我流『年来稽古条々』(10)
青年期・その四『猩々乱』披き以降
粟谷能夫 粟谷明生
明生─先号と先々号は粟谷新太郎追悼ということで新太郎から我々が受け取ったもの、また新太郎追善能を催して感じたことなどについての話をしました。今月からは本来の流れにもどして、「阿吽No.8」の[猩々乱披きをめぐって」以降の時代について話をしたいと思います。
能夫─僕の『乱』は昭和四十七年で二十三歳だった。『道成寺』が昭和五十四年で三十歳。それまでの間のことだよね。その七年間にやった曲が十三、十四番位。昭和四十八年『大会』から『半蔀』『野守』『小鍛冶 白頭』『二人静』『巴』『船弁慶』『熊坂』『源氏供養』と続いて、前年の五十三年に『花月』『黒塚』。この『黒塚』で『道成寺』にもある「祈り」をはじめて体験した。今思えばあの時期に『紅葉狩』とか『葵上』を演っておいてもよかったように思うな。そして、昭和四十四年頃から他流の能を観に行くようになった。最初に見たのは観世寿夫さんの『船橋』だったと思う。その時の感動から銕仙会へは度々観に行った。昭和四十七、八年頃には、銕仙会で書生をしていた浅井文義さんとの出会いがあり、互いの舞台を観に行くようになったんだ。僕の『大会』を観に来てくれた浅井君から基本の技術がしっかりした佳い舞台だったと言われ、すごくうれしかった思い出がある。面は釈迦をかけたわけじゃなく、大べし見のままで通す普通の演出だったし、自分としては教えられた通りにやっただけという意識だったけれど、喜多流の型の面白さということがあって、より鮮烈に感じてくれたんだろうと思う。最近彼が『大会』をやるというので、喜多流の後シテで一畳台をダン、ダンと飛んだりする型はどうやるのかと聞かれた。他流と交流するのはいいと思うな。その『大会』を見に来てくれたある人から「わかるけど、まだまだこれからね」って言われたのもよく覚えている。自分としては一所懸命にやったし、ベストを尽くしたのに、何でそんな評価になるのかと思ったことも確かだけど、同時に何かまだまだ先があるというか、能の奥深い世界があるということを感じさせられた。今にして思えば、その頃自分にはその先がよく解っていなかったと思うけれど。実際『大会』がやれたからといって『求塚』が出来るわけじゃないからね。それが二十四歳かな。
明生─私から見ると能夫さんは成熟してましたね。
能夫─当時は、うちの親父が地謡を謡ってくれたんだよ。そのために苦労して覚えていたのを想い出すな。
明生─あの頃の青年喜多会は私たちが演じる時は父親が地謡を謡うというのがお決まりでした。私は『大会』の袖珍本を能夫さんから貰いましたが、その本には新太郎伯父の沢山の赤い印の書き込みがあって、悪戦苦闘している様子がうかがえました。息子のために苦労していたのがはっきり残っていますよ。当時は前三人後三人の六人地謡。地頭のストレスも多かったでしょうね。
能夫─それから翌年の『半蔀』、これもよく覚えているな。
明生─その頃、青年喜多会で本三番目ものの曲がつくというのは大変なことでした。
能夫─僕は『半蔀』で袖を返して夜が明ける所を見るということにすごく抵抗があった。その頃は無機的な表現に憧れをもっていて、表面的な演技はいやだと思っていた。何もせずに見ればいいじゃないかとも思っていた。その時浅井君に、そうではなく、袖を返し、またその袖をもどすことで次の場面に進んでいけるのではないかと言われ、袖をもどすことでふーっと気分も、世界も変わるという能の仕掛けを理解出来たように思う。まあその頃は時間もあった。演能の回数も少なかったから、お互いの能は見られたし、浅井君とはしょっちゅう会って話をしていた。
明生─今の内弟子さんの方がずっと忙しいですね。
能夫─だからその頃たくさん覚えたことが今の財産というか、貯金になっていると思う。当時、能夫は舞台で地謡がどんなに謡ってもがんとして動かないやつだと思われていたんだよ。それと、『半蔀』でうちの親父や、菊生叔父から、もっと角(すみ)まで行かなきゃ駄目じゃないかって言われた時に、友枝昭世さんが、能夫には能夫の考えがあるんだろうと言って理解を示してくれた記憶がある。
明生─私も能夫さんから言われましたが、喜多流は藁屋の作り物を常座にやや正面に向けて出す、その作り物から発せられる力の広がりの限界、結界みたいなものが有って、シテはそれを超えて角の目付注ギリギリまで行かない方がいいということでしょう。
能夫─その根拠は能の型付にあるんだよ、仕舞の型付では曲の初めに角まで行って左に回ってということになっているけれど、能の型付には角まで行かないで少し右向いて隣の読経の声を聞いて、というような能的な処理の仕方が書いてある。それを仕舞と同じように動くということに対する憤りがあったし、うちの流儀の作り物の出す位置、作り物によって生じる結界というものを考え、角へ出すぎると、その結界から外れてしまうと考えたんだ。昭和五十年が『小鍛冶白頭』。喜多流独特の狐足という足使いがあり、機敏に動き廻る曲を演った。これには父達の作戦があったようなんだ。前にも述べた通り、あまり動きたがらない僕を喜多流的な次元に引き戻そうという仕掛けだった。それでも、僕にとっては、ある憧れを抱いていた曲であり、やりがいを感じて稽古をしたように思う。今その時の写真を見ると、半切をあまりにも短く着てしまっていて、スネが丸見えなんだよ。当時は装束着けに対する意識が低かったしな。でも、これを演って、動き廻る事もまた能の要素の一つであるということが体感できたんだ。それから『二人静』。これ、明生君と二人でやったんだよね。必ずしも進んでやりたい曲ではなかったけれど…。
明生─私もすごく嫌でした。あの時ははみ出し者を矯正するための曲だとしか思えませんでした。能夫さんは観世寿夫氏に傾倒して喜多流の規範から外れていると思われていたし、自分は目標が見つからず、能に自分の考えを折り込めない、能に集中できない時期でしたから。
能夫─僕はきらいな曲だったし、本当に嫌だったな。能役者にとってそれぞれ固有のこみ(主張のようなもの)というものがあって、それは本来合わせられるものではないのでね。それを殺して合わせても何の意味もない。
明生─かえって御素人のお弟子さんの方が素直で上手に合わせられたりするんですよ。当時の写真を見ると能夫さんは構えが立派ですが、私は身体も出来上がっていないというか、貧弱で、そのくせ生意気に喜多流の若い人の構えはこうだというようなものに反発があって、大人達のような一見何でもないような構えに憧れていました。写りが悪いのは当たり前です。ともかく嫌であったけれどよく稽古し合わせました。自分の中で能というものを真剣にやらねばと思ったことは確かです。
能夫─装束もあの頃は揃いのものはなかったね。紫の長絹も濃いのと薄いのとしかなくて…。
明生─能夫さんにお前は俺の影だから薄いややくたびれているほうにしろと言われ、それを着ましたね。
能夫─ともかくその頃は年二番だものね。本当にハングリーだった。だけど充実した時を過ごせたと思っています。
-つづくー
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