喜多流の謡2

◇ 息 継 之 事
 息継の事は前にも述べたが、これは最も大切なことであるに拘らず、教へる方でも習ふ方でも余り重きを置かず、口でスウ々々と音をさせて平気で謡っている向が多いやうである。口で吸った息は腹の底を通るものでなく、咽喉で止まってしまふのである。区切りの外一寸口切りして息の不足を補ふ場合は、鼻から取っていては間が伸びて拍子に外れる恐れがあるから、手取り早く口から吸ふ外はないのであるが、それとてもスウと音をさせるのは悪い。音を立ず、謡も切れぬやうに、又成るべく人に知られぬやうに、密に手取り早くしなければならぬ。所謂息を窃むので、公然と息継をするのではない。句切りの間に十分に鼻から呼吸することに慣れると、此の間に十分息を吸ひ取っているから、一句々々の間で息を窃むやうなことをしないでも済むのである。句切りの間に口を塞いでしまひ、鼻から丹田へ十分に息を取り入れることに慣れると、第一声が豊富になり、息が長く続き、声に力が入り、謡が寛たりと楽に謡へるやうになるのである。此の息継の仕方に慣れぬ間は、とかく口から息を吸ふので、スウ々々音を立てたり、息が短かくて度々吸はねばならぬ事になり、謡もせせこましく狭くなってしまふ。謡ふ前にも十分に息を丹田に入れて置き、句切りで直に口を塞いで鼻から十分に息を吸ひ込み、丹田に納まった息で十分に腹の底から声を出すことを、これ亦よくよく練習しておかないと、忙しくなって此の作用が十分に働いて来ぬ。謡の本は声に在り、声の本は息継に在るので、此の修業を怠っては、本当の謡はうたはれないといっても決して過言ではないのである。
 又息継は謡の位にも関係がある。謡の位の重いものは緩やかに重く謡ふとはいへ、謡っている間だけで位を重くしようと思ふと、謡がダレてしまふ恐れがあるから、句切りの間で此の位を取ることが、肝要である。初心の人はとかく此の句切りの間を焦って、息継を十分にせぬから、謡が忙しく狭くなってしまふのである。此の点から見ても息継といふことは謡に取りて最も大切なことである。
 又句切りの所でなく、一句の間で息を継ぐ事、即ち息を窃む場合に注意をしないと所謂「キナタ」訓みとなって、謡の文句の意が通ぜぬことがある。キナタ訓みとは或人が五條橋千人斬の事を書いた絵本を読み、弁慶がなぎなたを持ちてとあったのを、弁慶がな。きなたを持ちてと読んだので、長刀を持って居った意味が通じなかったといふ句切りに就いての譬へ話である。謡に見ても、鞍馬天狗の「其の如くに和上らうは」は文句通り「和上らう」と謡ふことの難かしい大切の場所であるが、かやうに難かしい所でないのに不注意の為に、聞いて居て何のことやら意味の通ぜぬ息継ぎをする人が少くない。「花橘」と続くべきを「花」と切り「橘」と謡ひ出すので「花橘」といふ成語がわからなくなったり、「夕まぐれ」と続くべきを、「夕」と切り「まぐれ」と謡ふ為に「夕まぐれ」といふ詞が割れてしまふ類である。道行や初同の打切前の「まだ夜ぶかきに旅立て」を「旅」で口切って「たちて」と謡ったり、「雨を帯びたるよそほひの」を「よそ」で口切り「ほひの」と謡ふなどは実際よく諸所で聞かされる不注意な謡方である。(未完)

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