『桜川』を演じて 桜尽くしで描く母の狂乱
『桜川』を演じて
桜尽くしで描く母の狂乱
典型的な狂女物の構成に美しい詞章を散りばめた能『桜川』を、喜多流自主公演(平成30年5月27日)で勤めました。演じ終え『桜川』は「とても難しい曲である」が、62歳の私の正直な感想です。
生き別れた我が子を求めて彷徨う狂女物には、『桜川』のほかにも『三井寺』『百萬』『柏崎』『隅田川』など多くあります。特に春の桜のもとで狂乱する『桜川』と、秋の冴えた月下に狂う『三井寺』は対比されますが、演者の立場から比較すると、どちらかというと『三井寺』の方が高位で、『桜川』はそれほど高い扱いはされていないという印象です。『桜川』は謡や能の稽古順も早いほうです。それなのにどうして「難しい曲」なのか・・・、そのあたりを探ってみたいと思います。
『桜川』の稽古に入り、どうも気になったのが曖昧で大雑把な物語展開です。
能『桜川』は、母(シテ)が狂女になる経緯を説明する前場と、我が子を探す狂女となり謡い舞う後場の二部構成です。
まず前場の幼い桜子(子方)が母親の貧困を助けるために人商人(ワキツレ)に身を売る設定が腑に落ちません。昔は人商人が横行していて、身売りなどは珍しいことではなかったとはいえ、幼い子が自ら身を売る、という大胆な設定には無理があるように思えます。
そして善人とは思えない人商人を信じ、手紙と身代金を託し母に届けさせる設定、そして頼まれた人商人が律儀に届けてしまうのも、どうでしょう、不思議におかしく思われませんか。
更に、その手紙には、「これを機縁に母上様も御様を変えて下さい」と出家を促す、そんな大人びた幼い子が昔はいたのでしょうか。
後場では、磯部寺の住侶(ワキ)が桜子を伴い登場して、桜子と子弟の契約を交わした、と名乗りますが、どのような契約内容だったのか――。子方が僧姿ならば出家し師弟関係になったと考えられますが、稚児袴姿のため、その辺もはっきりしません。また「これにわたり候、御方は」と、住侶が幼い子を紹介する丁寧過ぎる言葉使いも、しっくり来ません。
ここで喜多流謡本に書かれている解説をご紹介します。
親子が再会する常陸の国、磯部には磯部稲荷神社があり、桜の名所で、近くには桜川が流れ、木花開耶姫(このはなさくやひめ)を祀っている。神社の文書に、五十戸(いそべ)神主祐行が鎌倉に上がったとき、関東管領の足利持氏に桜児物語の一部を献じたところ、持氏はこの物語を世阿弥に命じて謡曲に作らせた、とあります。
これによると世阿弥は、磯部寺を絡ませて春に絢爛と咲く桜と桜川、木花開耶姫信仰などのキーワードを結び付け、桜子と母の再会を入れた狂女物を作らなければならない状況にあった、と考えられます。もっともその伝説は、能『桜川』があるから、後から神社側でそのような伝説を作ったとの説もあり、どちらが本当かはわかりません。
ただ、この経緯を知ると、いろいろ腑に落ちない設定は、世阿弥の苦心作だということに行き着くのです。詞章に桜という言葉が46、花が53、これだけの桜花を散りばめた『桜川』。咲き散る桜だけをテーマに戯曲したかった世阿弥であったのかもしれません。もしそうならば、あまり些細なことにはこだわらず、能役者は桜に事寄せた春の狂女の芸の面白さを演じることに専念すれば、それでよいのでは、と未熟ながらも達観した境地になりました。
能は抽象的な芸であり、些細なことよりも、舞台人の歌舞を楽しんで見ていただくことが主と思われます。
ご覧になる方には、多少の矛盾を度外視し、不自然を気にせず問題にしない、おおらかな柔らかな発想と感情の上で観ていただくのがよいようです。能はそのようにして成立している芸能なのでしょう。
「理屈に合わないよ、そうおかしいんだよ。でもそれが能、能の面白さなんだ」と話された先人の言葉が、今ようやくわかる気がします。
では演者は、どう勤めたらいいのか。
母が我が子を探しに旅立ちしなければならなくなった場面、その事情を説明する前場は非常に短いですが、凝縮されています。理屈に合わない設定とはいえ、母親の驚き、嘆きを存分に劇的に演じなければ能役者としては落第です。後場の母の狂いに自然とつなげる謡がポイントのようです。
「あら心許なや(こころもとなや)」と文(ふみ)を開き慨嘆するところは、ただ平坦に謡っては到底伝わりません。「どういう事なの!」という驚愕と緊迫感が感じられる謡でなければいけないのです。
友枝師のお稽古では「前場はより、ドラマチックに!」とのご指導でした。
自分が思う以上に劇的に演じなければいけないことを、今回教えていただきました。
桜子(子方)は後場で住侶に連れられて登場しますが、全体的に宗教色はあまり強くなく念仏を唱える場面もありません。ただ無事親子再会を果たした後に最後のシメのように、母子共に出家し「仏果の縁と成りにけり」「二世安楽の縁深き」と、軽く仏縁で終曲しています。
磯部寺の依頼だからこそ、世阿弥は神仏への帰依を最後に入れたのでしょう。
世阿弥が本当に描きたかったものは、自分の子供を桜にみたて、名前も桜子、ご神木は桜、この地に流れる桜川、という「桜尽くしの縁」です。
母は3年かけて、宮崎の日向から常陸の国までやってきます。
常陸の国の神社からの依頼でなければ、こんなに長い道中の末の親子再会ではなく、もっと近場の、例えば京都や奈良でもよかったはず。それをわざわざ、常陸まで足を延ばさせたところに、神社からの依頼説に、私は賛同してしまうのです。
演者としては、この「桜尽しの縁」があるならば桜子に会えるかもしれないと、期待する母の心情をどう演じるか、が第一です。時は桜の節、しかし桜の花は無常にも散り始め、不安がよぎります。その憂いをどこまで伝えられるか。
一曲の見せ場「網ノ段」では、一時は子のことを忘れるほどに散る花と一体化して狂いますが、「花も桜も雪も波もみんな掬い集めたのに、これはみんな木々の花、真に私が尋ねるのは桜子。桜子が恋しい」と、急に子を思う母に立ち返り泣き伏すところを、型に頼るだけではなく、底力ある、説得力のある演技が上塗りされていないといけない、と思うのです。
『桜川』の後シテはここまで一度も座ることなく延々と立って演じます。狂女としての躁と鬱、桜と我が子への思いが交錯し変化しながらも謡い舞い続けるシテ役にとって気の抜けない時間が続きます。
稽古を始める前は、何だか取り留めがないと感じていた物語展開も、幾重にも連なる桜尽くしの母の狂いを、詞章の和歌なども深く知って演じてみると、オブラートに包まれたような、もやもやしたものが溶けていき、この能の面白さが少し分かってきたように思います。いや逆に、難しさ、に気づかされたのです。
今回の『桜川』は初演でした。先に述べたように、取り立てて位の高い能というわけでもないのに演能のチャンスはありませんでした。
十四世家元・喜多六平太先生は『桜川』や『三井寺』などの狂女物を得意としてよく演じられ、伯父の新太郎も父・菊生も、父の世代は六平太先生に憧れ、先生のお得意曲を好んで、真似て演られていたように思いますが、私にとって、これらの曲は、父たちほどに憧れの曲には入って来ませんでした。
年代によって、能役者によって、好みや流行といったものはあるようです。
それでも『桜川』を演じてみて、能の位は高くなくても侮れない曲、ということは確信しました。若い未熟な者が稽古して型だけをなぞり挑み済ますものではなく、むしろ、ある年齢になって、能役者自身が己に課す試練曲ではないだろうか、不思議とそれほどの奥行きある難曲なのだと、思っています。
この「難しさ」は観る側にも言えることで、ご来場の皆様が面白くご覧になられたならば、それは鑑賞力の高さに他ならないのです。能は演じる側にもご覧になる方にも、難しく厄介な舞台芸能です。しかし、求めていくと面白さが何倍にもなって返って来る、それが能だと。これが正直な感想です。
最後に『桜川』の面白いエピソードをご紹介します。
父が話してくれた祖父・益二郎の思い出話です。祖父が『桜川』で装束を拝借するとき、十四世宗家・六平太先生が出された水衣の色が尉(男の年寄り)向けの茶色でした。当然、浅黄色や花色が拝借出来ると思っていた祖父はガッカリだったようです。後日父が、茶色を出された訳を宗家にお聞きすると「道中、歩いているうちに汚れたんだよ」とのお返事だった、と。
笑えない、です。祖父は当時悔しく思い、こんな思いを我が子にはさせたくないと決意し、借金をしながらでも面、装束を集めるようになりました。
その心を受け継ぎ、長男の新太郎は主に面の収集に力を入れ、現在の粟谷家の装束や面があるのです。
今回の装束は、前シテは貧困な生活を送る母なので格子柄の厚板を着る選択もありましたが、やはりやや華やかな装束の方がよいと思い「紅無梶葉段模様唐織」を、後シテの腰巻は父たちが愛用した、今は少々生地が傷んでいる花色の縫箔に、水衣は浅黄色にしました。
面は「曲見」で、銘はなく、桜子の母、という感じの表情ではないのですが、とても評判の良い面なので、是非一度使いたく、敢えて『桜川』で使ってみました。案の定評判よく、面と装束の歴史に助けられた、とも思っています。
(平成30年6月 記)
写真
シテ 粟谷明生
ワキ 森 常好
子方 大島伊織
笛 藤田貴寛
小鼓 大倉源次郎
大鼓 亀井広忠
撮影 石田 裕