『俊成忠度』について
歌をめぐる物語
(1)
平成25年3月3日粟谷能の会で『俊成忠度』を勤めました。
高校生の時に父に「『忠度』はどんな曲?」と聞いたことがありました。舞囃子で『忠度』を舞うことになり「どのような心持ちで?」と偉そうに聞いたのでしょう。返って来た言葉は「薩摩の守。ただ乗り!・・・無賃乗車」でした。一瞬白け、年齢不相応な質問しやがってと思ったのだろう、と思い、それで会話をやめたことがありました。もちろん「薩摩の守!」は、笑いながらでしたが。
能には平忠度を取り上げた曲が二曲あります。世阿弥作の『忠度』と内藤河内守(細川家の武士)作の『俊成忠度』です。前者がシテ方能楽師にとって二、三度は演じたい憧れの名曲なのに対して、後者は少年期の稽古能としての扱いで、上演時間も『忠度』が1時間30?40分かかるのに対して、『俊成忠度』は40分程度で終わる小品です。『俊成忠度』は一日の興行として、他の曲との時間的なこと、位のバランスなどを配慮した時に選曲されることが多く、今回も私が一日に二番勤めることになった経緯で選曲されました。
このようなことがあり、『俊成忠度』はとかく軽く扱われ、私自身も深く考察することなく来てしまいました。今回、『俊成忠度』を勤めるにあたって、この小品をどのように演じたらよいのかを考えました。能楽学会でのゲスト講師として、この曲を取り上げることもあって、いろいろ勉強しなくてはいけなくなり、それが演能に役立ちました。同時に、小品でも作品の内容をよく把握すると、いろいろなことがわかって面白いものだと思いました。型だけをなぞり、真似だけでは越えられないものが見えてきます。
平忠度(1144年?1184年)は平忠盛の六男、清盛の腹違いの末弟で、母親は歌人として有名だった藤原為忠の娘。母を早くに亡くした忠度は熊野の豪族に預けられ、武勇を身につけながらも母の血筋を受け継ぎ歌人としても活躍し、文武両道を極めた優れた武将として名を残しています。
忠度の歌と言えば、「行き暮れて木(こ)の下かげを宿とせば、花や今宵の主ならまし」(旅をするうちに日が暮れてしまいそうだ。桜の木陰を宿とすれば、花が今宵の主ということになるなあ)が有名ですが、これは辞世の句です。千載集に撰ばれたのは「漣(さざなみ)や志賀の都は荒れにしを、昔ながらの山桜かな」(志賀の古い都、今はもうすっかり荒れてしまったが、長等山の山桜だけは、昔ながらに美しく咲いている)です。
この歌にまつわる物語と都落ちの悲劇を、それぞれの趣向で戯曲したのが能『忠度』と『俊成忠度』といえるでしょう。
(2)
平家物語には「忠度都落」(七巻)、「忠度最期」(九巻)に忠度のことが記されています。「忠度都落」には、寿永2年(1183)に木曽義仲軍に攻められた平家一門が都落ちし、忠度も同行しますが、途中で都に引き返し、和歌の師である藤原俊成卿(藤原定家の父)の邸宅を訪ねたことが語られ、能『忠度』では「狐川より引き返し俊成の家に行き歌の望みを嘆きしに」と謡われています。
忠度が自分の詠んだ百首あまりを巻物にしたため、勅撰和歌集に入るにふさわしい歌があれば、たとえ一首でもよいから入れてほしいと嘆願すると、俊成卿はこころよくこれを承知したので、忠度は喜び「前途程遠し思いを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳す」 と詠いながら西へ落ちて行ったと言われ、『俊成忠度』シテ謡の最初がこれです。
俊成卿は後に「千載集」編纂に当たり、約束通り忠度の歌から「故郷の花」という題で詠まれた「漣や志賀の都は荒れにしを、昔ながらの山桜かな」を選びますが、忠度が朝敵(天皇に反逆する者)となったため、名前を明かさず「読み人知らず」としました。この後日談も「忠度都落」に記されています。
平家物語「忠度最期」には最期の場面が語られます。忠度は一の谷の戦いで源氏方との合戦で奮戦しますが、右腕を切り落とされ41歳にて源氏方の武将・岡部六弥太忠澄に討たれます。この場面は『忠度』では紹介されていますが、『俊成忠度』ではまったく触れられていません。忠澄は箙(えびら=矢を入れる道具)に「行き暮れて木の下かげを宿とせば、花や今宵の主ならまし」と書かれた短冊を見つけ、忠度と書かれていたので、猛将を討ち取ったと大いに喜んだことが平家物語に書かれています。
(3)
能『俊成忠度』や『忠度』はこの「読み人知らず」と書かれたことへの執心で忠度が霊となって現れ、これは共通していますが、『忠度』が「行き暮れて・・・」の歌をテーマとし、都落ちの軍語りを加えるのに対して、『俊成忠度』は、俊成卿に「すばらしい歌でも、朝敵の名前を載せる訳にはいかない、読み人知らずとなってもこの歌は後世に残る、それが歌人の誉ではないか」と諭されると、すぐに納得してしまい、歌の功徳の賛美でまとめてしまいます。忠度の執心や忠度自身よりも和歌の功徳を賛美するのが作者の狙いのように思われます。
ここで、藤原俊成について少々触れておきましょう。
藤原俊成はたくさんの子供に恵まれましたが、その内のひとりにあの有名な藤原定家がいます。この親子、共に長生きで、俊成は91歳、定家も83歳までと、当時としてはかなり驚異的な寿命です。歌人は長生きと聞いたことがありますが、それを証明してくれています。
その俊成卿に後白河法皇より勅撰和歌集の編纂の勅命が下り「千載集」に取り組んだのが、寿永二年(1183年)70歳の時です。勅命が発せられてから文治四年(1188年)に奏覧と記録がありますので、5年の月日を費やしたことになります。
藤原俊成は仁安二年(1167年)に俊成と名乗り、安元二年(1176年)に63歳で出家し釈阿となります。忠度が俊成卿を訪ねたのは寿永二年ですので、勅命が下りたことは知っていたと思われます。
能『俊成忠度』では、岡部六弥太忠澄が忠度を討った後に、俊成卿のところに辞世の句の書かれた短冊を持参したように戯曲されていますが、どうもこれは作者のフィクションで史実ではないようです。
能『忠度』の霊は俊成卿が亡くなったあとに、息子の定家卿に読み人知らずを撤回してもらうようにと所縁の者に頼みますが、『俊成忠度』の方は、俊成卿本人に直接会いに出て来ます。これはいつの出来ごとなのか調べてもわかりませんでした。能は戯曲ですから、あまり史実に拘り過ぎない方が作品は面白くなるのかもしれません。
(4)
さて、前置きが長くなりましたが、舞台進行に沿って演能レポートします。
舞台は最初にシテツレの俊成が角帽子を沙門にして被り、掛絡を付けて高僧姿で登場します。我が家の伝書には「扇ばかりにて、数珠持たず」と記載されていますが、この「数珠持たず」が気になり、俊成についていろいろ調べました。「千載集」編纂の勅命を受けた時期なども調べ、出家していないのであれば、今回、狩衣の公家姿に変えてもと思いましたが、歴史的にはその時は既に出家していることがわかりました。すると「数珠持たず」は余計に解せません。私の推測ですが、昔の演者が演能中に矢についた短冊を落とす過ちをしたため、以後数珠を持たない方がよいと判断され、伝書の「数珠持たず」の記載になったと思われます。
(5)
その後で、ワキの岡部六弥太忠澄が登場し、忠度の尻籠に残された短冊を持参します。俊成卿が短冊を手に取り、忠度の辞世の句「行き暮れて・・・」を静かに詠み、初同の「いたわしや忠度は・・・」と続きます。そして、シテ忠度の霊が登場して、前述の「前途程遠し思いを雁山の夕べ・・・」と謡います。忠度は「読み人知らず」になったことへの執心を述べ、俊成卿になだめ諭されると、あっさりと歌物語に移っていきます。二の同(二番目の地謡)から、サシ、クセ、そしてキリの後半とすべてが和歌の賛美です。「千載集」云々よりも、和歌というものの宣伝マンとして、忠度はあの世から俊成の前に現れ、聴衆相手に和歌賛美を訴えたのだと思い、和歌ガイドとして舞い、謡えばよいと思い勤めました。ただ、前半の忠度自身の執心と和歌賛美の後半、カケリとキリの仕舞どころとの繋がりの部分の演じ方をうまく工夫しないといけないと思いました。
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では、このカケリは何を表しているのか。「あら名残惜しの夜すがらやな」と謡い、カケリの型に入るので、ずっと夜でいてほしい、との思いなのでしょうか。それとも、カケリの後、忠度の気色が変わり「あれご覧ぜよ修羅王の梵天に攻め上るを帝釈出で合い修羅王をもとの下界へ追っ下す」と帝釈と修羅王の鬩ぎ合いとなるので、その導入と見るべきなのでしょうか。答えが出ないまま演じてしまいましたが、そこはご覧になる方のご自由で・・・と、逃れることにします。
(7)
最後に修羅王と帝釈の戦いをもってくるあたりは、この作者・内藤河内守(『半蔀』の作者でもある)のすごいところです。
普通、修羅王というと興福寺の阿修羅を思い出しますが、日本に伝わる阿修羅像は興福寺も三十三間堂のも、神を守る側で、天界を守る帝釈天と変わりません。がしかし、『俊成忠度』では修羅王が帝釈天と敵対しているのが気になりました。
(8)
両者の戦いはインドの古い神話にある、阿修羅(アスラ)が須弥山の下の大海の神の時に、天上の神帝釈天(インドラ)と凄まじい戦いをしたことから始まります。阿修羅と帝釈は古代インドでは最初は仲間でしたが、霊薬をめぐって争い、阿修羅は敗れ、魔族となります。そして日本では密教として阿修羅は復活し、天界の守り神となりますが、面白いことに、北野天満宮にある北野天神縁起絵巻では阿修羅は赤い肌をした鬼神姿で、六道絵中の修羅道で帝釈天の軍勢と戦うところが描かれています。日本の阿修羅は二面性を持って入国しているということです。
最初この事態がわからず、興福寺の阿修羅みたいな美少年の守り神がなぜ帝釈に立ち向かわなければいけないのかがわかりませんでしたが、これで納得しました。
(9)
やがて「ややあって漣や・・・」とシテ謡から、テーマの歌が謡われます。この歌の功徳によって修羅道の責め苦から免れ、春の夜は白々と明け、修羅も帝釈も忠度の霊も消えて終曲します。
歌に対する執心や歌への賛美、こういうものが大きなテーマになるのは、時代背景があってのことかもしれません。歌は日本の文化の源であり、重要視されてきた歴史があります。今では、なぜそれほどまでに歌に執着するのかと不思議に思うかもしれませんが、文学や芸能に携わる人間なら、その心、通じるところがあるのではないでしょうか。
歌人はその生涯を閉じても、すぐれた歌は後世まで読み継がれ、消えることはありません。そして歌人の名前も残ります。忠度は「漣や・・・」の歌を読み人知らずと書かれたお陰で、その名も後世に残せたのかもしれません。平成の今の世にも語り継がれていることを、忠度はきっと想像だにしなかったことでしょう。
(10)
能も同じかと思いましたが、名人と言われた能楽師の役者名は残せても、その舞台は決して戻って来ません。ビデオで撮っておけば残せるだろうと言われそうですが、生の舞台の息吹までは残すことができないのです。そこが、能の道と和歌の道は同じようで大いに違うところです。
「能は花火のようなもの。華やかに見えたかと思うと、あっという間に消えてしまい、同じものはもう二度と見られない」は父の言葉です。
(11)
演劇は舞台そのものを生で見て、そこでなにかを感じることに重きをおきます。生の舞台を映像で伝えるのは至難の技でしょう。能は有名な和歌を多用して作られていますが、演じることと歌とはやはり大きな違いがあります。演じる舞台は花火のように消えて儚いですが、その儚さを素直に感じるところが面白いのです。
今回の演能で忠度や俊成卿、そして帝釈と阿修羅の関係などを調べることが出来て勉強させられました。小品の『俊成忠度』が大きなプレゼントをくれたとお礼を言いたいというのが、演能後の正直な感想です
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写真協力
青木信二 2,4,5,6
石田 裕 1,3,7,9,10,11
北野天神縁起絵巻阿修羅の絵 アシュラブック 北進一著より記載
文責 粟谷明生 (平成25年3月 記)
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