『隅田川』は号泣したっていいんだよ。ところが『定家』はそうはいかない。「哀知れ」と謡ったときに、身を砕く哀れさを表現するには、いくら大声を出しても伝わらないわけで、内向する力が必要なんだ。寿夫さんにはそういう身を砕くような表現があったと思う。

能夫 ありました。

笠井 それが銕仙会がよく言う引く謡ということなんだ。

明生 『芭蕉』ではどうなんでしょう。

笠井 『芭蕉』は難しいね。『隅田川』の謡のようにはいかない。『定家』とも『西行桜』とも違う。引いた謡が必要だけれど、『芭蕉』は少し暖かくてもいい・・・。

能夫 それはそう思うよ。

笠井 だから、地謡が必ずしもいいとは思わなかったということなんですが・・・、シテを邪魔するほどではなくて、全体としてそれほど気にはならなかったということ。菊生先生が『芭蕉』を謡っているというのはよくわかるけど、ただ、周りが気を合わせていないというか、共有していないという気がした。あの『隅田川』は、みんなで共有している・・・。

明生 共有している・・・それは親類、親子でもあるし、手慣れた曲ということもあるのではないかなー。

能夫 わかる範囲だから。

笠井 『隅田川』は共有できている。だけど『芭蕉』はちょっとバラついたという感じ。それでも、菊生先生の重鎮らしい何かが伝わってきたし、シテを支えていたとは思う。

能夫 菊生叔父はやっぱりスケールの大きさというか、そういうもので支えてくれたと思う。みんなが共有するには、ある価値観というか、共有する思いみたいなものがないといけないんじゃないかな。僕だったら、たとえば寿夫イズムといってもいい、そういう思いがあるけれど、何かみんなが一つになる魂みたいなものを集結しないとむずかしいかもしれないな。『芭蕉』はそういう面でも難しい曲ですよ。

明生 思い、というか自分で何かを持っていないと何もできないと、能夫さんが私に話してくれましたよね。

能夫 『芭蕉』という曲は、伝承とかいうものではなくて、やはり、役者の心とか生きざまとかというものでなければできないのではないかな。型を伝えたからといってできるものではないから。もう伝えようがないよ。

笠井 伝えられない、その余白が能の豊かさですよ。

能夫 豊かさですね。

笠井 型とか技というよりは、心、生涯なんだ。もっと言えば、失った時間の豊かさなんだ。豊かさを表現できるのはどう逆立ちしたって若いうちにはできないよ。僕と能夫さんは五十四歳だけれども、それでも二十代、三十代の人たちとは違う。体がきかなくなった分、どれだけの歯がゆさを自分の心の内に持つか。六十、七十、八十になったらもっとそう、失ったものに対して、ある、いい受け容れ方をしたときに輝くんだと思う。年齢を重ねるというのは、私はまだまだできる、あいつらには負けないと言っているうちは駄目で、自分はこう生きてきて、これがやりたくて、ここに来たよということが大事なんだ。そう思えるようになったとき、すごく豊かなものが見えてくる。能夫さんの『芭蕉』にはそういうものを感じました。能夫さんの心の内にある、思いのたけの伝え方がとてもいい感じだった。生涯に記念すべき一曲を創ったと思うよ。

能夫 ある程度、何というのかな、ここはちゃんとクリアしないと先はないという意識がありましたね。思いのたけがあって、たどり着いたという感じ。上から棚ぼた式に落ちてくるのではなくて、自分からこうしたい、こう上って行くというか、そういうことを感じましたね。父の『芭蕉』があって、静夫さんのシテや寿夫さんの地頭を観たり、そういう出会い、めぐり合いでたどり着いたというか、そういうことがすごく嬉しく思いますよ。でもようやくたどり着いたという感じ。早くはないだろうな。観世流でいえば、志を持った人間なら、『芭蕉』が五十三、四歳じゃ・・・。

笠井 遅くないよ。早い方ですよ。

能夫 早いも遅いもないか。最近はほとんどやらないからね。

明生 友枝昭世さんが演られてますが、他はうちの父も演じていないから・・・。

能夫 『芭蕉』という曲を素敵と思わないのかな・・・。でも、そんな風に言い出したのは寿夫さんなんだよ。昔もほとんど『芭蕉』はやられていなかったから。でもまあ幸せですよ。ある年齢で『芭蕉』にたどり着いたというか、憧れていたものが実現できたわけですからね。自分の力もあるだろうが、みんなの力があって・・・ね。

明生 今日は能夫さんの憧れの曲『芭蕉』について、思いきり語れて良かったです。
これは粟谷能の会ホームページのロンギの部屋に記載したいのですが、本当はすぐにでも記載したいのですが、能夫さんから阿吽が出来てからにしてとのことで、しばらくは公開されませんが、よい対談になったと思うので公開が待ち遠しいと思います。ありがとうございました。

(平成15年4月割烹千倉にて)

写真「芭蕉」 撮影 石田 裕  粟谷能の会

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