我流『年来稽古条々』(5)

粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』(5)

── 青年期・その一 ──

粟谷能夫  
粟谷明生  

明生─ この『我流・年来稽古条々』も今回で五回目になります。一、二回目は「子方時代」。三、四回目は「子方時代から青年期」と進んできました。
 先回は十番会で学んだことを中心に話しをすすめました。今回からは「青年期」ということで、「青年喜多会」のことからはじめたいと思います。もちろん十番会と重なる時期でもあり、どうしても時間は前後することにはなるでしょうが。
能夫─ 「青年喜多会」の頃の記憶で忘れ難いことに、千番仕舞があった。夏休みの一月程の間に、千番の仕舞を六人か七人ぐらいでやるんだから、これは大変な負荷だった。一人で一日五番ぐらいは舞わなくちゃならない。それが一月続く。毎日なにをやるか前以て決めてるわけじゃなく、同じ曲はできないので、ひとに先にやられたら大変だった。謡う方は謡本を見てもいいんだけど、どんどん謡わなくちゃならない。僕のように通いで実先生の所にいっていた者にとっては、朝から晩まで毎日稽古すると言うのは凄いことだった。本当に充電期間だったと思う。今やあんな稽古はあり得ないと思うな。実先生としては、まずは曲を覚えて何でも出来るようにということだったんだろうな。自主稽古だから先生はいないので、その日やった仕舞をノートにつけて、先生の所に持っていってチェックをうける。例えば『国栖』とか『七騎落』だったりするとこんなものじゃ稽古にならないとお叱りをうけてね。ともかく鍛えられたね。
明生─ その千番仕舞とは少し違いますが、私も覚えているのは、先輩が能の稽古を受けられた後、実先生が他の者全員、地謡の私達まで仕舞の稽古をみてくださったことです。稽古順は年上の人からですので当然私は最後の方でやることになるのですが、誰が決めたのか、暗黙の了解というか、一度出た曲は後の人はできず、違う曲目をやらなくてはいけないわけです。若い頃はレパートリーも少ないので自分のできるものを、先輩がやらないように、やらないようにと祈ってましたよ。祈りが通じないで自分が覚えているものを先にやられてしまうと、もうしょうがない、うろ覚えの自信のないのをすることになってしまいます。そうするとやはり間違えますので忽ちお叱りを受けました。
 またその稽古で、地謡を謡う時、シテが謡い始めているのに何の曲だかわからず、それがわかって謡本を必死になってひろげた時はもう終わりの方なんていうこともありました。
能夫─ 稽古は厳しいけれど教えられる事が多かったね、それと「青年喜多会」というのは「喜多会」に入れない若者の順番待ちみたいなところもあったよね。僕が入ったのは中学生の頃で、その頃は四番だてで年四回やっていたからね、ともかく友枝昭世さんから明生君ぐらいの世代までいたからね。だから一番多いときは十数人いたと思う。先輩たちが「喜多会」に出演するようになって自動的に「青年喜多会」を退会するということだったと思う。
 その頃は舞う番数も少なくて、十番会(稽古能)で一番、青年喜多会で一番だけで、うちの粟谷能の会でそろそろ一番舞えるかどうかという頃だった。本当に舞いたくてしょうがない頃で、何で親は自分たちのことを考えてくれないのかと思っていたし、このままでどうなるんだろうと不安だった。
 いま考えれば未熟だったんだから仕方ないけど、ともかくハングリーだった。
明生─ 私が「青年喜多会」に入れて頂いたのは十七歳の高校生の時で、最初は『小鍛冶』でした。その頃は四番だてで一年に二回の催しでした。私の出番は大島政允さんの『雲雀山』の次の留めで、随分年上の先輩と一緒に出来るんだなーと思いました。私にとっては同人の会というものは初めてで、それぞれの人が会計、交渉と、各分野に分かれて動いていて、舞台の他に色々と大変で忙しいという事を知りました。
 また子方時代には無かった切符の負担もあって、シテはいくら、ツレはいくら等と請求され、同人組織の在り方を知る最初でした。切符を売ることの大変さもこのあたりからです。当時は自分では売れないので、ツレ役なら自腹を切ってもいいと勝手に思い、家に切符を持ち帰らないでいましたら、父に早く持って来なくてはだめじゃないか、売れないじゃないか、と叱られました。父としては少しでもお弟子さんにチケットを渡して、息子たちの能を見て貰いたいという考えだったんでしょうけどね……。
能夫─ 確かにその頃はチケットは売れないし、自分が憧れているような曲は、なかなかつかないしね、切能が続くことも多かった。
 だから初めて『羽衣』がついたときは本当にうれしかったね。小面がかけられると思って感動した。実先生にお稽古していただいて、自分自身も一生懸命稽古したことを覚えている。それと家の装束の中から自分の好みの腰巻と長絹を出してもらった。
明生─ これと思う曲がつくと感動しますよね。最初、随分年上の方と一緒だったのですが、その方々も徐々に卒業されて、最後(昭和五十六年)には私と中村邦生さん、長島茂君の三人だけとなり、催しも年に一回の形になりました。それが六年も続いたんです。
 でも最後は忘れもしないあの番組ですよ。実先生の奥様が「先生!果水会の番組じゃございませんのよ、青年喜多会ですよ。」とおっしゃっても、「うん、いいんだ、頼政、葛城、山姥だ」と言ってやらせて下さった番組。青年喜多会らしからぬ曲立てだったわけですが、これは実に思い出に残っています。これで実先生にお稽古を受けた青年喜多会というものは一応終わることになるわけです。
 その後、新しい青年喜多会ができて私も二年程おりましたが、後輩たちが自分たちだけで出来るようになったので、私は昭和六十三年に退会いたしました。
 「青年喜多会」、それは三役の交渉に始まり、番組の印刷、出演料の計算や、お弁当の用意といった雑用まで様々のことを先輩から教わり、能会の仕組みや経営のことまでしっかり伝承されたという意味でも、良い場であったと思います。だから「青年喜多会」は自分たちの会だという意識が同人全員にすごく強くありましたね。
 最後に三人だけになって、ほとんど休む暇がなくても苦にならなかったですし、先輩の方々も自分たちの育った青年喜多会ということでよく応援して下さいました。やりがいや、これからの目標というか方向性みたいなものを感じ始めた頃です。
能夫─ 僕らや明生君の代ぐらいまでが「青年喜多会」で実先生から稽古をつけてもらった最後の世代というわけだよね。「青年喜多会」といえば『玉鬘』の時に弱々しい謡をして、祖父のお弟子さんにそれは違うのではないかと指摘されて、涙ながらに抗議した記憶がある。
 その頃は実先生の厳格な規範の枠とはちがったところで表現したいという意志もあったんだけど、やりたいやりたいという意識が先行し過ぎて、作品が深く読めなくて、情緒的な表現になりすぎていたんだと思うな。そうはいってもその所を通過したから初めてもう一つ先の世界が見えてきたんだと思う。つくづくいろんな出会いや人との出会いがなければ能は出来ないと痛感するよね。逆にいえば自分の世界の中にいただけでは駄目であって、自ら求めて先に行く必要がある。
明生─ 青年喜多会の終わった後の宴会で、その日一日の反省や舞台でのお互いの意見交換などをしていると頭に血が上ることもありますが、能とは関係ない話で終わってしまうようなときは少々物足りなく感じてしまいます。
 能というものは舞ったあとに一杯やりながらいろいろと話し合いをすると、何か必ず新しい発見があるような気がしますし、またそれを見つけようとしないといけないと思います。
能夫─ 当初は私も含めて舞台にかけるところが終着駅で、あと反省するとかいう意識がとぼしく、とにかくやりっ放しということが多かった。そのことは確かに問題だったと思う。
 「青年喜多会」の後の宴会で、先輩達の話を聞く事からはじまり、徐々に自分の意見を持つようになり、其の後、話し合える仲間ができ、機会を見つけては、能の話をするようになっていった。そういうことの積み重ねで強い連帯感が生まれ、新しい会へと発展していくのだと思うな。其の日一日の能に対し皆がしっかりした意見を持っているべきだと思う。

(つづく)


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