秋田大仙市の「まほろば能」(平成21年8月31日)にて『鵜飼』を勤めました。
『鵜飼』の物語は、安房国(千葉県)清澄の僧(ワキ)が従僧(ワキツレ)を連れて甲斐国(山梨県)へ行脚の途中、石和川(現・笛吹川)に着くところから始まります。
僧達は土地の者に宿を頼みますが、旅人に宿を貸すことが出来ない土地の決まりがある、と断られ、川沿いの御堂に泊まることにします。
夜も更けると、鵜使いの老人が現れ、鵜を休ませています。僧は高齢での鵜使いの仕事は身体にきつく、殺生の生業は佛の教えに反すると他の職を薦めますが、老人は若いときからやっているので、今更変えることは無理だと言い返します。
従僧は老人が、以前自分に宿を貸した鵜使いであったことを思い出すと、老人はその者は殺生禁断のこの川で鵜飼をしていたのが見つかり、簀巻きにされ、殺されたと語り、実は自分はその亡霊であると明かし、僧に回向を願います。
僧が回向を約束すると、老人は鵜使いの有様を見せて、名残惜しげに闇に消えて行きます。
(中入)
僧たちが土地の者に鵜使い簀巻きの話を聞き、供養のため法華経を川辺の石に一字ずつ書いて川に沈めていると、閻魔王が現れ、生前殺生をした鵜使いは無間地獄に行くべきだが、僧に宿を貸したことと、法華経の回向があった利益により、鵜舟に乗せて極楽へ送ると告げ法華経を賛美して消えて行きます。
私は「鵜之段」(「湿る松明振り立てて・・・」から中入までの仕舞どころ)を舞うときにいつも不審に思っていることがありました。私の想像する鵜飼漁と仕舞の動きに、似合わぬちぐはぐさを感じていたからです。
そこで今回演能にあたり石和川の鵜飼について調べてみました。
すると、石和地域の鵜飼漁は徒歩鵜(かちう)と呼ばれる鵜匠が川の浅瀬に入るやりかたであることを知りました。
鵜飼というと、鵜舟に篝火を灯し、鵜匠と舵取りの二人が乗り、鵜匠が数羽の鵜を操る長良川の鵜飼いを想像していましたが、石和地域ではそうではないようです。
「鵜之段」は、右手に松明を持ち左手は中啓にて鵜の動きや鵜使いの様を見せるむずかしい型所です。その動きは、まさにひとりで鵜を操る様子を見せます。
この型を考えれば能『鵜飼』も徒歩鵜と考え何も支障はないのですが、ここに一つ問題があります。『鵜飼』で謡われる「鵜舟」という詞章が引っかかりました。
「鵜舟に灯す篝火の・・・」「櫂も波間に鵜舟漕ぐ」「鵜舟の篝 影消えて・・」と鵜使いが舟に乗っていることを示す謡が随所にあるのです。
私は能『鵜飼』の鵜使いは、やはり一人で行う徒歩鵜をしていたと思いたいのですが、どうしてもこの謡が気になります。
『鵜飼』は榎並左衛門五郎の作に世阿弥が改作したと言われています。作者たちが徒歩鵜を知っていたかは謎ですが、あの鵜之段の動きはまさに徒歩鵜だろうと思います。
ではなぜ鵜使いは鵜舟に乗って登場するのでしょうか?
徒歩鵜をするにしても、現場までは舟を使っていた、とも考えられますが、まったく回答が出来ないでいます。しかし判らなくても出来てしまうのが、能の世界。それらしく謡い、型をきちっと真似れば作品は出来上がります。
今、このことを自分の中で解明出来ないまま能を勤めたストレスがあるのですが、能にはまたそのような矛盾点もあっていいのかもしれない、などと納得してもいるのです・・・。
何かご意見などがあれば、お教えいただきたいと思います。
次に前シテの語りの解釈について気になることがありました。
喜多流の謡本には、次の通り記されています。
「今、仰せられ候、岩落と申すところは、上下三里が間は堅き殺生禁断のところなり、鵜使い多し。夜な夜な忍び上って鵜を使ふ。何者なれば堅き殺生禁断の処にて鵜を使ふらん。憎し彼を見あらわし。後代の例に罧(ふしづけ:簀巻きにして水の中に沈める刑)にせんと狙ふをば夢にも知らず。またある夜忍び上って鵜を使ふ。狙う人々ばっと寄り。一殺多生の理に任せ。彼を殺せと言い合へり、その時左右の手を合わせ。かかる殺生禁断のところとも知らず候。・・・」
これを訳すと、「石和川の岩落ちという所は禁漁区域であるのに、鵜使いが多く密漁が絶えない。そこで石和の土地の者達は相談して、一人の鵜使いを掴まえ見せしめに殺し密漁を防ごうとした。ある夜、土地の者達が見張っているとも知らず鵜使いが現れ密漁をはじめたので全員で掴まえた。鵜使いは禁漁の場所とは知らなかった、もうしません、と助命歎願したが、土地の者達はだれも鵜使いの言うことを聞かず、遂に罧にして鵜使いを殺した」となります。
以前、観世座で配布された「鵜飼をめぐって・義江彰夫」に石和川の鵜飼について興味深いことが書かれていました。
義江氏は、石和という土地が、もともと伊勢神宮の御厨(みくり:荘園)であったことに注目しています。
石和地域は北条殿並びに、甲斐源氏が代々伊勢神宮の御厨として統治してきました。
諸国各地にある伊勢神宮の御厨では、魚介類が年貢の中心とされていたので、石和の御厨も同様に魚を献上していました。そのために特権を持った石和御厨の鵜使いが存在し、献上以外での漁を殺生禁断の名のもとに厳重に禁止していた、とあります。
このように考えると、岩落あたりは殺生禁断の場所ではあるが、一部特権階級の鵜使い集団がいるので、「鵜使い多し」ということなのでしょう。
では、夜になると忍んで鵜を使うのはどこの誰なのか?
また憎いと思い彼を狙った人々の素性は?と気になります。
義江氏の説明から考えると、殺された鵜飼いは石和村の特権を持たない一般の鵜使いか、または他の土地から来る外来の鵜使い、ということになるのでしょうが、二三年前に往来の僧を泊めたという詞章から外来の鵜使いというのは可能性が薄いように思えます。
私は罧というあまりに残酷な罰を、見せしめだからといって、同じ村の一般の鵜使いに行うのだろうか?とも思いましたが、逆にそこに悪行をした末の恐ろしさが書かれているのかもしれないと思います。
今回私は、石和川の一般の鵜使いの老人として演じました。
ですから、知らなかった、もうしません、との弁明の謡にも、裏があるように思えて、
真実知らなかった、というクドキ謡では信憑性がない、口からでまかせのような鵜使いのしたたかさも演じられたらと思い、そのような気持ちで謡いました。
判っているがやめられない、現代にも通じる人間の弱さ、今世間を騒がしている麻薬中毒患者たちの事件が、それを証明しています。そこには中世と現代の共通性があり、それを描いてきたことが、能を長年面白く感じさせ、継承させてきた所以だと確信しています。
では、憎いと思って彼を狙った者はだれか、普通は上記の訳のように「土地の者達が相談して」となりますが、実際は、利権を持っている者がその利権を脅かす行動に怒り、それを伊勢大神宮の名前を借りて戒める行動だと私は解釈しています。
それにしても、一殺多生の理、一人を見せしめとして殺し、今後、規則を破る者を防ぐ策としての考えは、現代の警察庁が芸能人をターゲットにして、日本の薬物汚染を一掃しようとするのに似ています。昔も今もなんら変わらないことを、能は取り上げているのです。
『阿漕』『烏頭』『鵜飼』の三曲を三卑賤といい、いずれも殺生の業を営む漁夫、猟師の苦悩がテーマとなっていますが、『阿漕』や『烏頭』は後シテが生前の姿の亡霊となり回向成仏を願い地獄の悲痛さを訴えるのに対して、『鵜飼』の後シテは閻魔王と別の人格となり、短い後場は終始、法華経の賛美でまとめるという珍しい構成です。
『阿漕』『烏頭』が密漁をすると苦しい地獄の責めに会うという殺生撲滅キャンペーン曲なのに対して、『鵜飼』は禁を犯しても法華経を信じれば救われるという救済キャンペーンの宗教歌になっています。
『鵜飼』の前場は、いけないと禁止されていても、それを破る性分、そしてその業の面白さにはまってしまう人間的なところを演じますが、後場は一変して閻魔という異次元の鬼になって、法華経を賛美、演じるので、演者としては少々やりにくさを感じる、というのが正直な感想です。ではその対応は?と聞かれれば、それは、教えの通り、淡々と力強く、どっしりとしたイメージで動き謡う、それに留まる、それが本音なのです。
『鵜飼』は「暗闇」と「月」という二つの言葉がキーポイントでもあります。
暗闇という迷い多き衆生の世界と真如の月と言われる明るく正しい世界。
暗闇を松明で照らし、鵜を使い魚を捜す鵜使いが、漁の面白さに取り付かれた様を舞う「鵜之段」の終わりに、月の光が漁の妨げになると嫌う鵜使いの心が地謡によって謡われます。
「不思議やな篝火の燃えても影の暗くなるは、思い出でたり、月になり行く悲しさよ」と。
月が出ることで篝火が利かなくなり漁がやりにくい、と鵜使い(前シテ)は嘆きながら、やがて篝火の消えるように闇路へ、闇の世界へと帰っていくのです。
昔は、型の動きや、決まりどころばかりに気を取られていた自分、この曲の面白さを教えてくれたのが闇の暗さというよりは、「月なのだ」ということを今回知りました。
「暗闇」と「月」、この対比された言葉を追うことで、『鵜飼』が描く世界の謎解きが一つできたような気がしています。
(平成21年9月 記)
写真 鵜飼 シテ 粟谷明生 撮影 石田裕
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