銕之亟さんを偲ぶ
粟谷菊生
榮夫さんが喜多にいられた頃、初めて能がヨーロッパ公演を行った時を機に、静夫(八世銕之亟)さんと親しくなって以来、ずーっと頼れる友達であった。?能楽座を立ちあげるときも、静夫さんから話があって加わった。
青年時代と変わる事なくいつも能のことを考え、話し合う人だった。
彼には能の一曲一曲について教わることが多かったし、彼も私の意見を求めに来た。そんなときはいつしか二人とも興奮してくるのを禁じ得ず、情熱的に話し合ったことは大切な思い出である。
亡くなる四年ほど前に、平泉の中尊寺で「大原御幸」を舞うことになったが、菊生さんに後白河法皇をやってもらいたい、という。私のようなごついのがやったら貴方の邪魔をする、といったら、「後白河法皇っていうのは大もので悪い奴なんだよ だから似合っている」という。「悪い奴なんだ」と何度も繰り返すその言い方がえらく気に入って承知してしまった。心に残る舞台だった。喜多流の初同のところを、喜多流と違ってシテとツレが三人で謡うところはとても綺麗だった。そのほか思い出す舞台はいろいろあるが、式能を目黒の喜多能楽堂でやったときに舞われた「采女」で、中入りのところで何ともなく後ずさったのが心に染みた。また能楽座の一九九九年の自主公演のときに、私のシテ、榮夫さんのツレ、銕之亟さんの地頭で「通小町」を演じた。本当によい地頭だった。これが能楽座自主公演の最後だったかもしれない。
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